皆さんは、信心をされている時には、どんな気持ちで取り組んでおられますか。
御教えを読んで実践してみたり、取次される先生のお話などから、参考にして行動してみる。
その時にでも、どんな形であれ、人から言われたことを、取り組むということには、人間でありますから、信心であっても、つらかったり、苦しかったり、人によっては、見栄を張ったり、人前で人助けをされるときに、恥ずかしさを思ったり、いろんな感情が生まれたりすることもあるでしょう。
その時に、私は思うんです。嬉しくさせてもらったり、喜んでさせてもらったり、夢中になったり、ワクワクしたり、そんな信心をさせてもらうときの楽しさを判ってもらいたいと思うんです。
金光教の信心は、決して自分を縛りつけたり、つらい苦しい信心ではありません。
心を解き放していくことが信心だと思うのです。
皆さんは、趣味がありますか。
作物や花を育てたり、生き物を育ててみたり、料理を作ってみたり、魚釣りを楽しんだり、スポーツでもいいんです。
自分の好きなことに取り組んでいるときのことを思い出して下さい。
何をさせて頂くのでも、基本はあると思うのです。
何も判らない最初は、本を読んだり、人から習ったりして、取り組んでいきますが、だんだんと慣れてくると、その基本の中から、こうすれば良くなるのではないか、こうすれば成果が出るのではないかと、創意工夫をして、自分なりのやり方をしていると思うのです。
自分の中から新しいものを、生み出していく時には、失敗することもあるだろうし、時にイヤになったり、判らなくなったりすることもあるでしょう。
けれども、その度に、基本に立ち返りの繰り返しをしていく。
それゆえに成功したときの感動は、その本人にしか判らないくらいのもので、喜びに溢れていることだと思うのです。
仕事であっても、日常生活であっても、信心であっても、その事には違いがありません。
他人からみれば、何であの人は、あんなに生き生きと楽しそうに出来るのだろうかとか、疲れないのかと思うように見えていても、成功の喜びを知り、好きでさせてもらってる人は、苦労であっても苦労に思わないものです。
いつの間にか、これだけのことをさせて頂いていたのかと、また、密かな喜びに浸れるものです。
『神を信じる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである。みな天地の間にうれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである。』
教祖様は、こう御教え下されました。
しかし、実際には、どうでしょうか。
信心させて頂くのでも、まず最初の基本を覚えることもしない。
ただ教会に参って
「おかげを下さい。助けて下さい。」
と願うだけで、教典の一つでも読んでみることや、取次される先生に、お話を伺ってみることもしない。
それでいて、時に耳にする、先生のお話を聞いても、実行せずして
「なんぼ参っても、おかげがない。たいしたことない。言うてくれん。」
と不足心を出して、信心を辞めてしまう。
それでは、ただのつらい苦しいだけのことが信心だと思うのも当たり前です。
けれども、先ほど申したように、信心とは
『わが心から練り出せ』
と教えられているとおりに、信心の基本を知り、そこを取り組むことから練り出したことを
『うれしく有難く』
行うことだと思うのです。
それぞれに、信心のけいこをさせて頂きましょう。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより3月号」より)