─ 9月のお話 ─
心のふれあい
「大道をゆく信心」
日常生活は様々な事が起こり、他人の噂なども聞こえてきます。 さらに本人が病気で痛い苦しいと、その事が頭から離れず、起こりくる事が、その病気の所為で悪い事ばかりに思えて、祟りさわりや、他人の所為であるとか、本当とは違う所を問題にして難儀と感じておることも多いものであります。 また、あたかも実際の生活を見ておると、本人の行いや言動から、自ら好きこのんで難儀にしておることも多いと感じられる。 助かり難い氏子とも申せるのでありますが、さらに本当に難儀なのは、自らが原因で難儀になっておることに気づいていないこと。 常に難儀の原因を他に求めようとすることに躍起になっておる。 その根底には「私は悪くない、悪いことなどした覚えがない。」と思い込んでいることにあります。 けれども他人に悪いことをしていない人はいるのでしょうか。 よく考えてみると、都合の善し悪しから、事柄の善悪に至るまでを含めて、人が百人いれば百様に変わってきます。 当たり前と思うこと普通だと感じることも、一つ一つに至るまで家族を含め自分以外は違うという認識が必要であります。 願いは同じであると、違いを認めないところに難儀が生まれる。 実際、私にとって良いことが、他人にとって良いこととは限らない。 親切をしたつもりが、邪魔に思われてしまうことも多い。 平等を尊ぶ世の中ではあるが、すべてが平等はあり得ない。 それは人間としては平等であるが、年齢、性別、状況、様々な事が絡み合って判断されるからである。 その中にあっても、ある程度の方向性を指し示すことは出来る。 それが宗教であったり、国の社会規範や、道徳などでもある。 つまり一つの大きな山があり、指導者となる人があの山の頂上にあるものが幸せだと指し示すとどうなるか。 一人の人は道を確かめ遠回りでも道なりに頂上を目指そうとし、一人の人は、近道の崖を登ろうとするかも分からない。 またある人は、大きな望遠鏡を作り上げて、山に登らずに頂上を見ようとするかも分からない。 方法や道は他にもあるのかも知れない。 諦める人もいるし乗り物を工夫する人もいるかも分からない。 ただ一つ言えることは、幸せにたどり着くチャンスは平等に与えられたのだ。 後は自分の心次第、人を押しのけて我先に行くか、仲間と組んで計画的に取り組んでみるか、場合によっては、他の手段をとるものに対して、非難を浴びせたり、他の手段に邪魔をされていると思い込み争いになるかも分からない。 ただ、その時に忘れられやすい事が肝心の目的である、山の頂上を目指すということではないか。 組織や争いが目的ではないのだ、足の引っ張り合いは愚の骨頂。 山の頂上を目指す目的を忘れなければ他の人は関係なく、本来は自らの信じた道を目的に向けて真っ直ぐに取り組んでさえいれば、時間の違いはあっても山の頂上に着くことは出来るのである。 信心でおかげを頂くということも同じといえる。 神様はおかげを授けると、頂上で待っていて下さっているのだ。 神様の御許に向かい、おかげを受ける事さえできれば、手段や方法は問わないのである。 それが信心を進めるということではないか。 人によっては急いで、どうしてもおかげを頂かなければならない時には、神様に命を預け死にものぐるいで崖を登るかも知れない。 それでも神様の御許にたどり着くことが出来れば、おかげは頂けるのである。 また遠回りの道で年月がかかり、ケガをし、足が痛い、病気をした、それでも信心辛抱と歩みを止めずに神様の御許を目指すと、いつかはたどり着けるのであります。 教会の組織作りや宗教で一番を目指すことが目的ではない。 ただ場合によっては自分一人の力ではダメなこともある。 その時には休むこともあるだろうし家族や若い者に頼み、神様の御許まで行ってくれと頼むことは出来るのであります。 諦めてしまうと、そこで朽ち果てるだけのことであります。 今の現状、皆おかげを下さいと願いながら、半ば諦めその場に座り込んで、周りを行く人を見ては愚痴をこぼしておるだけではないか。 それでは神様の御許にたどり着けず、おかげは頂けません。 教会に参るということは、教祖様が開かれた道の、お道案内を頼むということであり、ただお道案内の案内所である教会に参って拝むだけではおかげは頂けません。 案内所である教会に参り、お取次の先生に道を問うて聞いてこそ、神様の御許、おかげへの道がハッキリするのであります。 それなのに先生に問えば金がいり損をすると思い込み、そこに集まっておる人の噂話だけで信心が分かったような気になって、真似ておかげだけを探そうとするから、皆、間違うのであります。 金光教であれば、おかげを下されるのは天地金乃神様であり、お道を開いて下されたのは教祖生神金光大神様であります。 金光教の信心のお道を求めるのに、お道を開かれた教祖生神金光大神様の御取次を頂かず、または道を教えられても、そんな道は嫌じゃと我流の我が道でおかげを頂こうとするから間違うのであります。 それは金光教の信心しておるつもりでも、余所見をして大道から逸れて小道で迷い自分で道を切り開こうとするから、難儀もするし、迷って失敗もするのであります。 自分が間違っておったと改まり、道を戻れば教会にはいつでも参ることは出来るのです。 焦っても、どうしてもお道でおかげを受けようとされるのであれば、覚悟を決めてお道を通らせてもらって黙々と進むしか、おかげへの近道はありません。 素直に教えられた通り、開かれた大道を歩むのみなのです。 本当におかげが頂けるだろうかと疑いや迷いで信心を休みすぎると、教会に参りづらくなり、よけい分からんようになるのも道理です。 教会としては、初代の足跡を元に大道に後の者が困らぬようにと道しるべを残して、先のおかげを蒙られることを祈り、信心の継承と、お育てを頂きながら御用に励まして頂いております。 共々に神様の御許に向かい信心のおかげを蒙らせて頂きましょう。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより9月号」より)
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