いよいよ春本番を迎え、天地のすべての草木は芽を吹き、昆虫は地中から這い出して天地の息吹を感じ繁殖期を迎え、草木は美しい花々を付けて競い合い、実に見事に天地の生き様を現され人間にその働きを実感し感動させて下さいます。
この時節に天地金乃神様のご大祭をお迎えできますことは、毎年の事ながら親神様の計り知れない深く厚き思し召しであろうかと思わされます。
天地のお恵み、お働きの中に私ども人間は生かされ恵まれてそれぞれの寿命を頂き、またあらゆるものにお世話になって今日を迎えておるのでございます。
この事はなににもかえがたき有り難いことであります。人間生きている限り様々な事柄の中に精神的に難儀なことや苦しいこと、また肉体的にも痛いこと痒いことなど苦労は絶えることはありません。
しかし、生命というか寿命を頂いていることがもっともっと有り難いのであります。
難儀苦労苦しみ痛い痒いも皆生きている証であり、天地の働きを受けている証拠であり、どれほど御礼を申しても申し足りないことに気付かねばなりません。
よく参拝を御無礼する時の言い訳に、会社が忙しいからとか、仕事が休めないからと言いますがそれは参る心が無いことを仕事にかこつけて言い訳を言っているのですし、真の生命の有り難さに気付いていない人の言うことです。
どんなに忙しくてもその時に病気であったら仕事も休むはずです。身内に葬式が出れば仕事どころではないと申して休みますね。信心の真とは、出来ないことを繰り合わせてお仕えさせて頂くことから真が生まれるのです。
天地金乃神様のご大祭は、生命の源に御礼を申すのですから生命あっての仕事なのに、そこを取り違えているので真のおかげを落としてしまうのです。健康であり仕事に恵まれているから御礼参拝に行かせてもらうのである。
共々に力の入れどころを間違わぬようにしておかげを蒙らせて頂きましょう。そして、心を込めて祈り、願い、お繰り合わせを頂いて天地金乃神大祭にお引き寄せを蒙りお仕えさせて頂きましょう。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより4月号」より)