私どもは、この世に生まれ出てから今日まで誰一人として、一分一秒たりとも天地のお世話にならずに生きてきた方はございません。
信心するしないに関わらず天地と共に生かされ生きて今日を迎えているのであります。
この世の中のことは皆天地の働きの中で何もかもが出来ているのであります。
ところが一つだけ天地がなさらぬものがあります。
それは人間が我情我欲で生み出した争い、名誉、面子(めんつ)など様々な欲望から生み出されたものがございます。
これは天地の働きから生まれた問題難儀ではないのであり、この難儀はいくら辛抱しても助かる道は開かれません。
天地によって起こされた問題難儀は、信心辛抱により道は開かれて参ります。
金光大神様は
「時節を待たず苦をすること」
「四季の変わりは人の力にはおよばざるものぞ」
ともみ教えになっておられますように、信心をさせてもらい神様のおかげを受けてじっと辛抱をさせてもらう、私ども人間はとかく早く難儀から救われたいと思い焦りすぎて、おかげの時期が来てないのに
「早く早く」
言って、
「おかげがない」
のと言うて、神様に不足や不満を言うたり思うたりして、ご無礼を重ねております。
不平や不満、愚痴などを申したりしておりますと、折角おかげが現れても、そのおかげを取り外すことになっているのであります。
金光大神様は
「神様は、氏子の身の上に、けっして無駄事はなされぬ、みな、末のおかげになるぞ」
とみ教え下されてありますように、信心辛抱をさせてもらいながら御時節のくるのを待たせてもらうことであります。
この御時節を待つというのは、ただじっと待つのではありません。
「信心辛抱」
と言われるように、
『信心』
が大切であります。
信心とは、拝むだけではありません。
み教えを頂き、そのみ教えを生活の中に実践しつつ、辛抱させてもらうことであります。
そこから、道が段々と開かれておかげの道がついて参ります。
では、人間の我情我欲による難儀を引き起こした時は、神様にお願いするより先に、お詫びが大切となります。
神様の御心に沿わぬ生き方、人を責めたり、軽く見たり、人を当てにしたり、その上にどれ程の徳も無いのに名誉を重んじたり、面子を重んじたりして、難儀をしているのであります。
名誉や面子を重んじる方は、自分の力でこれだけの事をしたという思い上がりがあるからで、それが難儀のもとになっていることに気づかずにおるからであります。
そこに気づき、天地のお働きを受けて出来たことに感謝し喜び、人様がいてさせてもらえたのであると言うことを忘れておるところに難儀が現れてくるのであります。
難儀を生まない生き方とは、
「天地と共に生き、信心させてもらいつつ、辛抱を天地と共にさせてもらい。人様がおられるから、何事もさせてもらえたのである。自分一人の力で出来たのではない、すべての働きを受けてさせてもらったのである。」
と言う謙虚な心にならせてもらえば、すべてがおかげになって参ります。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより7月号」より)