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─ 3月のお話 ─

心のふれあい

「つながる御霊を賜りて」

 三月は御霊祭を迎えさせて頂きます。

 思いますのに信心をさせて頂く、お道にご縁を頂く、難儀苦しみから助かりたい一心で参られる方も多いのでありますが、どのような祈りでおかげを頂いたのか、信心の原点を大切にさせて頂かねばならないように感じるのであります。

 私にとっては、生まれる前から親に祈られ願われてあった、生まれてからずっと信心にふれさせて頂ける環境の中にあって、喜び、悲しみ、怪我、過ち、病気など一切、起こりくる事柄の中に子供心にも常に神様に心を向ける稽古を親の導きの中にさせて頂いていたのだと感じさせて頂くのです。

 そして、他職に就くことなく、金光教の教師にならせて頂いたので、信心を離れた生活ということを知りません。

 そのため信心に対する抵抗や、神様、御霊神様に対する抵抗は正直ありません。

 ただ、私にとっては何のために信心をさせて頂くのかが問題になるのです。

 主に命のおかげ、御守り、御導きを祈り通しての今日でありました。

 私にとってのおかげは、神様、御霊神様に喜んで頂いたご褒美のことであり、どのような形であれ、良い悪いは別に関係なく、あればうれしいと感じるものです。

 私は見えないだけで、神様も御霊神様も、身内に接するように感じております。

 信心が生活の一部になっておるようなものでありますので、逆に言えば、ここが私の信心の原点というものを語るのが難しく親の信心の延長かも分かりません。

 しいていえば、私は亡くなった姉、兄も含めると四人目の末っ子であります。

 生まれる前からの前々の良いこと悪いことすべての事柄を通じて、おかげでなければ生まれてこなかった子供かも分かりません。

 私にとっては、親のご縁、信心のおかげで今こうして生かせて頂いているのです。

 感じるのに、すべてが神計らいであって無駄事ではなかった、そう気づかせて頂いた時の中学一年の頃、自分が生まれてきた時のことなど聞かせて頂く中に、祈りを受けての私であると気づいた時が私としての信心の原点であると感じます。

 神様あっての教祖様、教祖様あっての教会、先祖あっての私であり、つながる御霊の一つかけても私はないと感じます。

 その命の御礼を申すことが御霊祭であると私は感じ祈らせて頂いております。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより3月号」より)

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