普段から『積み重ねの信心』ということを思わせられる。
どういう物事でも、何もなくてすぐに生まれ出てくるということはない。
良いことでも悪いことでも必ずそこには元になる事があるはずである。
教祖様は良き種を蒔いておかねば良い芽は出ては来ないと申された。
常日頃の生活の中で、どういう生き方をするのか。
本人は気にもしないような小さな事であっても、それが積み重ねられれば人から恨まれることにもなりかねない。
逆に、小さな親切であっても積み重ねていけば、人から信用され認められることもある。
教祖様を始め歴代の教主金光様が
「この方といえどもいつ神様からお暇を出されるのか油断がなりません。日々が新であります。」
と申される中にも、それがあるのではないでしょうか。
今は何も悪いことが起きてないから信心を休む。難儀に見舞われ急におかげが頂きたくて信心をする。
金光教の信心はそういったことではないと思うのです。
常日頃から絶え間なく信心をさせて頂き、心に神様の御守をかけておく。
「何もない時に参ってくるのが信心参り」
と教えられておる私共であります。それは何故か、難儀に出会っている時には多かれ少なかれ心にゆとりがなくなり、難儀に振り回されて、本当の信心に気づきにくいからです。
何もない時に、しっかり信心の話を聞かせて頂き、なるほどと心で納得させて頂く。そうして有難い心、神様の心がいつでもすぐに湧き出てくるように稽古をしておく。
そうして神様と仲良くなっておくことが、難儀に出会っても
「大難を小難に、小難を無難に」
おかげを受けて、いざという時には奇跡的なおかげも頂くことが出来るのであります。
その為に、神様と仲良くなることを考えなければいけません。
普通、人間同士でありますとどうでしょうか。
難儀な問題ばかり持って来て、その上、不足や愚痴ばかり言いに来る人と仲良くしたいと思うでしょうか。
普通で考えても嫌われてしまうでしょう。
普段はとても喜ぶことを言って気をつけて自分の働きを認め、気にかけて何かの時には助けてくれて元気づけてくれる人はどうでしょうか。
そういう人の側には人が集まってくるでしょう。
もしもの時には力を貸して助けてくれる人も現れるかも知れません。
神様と仲良くするのも同じ事、おかげを受けましたとお礼に参り、本当の願いを素直に受けて人を助ける働きを行ってくれる人は神様が喜んで下さいます。
神様に信用して頂き、もしもの時にもおかげを下さるでしょう。
御教えに
「神を信じる者は多いが、神に信じられる者が少ない」
といわれるように神様と仲良くするのは目に見えず難しいのですが、さりとて仲良くして信用を得る手段は普段からの積み重ねの信心の稽古しかないのです。
共々におかげを受けていることを見つめ、素直に認めていける心にならせて頂くことです。
疑いや否定から良きことは何も生まれてまいりません。
年齢が若いことや老人などは関係ありません。
時代社会を超え互いが互いの働きを認め合うその中であいよかけよで仲良くしていくことが、神様が一番喜ばれることではないでしょうか。
おかげを蒙らせて頂きましょう。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより12月号」より)