─ 12月のお話 ─
心のふれあい
「求め続ける信心の道」
早くも十二月を迎え、今年一年の私の信心を振り返り、何が変わってきたのであろうかと考えさせて頂きました。 まず自分は年の初めにどういう願いを立てていたのか。 「出会い」「発見」「感動」の生き方を求めさせて頂いてきたのでありますが、私は東部地区会長として御用にあたらせて頂く中に、高知県も各教会に若先生ができられ、祭典や行事をさせて頂く中に、お役に立って下されるようになりました。 私は今でも若いと思っておりますが、いつの間にやら中堅の者として、扱われるようにもなってきておる中に、それに伴うような信心がさせて頂けておるのかなあと、周りの若先生の御用の在り方を見させて頂く内に、競争ではないけれども、もう追い抜かれておるんじゃないかと反省させられることも多いものであります。 私は今年に入って基本に立ち返り、定時の御祈念に力を入れさせて頂いて参りました。 以前の私は人が参ってくる、参ってこないに左右されるように、手抜きという気持ちではないけれども、作務衣や普段着で一般のお参りのように御広前ですませていたのでありますが、お道の教師として、そんなことは習うたことはないなと反省させられ、定時だけでも黒衣に改めさせて頂き、声もしっかり出して御祈念をさせて頂くように取り組み直して、御用に向かわせて頂くようにさせて頂いて参りました。 そこで形を改めるようにさせて頂く中に、一つ感じたことは、着替えることにより、この時間は何があっても、御用に使って頂くと心を決められるということであります。 どうしても普段着でありますと、用事が思いついたり、後の段取りや色々と考えつくことがあると、御祈念を早めに切り上げてなどと人間心が出てきやすかったのですが、黒衣に着替えることにより、私の今のお役は皆の助かりを願い祈ることであり、取次者であると覚悟が決まりやすく感じました。 常からその気持ちがあられる先生方は、どのような姿であられても、迷わぬ所であるけれども、私は、どうもそこに迷いがでる。 教会長でないからとか甘えがでたり、手を抜いてしまったり、どこかで自分の心を律してさせて頂かないとふらついてしまう。 形に拘るわけではないが怠け心がでると、ついつい言い訳が出てしまうようにもなる。 常に裃つけた心で本気で祈れておれば、おかげに気づき御礼を申す心にもなれる。 おかげにならないのは、私の心が神様の願いと沿うていないからと、ハッキリ分かりお詫びを申す心にもなれる。 実意に人のことを思えば責めるより助かりを願わずにはおられんようになる。 心底から祈らせて頂き、神願に沿える私になれるよう今後も求め続けたいと存じます。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより12月号」より)
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