─ 10月のお話 ─
心のふれあい
「信心とは人間が生きる大切なもの」
日本人は、宗教をどのようにとらえているのでしょうか? 多分、有っても無くてもどちらでも構わず、また、どうでもよいとも思っているように思えるのであります。 困った事が出来た時だけ、ご祈祷してもらえるところがあればそれでかまわないという、実に身勝手な考えの人が大勢であろうか。 現実に信心をしておられる方々でも、本心を探れば8、9割は自分勝手な信心をされているのではないでしょうか。 さて、金光教の信心とは、一体どんなことを信心と教えておられるのでしょうか。 御教えに、 「ものの道理というものは何でも一つじゃ。 天地の道理を説き教えられたのが、この道じゃ。 此方の日々話すことは、この理を説き聞かしておるのじゃから、よく物の道理をわきまえて、道理に違わぬように信心せねばならぬぞ。」 と教えられ、金光教では『天地の道理に沿って生きることが信心の目的であり』、自分の思いをただ成しとげるだけの信心ではないということであります。 では難儀なことや困ったことなどをお願いしてはいけないのかと勘違いをされては困ります。 私共は天地の中に人間の力には及ばぬ働きを受けて生まれ、育てられて生きているのでありますから、病気災難や難儀な困った事などがあれば、お願いして神様のおかげを受けるのも道理であります。 しかし、そのことだけが目的になっては困ります。 そのことを通して神様のお働きを分からせてもらい、我々人間は1分1秒も神様、天地金乃神様のお働きなくしては生きていられないことを悟り、天地のあらゆる物の恩恵を受けて、生かされてあることに気づかねばなりません。 そこに気がつけば信心はどうでもよいというようなものではなく、絶対に必要不可欠なものであることが分かるはずです。 それでも分からないという人は、神様から御覧になると真に困った難儀な氏子といわれる人といえましょう。 神様の恩徳が分からせられても、自分の気ままや、欲な事を考えて教会に参拝することを止める人があります。 何と神様に申し訳ない生き方でありましょうか。 改まらせて頂きたいものであります。 そして、もっと自分を大切にして頂きたいものであります。 自分を大切にするということは、信心を大切なものと思えるからであります。 つまり信心は人を粗末にしない大切に生かす生き方でもあります。 信心を粗末にする人は自分をも粗末にされる方であり、人(他人)様をも粗末にする人でもあります。 信心とは人間が生きる大切なものと心得て取り組ませて頂きましょう。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより10月号」より)
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