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─ 6月のお話 ─

心のふれあい

「天地のお恵みの中で

 六月の梅雨の時期を迎えて、山の木々や草花の緑も生き生きと感じられます。

 自然に生きるには雨は必要、しかし必要であっても降り続ければ根が腐ったり枯れることもある。

 しとしと雨が降る分には元気でも、叩きつけるような大雨では弱ってしまう。

 そこには自然の厳しさもあり、雨は植物にとっておかげであり、時に難儀なのかも知れない。

 人間にとっても、かけがえのない水、梅雨の時期に渇水になると水源地のダムに雨が降ってもらいたいと誰もが願う。

 作物を育てる人も適度に雨が降ってもらいたい。

 ただ出かけるときに雨に降られると難儀になる。

 私も含め人間とは勝手なものである。

 天気一つでも皆が自分の都合で神様に願いをするが、神様も難儀なことであると思うのです。

 御教えに

 「天のことを三日言わずば長者になるということがあろうがな。」

 と申されることもあり、また

 「これからは、なんぼう日照りがしても、雨をくれいくれい言うて願うな。
 くれいくれい言うて願うと、おかげをやるぞ。
 家も田地もこがらかしていぬる(押し流してしまう)ようなおかげをやるぞ。
 それでは難儀となろうがな。」

 とも申される。

 さらに

 「神様は、氏子を救い助けてやろうとこそ思うてござれ、このほかには何もないのじゃから、氏子の身の上にけっして無駄事はなされはせぬぞ。
 ご信心しておるがよい。
 みな末のおかげになるぞ。」

 とも教えて下されてあります。

 それならば人間はどうあるべきか、人間の方が信心辛抱で受けきることしかないのだと感じる。

 実際おかげと難儀は表裏一体と思うのです。

 教祖金光大神様は神様のお試しの時に、難儀を受けられても、おかげにしていったのですが、それは難儀にしない生き方とも申せるのではないか。

 それは一概に凝り固まらないで、また、ただの思いかえではなく、実際の受けておるおかげに目を向けていく生き方だと感じるのです。

 それには一つの信念「神様に無駄事はない。この神様は必ずおかげを下されてある。」と疑わずに信じることが必要であると感じるのです。

 その信念と共に、常に「気づき」を願うことが伴って神様のおかげを頂けるのであると思う。

 事に当たる中に、心の中ででも手を合わせて御取次を願うと、実際の事柄が失敗しても成功しても、何かと「気づき」おかげに道がつくことがある。

 実際にはおかげを受けているのではあるが、「気づく」かどうかが本当の分かれ道なのだと思う。

 「気づき」を常に願うということが信心の上ではおかげを受ける準備であると感じるのです。

 おかげを受ける準備があれば、突然の出来事の中でも「気づき」臨機応変に対応することも出来る。

 「難はみかげ。」

 と教えられてもありますが、例えば思いがけない驚きと共にプレゼントをもらうと感動がいつまでも心に残るようなものでしょうか。

 神様からの驚きのプレゼントかも知れません。

 それが気に入るかいらないかは、人それぞれかも知れませんが、しっかり感謝と共に受け取り、素直に喜んでみれば、開けてびっくり素晴らしいおかげが包まれているのかも知れませんね。

 天地のお恵みをドキドキ、ワクワクと素直に喜べる私になりたいものであります。

 実際に天地はおかげに満ちあふれております。

 共々に受けたおかげを気づかせて頂きましょう。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより6月号」より)

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