(*^ー゚) 教会だよりトップページへ戻る
(*^ー゚) 投稿の雑記帳へ移動
(*^ー゚) 今月のお話へ戻る

─ 2月のお話 ─

心のふれあい

「信心の真を頂きて

 立教百五十年の年柄を迎えた、本年一月十四日に、教主金光様からご任命を賜り、初代教会長、二代教会長の跡を継がせて頂き、三代教会長として、二男ではありますが、私、野村清治が就任させて頂きました。

 私は金光教教師となり、すぐに二代教会長が病気になられたために、日々、分からぬ中にも御結界に座らせて頂くことになり、御取次の御用、また祭典や日々の御祈念に使って頂くようになって十七年になります。

 その間には、少しずつ気づかせて頂くこと分からせて頂くこと、出来させて頂いたことなども多くありました。

 また各教会の先生方にも、ご指導を賜りながら信心も進めさせて頂けたように感じさせて頂いております。

 その中にあって、昨年の十二月三日から二代教会長が体調を崩され、その中に、かねてより熟考させて頂いていた三代教会長を誰が継ぐのかということを在籍教師と共に話し合いをさせて頂き、教会の御用の上においては、日々御用に当たらせて頂いていた、私(清治)が向いているのではないかと決まり、三代教会長の手続きをさせて頂くようにと申されたのであります。

 その後、八日に二代教会長の突然の入院、当初は十日程の入院の予定が、肺炎の具合が悪く、一月初めまでの入院に変更、年も新たまり、もうじき退院という頃に右目の血管が詰まり見えにくくなり、治療を施すもかいなく、医師から後には失明すると申され治療方法はないから体が良くなれば退院と申されていたのですが、その退院が近づいた奇しくも一月十四日の人工透析中に右目を押さえたところ突然に目の周辺から出血がはじまりました。

 検査をして頂くも、出血箇所が分からず、また血管が脆くなっていることも考えられ、治療といっても、直接的なことは何も出来ず、目薬にて治るのを待つ日々。

 そのご修行とも思えるような日々を過ごして、一月も終わりを迎えようとする頃に、右目周辺の出血もおかげで治して頂いたのであります。

 その二ヶ月の間、私は二代教会長に頼ることも出来ず、年末年始の御用、祭詞を始め、霊神様の事も含め、一つひとつ実際の御用を体験させられ、神様から私をお育て下されようと、御神慮(かんみはかり)の中で二代教会長を入院させられたようにも感じるのであります。

 私は今年、元日祭の時に、立教神伝を改めて頂き直そうと、幣を裁たせて頂き、立教神伝の捧読をさせて頂きました。

 私には御用の上に何かと神様の御働きが現れ始めて、おかげの流れ、うねりが変わってきたように感じられます。

 神様が好き、信心が好き、その中に、起こりくる事柄を心底、喜べる心、また神様に喜んで頂けるような生き方、御用が生まれてくるのではないかと思います。

 私は正直、難しいことは分かりませんが、信心の真とは、教祖様が幼少の時、父親の背中に背負われて宮寺に参る中に育まれた心の、理屈ではなく参らずにはおられないような、神信心が好きの心なのではないかと感じます。

 誰と比べるでもない、誰のためでもない、私はこの御道の信心が好きだからという心であれば、周りから見て苦労と見えることも、本人にとっては喜びとして一つひとつを実意丁寧に取り組めるのだと思います。

 それが思い換えとか何とかではなしに、理屈抜きの和賀心ではないかと感じます。

 ただ実際の生活の中では辛い選択の時もありますが、神様を心底、信じればこその言葉や行いもあります。

 これから教会長として御用させて頂くのでありますが、まずその神様に惚れることから取り組んでみたい。

 そこがおかげを頂けるかどうかの分かれ目だと思う。

 御教えに「縁談には、相性を調べ見合わせるより、信(まこと)の心を見合わせよ。」とありますが、神様と人間ですから、身分とか日柄の相性は調べるだけ無駄なことです。

 大事なのは信の心、互いに信じ合い、惚れあっているかどうかが大切なように思うのです。

 そこで違いが一つあるのは、教祖様や初代の先生方は、神様から一目惚れされたような方で、あとの多くの方は、神様を一目惚れしたような方ではないかと思うのです。

 神様を惚れることは出来たとしても、神様に惚れてもらうには工夫や努力も大切だと思うのです。

 そうなると恋愛と一緒でいろいろな人がいます。

 とにかく一途に土下座して拝み倒すように迫る人や、プレゼントなど貢ぎ物で迫る人や、自分磨きに励む人など様々ありますが、肝心の神様は目先で誤魔化されるお方ではなく、好きなタイプは実直、すなわち誠実で正直な人。

 御教えにもありますが、神様は何が一番喜ばれるのか、計算尽でなしに困っている人を見た時に、かわいそうなと正直に思い、誰であってもさっと駆け寄り手をさしのべ、さりげなく自然に人助けが出来るような誠実な方が、この神様の好きなタイプなのだと思うのです。

 そういう人を見た時には、神様も思わず側に近づき、一緒になって手をさしのべようとされるのだと思います。

 その中で、神様はその人助けされる方をじっと見つめられるのかも知れません。

 他にも神様は慈しむ優しさの他、努力と辛抱強さで一生懸命に取り組む人の側にも近づき、手をさしのべて微笑んで見つめているのかも知れません。

 実際の恋愛でも見栄や傲慢、思い上がっているような人、信じてくれない疑り深い人を見て、好きになるような人も、あまりいないと思うのです。

 まずは一度、自分の姿や、態度を見つめる心も大切で、そこから改まり、神様に喜んでもらえるような生き方を求めてさせて頂けばいいのであります。

 信心でおかげを頂くのでも、同じ事だと私は思います。

 まずは心から神様を離さないこと、常に好きな人のことを思うような心が、その神様に惚れ込んだ真の心なのだと思います。

 私は、その中で神様ならきっとこうされるだろうという心を大切にさせて頂きたいと存じます。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより2月号」より)

(*^ー゚) 教会だよりトップページへ戻る
(*^ー゚) 投稿の雑記帳へ移動
(*^ー゚) 今月のお話へ戻る

Copyright(C)2001-2023 Konkokyo Church of TosaTakaoka. All rights reserved.