─ 10月のお話 ─
心のふれあい
「信心しながら信心のなき人」
教祖様は神様の御心を、次のようにみ教えになっておられます。 「人間がおかげを受けてくれなければ、神も金光大神もうれしくない。 人間がおかげを受けないで苦しんでいるようでは、神の役目が立たない。 人間が立ち行かなければ、神も金光大神も立ち行かない。」 とお示し下されております。 これはどういうことでありましょうか。 私共はそれそれに信心をしているように思っておりますが、神様からご覧になって本当に信心をしていると言えるような信心をしているでしょうか。 どうも神様からご覧になると「お前それで信心をしていると思っているのか」と言われるかも知れませんね。 天地の親神様が「信心しておかげを受けてくれよ」と諭される信心とは、どんなに苦難のなかにも、どんな嬉しい時でも、変わる事なく、神様を疑う事なく、どんな時でも神様を忘れることなく、神様を信じてどこまでもついて行く、その覚悟がどれだけあるかが、信心しているものと信心していて、してないと言われる人とに別れるのではないでしょうか。 人間はとかく難儀な時には神様にすがりますが、それも難儀が大きく耐えられない程の難儀にあえば、今度は神様を疑い「信心しても何のかいもない」と信心を捨て去り、やけくそになったりしてしまいます。 これでは信心があるとか信心をしているとは神様は思われないのではなかろうかと思います。 信心をしていてなかなか私は金光教の信心をしていますと言えない、恥ずかしいと思うということは、信心が本当に分かっていないということ。 また自分の生き方が信心にかなっていないことが、信心していると言わせないのではないでしょうか。 だからこそ信心に自信がないのではありますまいか。 信心を自信をもって語られるということは、神様をしっかりと掴んでいらっしゃるということです。 おかげをしっかりと受けておられると、それが自然に何げなく人にも信心を話しているのだと思います。 どんなに難儀な時でも堂々と信心が話せるようになりたいものです。 教祖様も信心されて難儀がなくなったから信心を話されたのではないのです。 信心しながらも難儀を抱えながら、神様を信じて難儀に立ち向かわれ一つ一つおかげにしていかれた。 ゆえに「信心は一生が修行である」とお諭し下されたのだと思います。 とかく世間では信心をすると、もお難儀や苦労の悩みなどはなくなるものと思われているようですが、そんな信心はどこにもありはしないのです。 そんな信心を言う宗教にとかく人間は惑わされ、かえって難儀をする人があり、そこから信心をないがしろにしているのではないでしょうか。 信心は難儀から逃れるのではなく、難儀に立ち向かい、難儀と共に生きてゆく力を得る、それが信心というものではないでしょうか。 信心しながら信心のなき人と言われないような信心にならせてもらうために、日々神様にすがり、おかげを受けてまいりたいと思います。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより10月号」より)
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