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─ 4月のお話 ─

心のふれあい

「実意丁寧の真

 私達は皆、日々おかげを頂き、お世話になっての今日であります。

 私は、信心をさせて頂く稽古として、真を求めさせて頂いております。

 私にとっての真とは何かと問われれば、「実意」すなわち、お礼を申すにしても、お詫びを申すにしても、腹から納得して本心から申させて頂くということだと感じるのであります。

 そのためには、「自覚」させて頂くことが大切だと感じるのであります。

 「自覚」をさせて頂くということは、頂いております事の良し悪しでなく「真のおかげ」にも気づくということであります。

 つまり、気づきを頂いたことに一つ一つにもお礼を申せるということなのです。

 またそれをさせて頂くことが「丁寧」ということなのではないでしょうか。

 信心をさせて頂くことには、このどちらがかけても、「真の信心」にはならないと感じております。

 では、その基本となる「真の信心」とは何でありましょうか。

 教典にある御教えを守ることでしょうか、実はそうではないと思います。

 御教えが先にあるのではなく、天地の道理に沿った御教えを「生み出す」生き方をさせて頂くことが、本当の助かりにつながる「真の信心」だと思うのであります。

 それは目先の「おかげ」を求めることが信心ではなく、真の信心をさせて頂く中に「おかげ」になるのであります。

 ここを間違うと「こんなに信心をしているのにおかげがない」と不足を申すことになり、助からない難儀な生き方になるのです。

 「おかげ」はあるが気づかないことがすでに神様から、「間違うておるぞ、気づけよ。」とお知らせ下さっているのであります。

 そこをしっかり受け取り自覚し「改まる」稽古が必要だと感じます。

 私にとっての「実意丁寧の真」とは申したことで、神様に御取次を願うということは、起こりくる事柄に向き合う時、どうさせて頂くことが真の信心であるかを問う場であり、真のおかげが何かを問うことではないかと感じております。

 神様に向かい、ああして下さい、こうして下さいと願うことは、御取次ではありません。

 そうした願いは、信心生活を基に自分で願って自分でおかげを受けるのであります。

 そのおかげが頂ける、信心生活をさせて頂くことが「真の信心」なのであります。

 そのために教会に参り、自らで信心がさせて頂けるように、御取次を頂き、話を聞いて一つでも進めて稽古をさせて頂くことが大切なのであります。

 共々に真の信心生活を進めさせて頂いて、「信心のおかげ」を蒙らせて頂きましょう。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより4月号」より)

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