─ 3月のお話 ─
心のふれあい
「信心は親に孝行するも同じこと」
最近では、信心をさせてもらうのに、お礼を申すとかお詫びを申すとか、願いを先にせぬようにとか、その仕方というか手段としての祈り方を重視される方が多いように感じます。 しかし、金光教の信心は、体裁にこだわって、おかげを受ける手段としての信心では、本当に助かることは出来ないと思うのであります。 いくらお金を出したから、どれだけ日参をしたからとか、これだけ御祈念をしたからというて、神様がおかげを下されることはないのであります。 そこには神様、ご先祖様に喜んでもらいたいという真っ直ぐな心が必要なのだと思うのです。 拝み方一つ知らなくても、今の自分のあり方を通じて、何もできておらん自分であるのに、ようもここまでおかげを下される有り難いとお礼を申せば、神様は喜んでおかげを下されるのです。 また、自分のこんな生き方が間違っていた、相済みませんとお詫びを申せば許しても下さり立ち直れるようにと共に願って下されるのです。 その時に信心をさせて頂くのと、無理をするということは別であることも知らねばなりません。 子供である人間が無理をしておることを親である神様が知って見られてどう思われるのか、親として子供を心配して、 「そんなことはするな。」 と諭されることもあると思う。 難儀から逃げ拝みながら無理をして苦しむのと、神様に心を向けて、その状態を受け入れて時節を待つ辛抱とは、また助かりも違ってきます。 今の世の中は、心に余裕がないのか人の心まで心を配るということをあまりしなくなった。 そのことの中に、人間関係であっても、子供と親であっても互いにどういう思いで見ておるのか思っているのかを見て見ぬ振りというか、知っておるようで知らぬことが多いように感じるのです。 人というものは、自分が知っておることでも知らぬことでも、他人からあれこれと言われるのを極端に嫌う心があり、まして親に言われれば子供はすぐに反発をするものであるが、両方が我を張って無理をして失敗することも多い。 みな自分の力で生きておるように思っているが、どう言い訳してみたところで親があって今日まで生かされてきている自分なのだと、子供であれば悟らなければならぬように思う。 子供にとっては恩着せがましいと思っても、事実は認めることが大切であると思うのです。 その中で互いに素直になりあって、 「親のことは子が頼み、子のことは親が頼み。」 と申される心が本当のおかげを受ける心なのだと思う。 神様やご先祖様に孝行するように安心して喜んで頂けるような生き方をさせて頂くのが信心ではないかと思うのであります。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより3月号」より)
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