エリカ対ゴマルラ

「…なんだか、ジャンルが違うような気がする」
 レニの言葉に、織姫は視線だけで同意を示した。
「すごいですねぇ。あたしだったらもう5回は間違えちゃってます」エリカは手放しで演技をほめた。3人とも今日は出番がなく、テアトル・シャノアールの2階客席にあった空席からステージを見ている。「間違えるとか言う以前の問題でーす」織姫がうんざりしたように言った。「あえて言えば、間違っているのは基本コンセプトかな」レニが静かに言った。
 ドイツ光武隊の編成で成功したからと、訓練生はみなレビューの練習もさせられるようになった。そして、3人が眼前にしているものは、男ばかり10人のラインダンスであった。「セイヤッ、セイヤッ」足が高く上がるたびに、きらきらとした汗が飛び散るのは、さすがに2階席からは見て取ることはできない。
 巴里華撃団は欧州防衛構想を担う常設教導部隊として星組を創設し、その教官としてレニと織姫が着任してから、半年になろうとしている。エリカは花組隊員兼任のまま星組隊長として、後進の指導に当たっていた。


「うわっ」思わず飛びすさったグリシーヌのすぐ脇を、シトロエンのスポーツ蒸気車が駆け抜けて行った。派手で下品なクラクション音が後から聞こえてくる。「大丈夫?」気遣う花火をよそに、グリシーヌは青い上着の裾を払うと、そこにわずかな煤煙の痕跡を見て取って顔をしかめた。
「ちゃんと落ちるかしら」花火はさすがに女性らしく、グリシーヌの怒りのポイントを正しくつかんだ。「まったく最近の若い者と来たら」グリシーヌは低い声でうなった。「あら、私たちもまだ20才にはなっていませんのよ」花火はくすりと笑った。

「ゴマルラが来る」

 太くはっきりした、成人男性の声であった。その声が雑踏の喧騒とはっきり区別されて聞こえたのは、その声が雑踏の人々全体に指向されていたせいであろう。
 声の主は、粗末な布で頭全体を覆った男性であった。「人の作る汚れた世に、ゴマルラが来る。粉塵と汚染を終わらせるために、ゴマルラが来る」その語尾は甲高く上がり、わずかな狂熱を帯びた。
「お前が終わっちまえ」知性を感じさせない男の声が群集の中から響いた。少年たちが目を輝かせて、石を拾い始めた。
「やめないか」グリシーヌが思わず割って入った。貴族の出自を名乗らずとも、その物腰には人をひるませるものがある。その隙に男性を逃がそうと花火が差し出した手を、男性は振りのけるように言った。「ライラックの庭の花々、まことに美麗なるかな、称うべきかな」グリシーヌはびくりとした。「我等を知っていると」
 ライラック伯爵夫人、通称グラン・マがテアトル・シャノアールのオーナーであることは、少し調べればわかる。しかしこのシチュエーションで、ライラック夫人の手の者か、と言わんばかりの台詞は、異常である。
「なれどわずかな愛など、ゴマルラには通じぬ。愛の旗もろとも、踏みにじられよう。哀れなるかな」頭巾に隠れて顔は見えない。いや、見えないはずがないのに、視線がそらされてしまう。それが妖力の成せる業であることにグリシーヌたちが気づいたとき、別の気配が地中から放たれた。
「花火」グリシーヌは叫びざま、街灯に飛びつくように地を蹴った。地中から細く黒いとげが無数に突き出される。
 その殺気は唐突に消え、消えてみると怪しい男性の姿はどこにもなかった。


 イギリス客船モーレタニア号は、大西洋航路をニューヨークへ向けひた走っていた。上甲板にはあかあかと灯がともり、いつ果てるとも知れない宴が続いている。華やかな上甲板、暗く狭苦しい下層の二等船室。それがこの当時の豪華客船のありようである。
「あれは、何」幼女が暗い海を指差した。
 盛り上がった黒いものは、ただの波のうねりに見えたが、じきにそうではないことがはっきりした。
 モーレタニア号の電飾は、程なく劫火によって取って代わられたが、それを視認すべき船も人もいなかった。もし音声信号を送れる距離に船がいれば、まだ人が聞いたことのない生物の叫びを聞き取ることができたかもしれないが、世界が受け取ったのは無機的なSOSの木霊だけであった。


「号外!号外!」大人っぽくハンチング帽をかぶった新聞少年が配って歩く号外を、大神一郎は何気なく受け取った。銀座はいつもの喧騒を見せているが、大帝國劇場の開場準備にはまだ早い。
「モーレタニア号が、沈没?」大神も海軍軍人であるから、モーレタニア号の名くらいは知っている。欧州大戦前の建造ながら、今もって大西洋横断の世界記録を保持している豪華客船である。
 呼び出しの携帯キネマトロンが鳴ったとき、大神は半ばそのことを予期していた。

「黒い盛り上がり、ですか。そして黒い炎」大神はつぶやくように言った。ここは帝國華撃団銀座本部。「見たのは1人や2人ではないそうよ」救助隊からの情報を整理して伝えるのは、藤枝かえで副司令である。「妖力反応は」マリアの問いを予期していたように、かえでの返答は素早い。「計測不可能。あたり一帯、妖力の海だそうよ」
「札使いを先発させる。大西洋となると、巴里華撃団の受け持ちだな」米田司令は言った。札使いとは木之本桜たちの帝國華撃団内での通称である。
「あたしたちも、今度は行かせてくれませんか」さくらが言った。前回の幽霊船をめぐる騒動では、日本とフランスの距離が障害になって、帝國華撃団は何の貢献もできなかった。そのことを多かれ少なかれ、メンバーたちは気にかけていたのである。
「おめえたちのことは、追って沙汰する」米田が言った。

「米田司令には、なにか当てがあるのですか」退出する廊下で、マリアは大神を呼び止めて小声で尋ねた。「決断を先延ばしして手遅れになるようなことは、する人じゃないからな」大神もひそひそと応じる。
「おふたりで、仲のおよろしいこと」さくらが割り込んだ。一瞬亀のように首をすくめた2人を交互に見て、さくらはふふっと笑った。「私もそう思いますわ。同じ失敗を繰り返す方でも、ありませんから」さくらもはや23才。多少の余裕は感じさせるようになっている。その余裕がいつもあると思っていると痛い目にあうことは、大神が身をもって知っているのだが。


「やあ、桜ちゃん」「」雪兎(ゆきと)さん」呼び止められた木之本桜は、うれしげに立ち止まった。大道寺知世も一緒である。ふたりの通う友枝尋常小学校は、桜の兄・桃矢(とうや)やその友人・雪兎の通う友枝中学校の隣にある。
 桜は、雪兎が持っている「有機化学」という分厚い本に目を留めた。「雪兎さん、進学なさるんですか」「そうだね。どこかの高等学校に潜り込めたらと思ってる。お買い物?」「ええ、今度のお出かけの準備で」「大変だね。ぼくも出かけるらしいね。休校届が出ていたよ」「あは、あはは」桜は曖昧に笑った。雪兎の正体は、大魔術師クロウ・リードの僕として作られた審判者ユエである。しかしユエと雪兎の人格は別になっており、ユエは雪兎の記憶を利用できるが、雪兎は自分がユエでいる間の記憶がないのである。「まあ、僕は準備しなくていいから、楽だけど」雪兎はおおらかに笑った。


「モーレタニア号のこと、本当に軍に任せておいて、大丈夫なのか」「くどいよ、グリシーヌ」グラン・マの口調にはいつにないとげがある。おそらくグラン・マ自身は大西洋上の脅威に対処したかったが、別のお偉方に押し切られたのだ、と花火は思った。
 グリシーヌと花火は、キネマトロンと蓄電池を蒸気自動車に積み込んだ野戦司令部のような車両にいて、本部のグラン・マと話をしていた。ふたりを後方に残し、エリカ、ロベリアコクリコ、レニ、そして織姫が乗り込んでいるのは、ここしばらく妖力反応がとみに高まった廃兵院である。今日は臨時休館にした上、巴里市警が周囲からいろいろな理屈をつけて一般人を締め出していた。
 廃兵院は巴里中心部にある傷病兵のための療養施設であり、軍事博物館を兼ねている。そして、ナポレオン一世の遺体が安置されるところでもある。エリカは甲冑やバナー、そして絵画が所狭しと並ぶ中を、きょろきょろおずおずと進んでいる。むしろコクリコのほうがさばさばとしたもので、動きに無駄がない。ロベリアも視線に無駄がないが、物色しているようにしか見えないのは人徳というものであろう。
「よく来たな」最初に声が響いた。やがて通路上に像を結んだその姿は、長い白ひげの老人の姿であった。
チョコパイな小僧、ネームを名乗るデース」織姫が呼びかけた。他のメンバーもそれぞれに身構える。
「わしか。わしは古き古き、いや古きもの。唯一なるがゆえに、名を持たぬもの。だが呼びたければ、コスモと呼ぶがよい」老人は言い放った。「神様だとでも言うのかい」ロベリアが冷笑する。「神? そのようなものはわしには縁がない。神が生まれたころのことを、わしは覚えているよ」コスモの声には何の気負いもなかった。「その古き古き、いや古きものが、人の世で何をたくらむ」レニが鋭く問うた。
「たくらむ?」コスモはまたも不思議そうな声を上げた。「わしは成り行きを見守るだけよ。人の世が滅ぶ、その様を見に来ただけのこと」
「ゴマルラとは何なんですか」エリカが問い詰めた。「人の世を滅ぼすなど、神が許しません」「ゴマルラは人の生み出せしもの。しかして黒き炎を振るい、人を滅ぼすもの」コスモはどこか歌うように言った。
「おじいさんも、闇の住人なの」コクリコが緊張した声を上げた。
「闇?」またしてもコスモは首をかしげる。「ゴマルラは闇のものではない。本質的に、邪悪なる者ではないのだ。それを正しく知るものの目にはなあ。強いて言えば、嬢(じょう)よ」コクリコを覗き込むように答えるコスモの声は、慈愛すら感じさせる。「光あるところに生まれる、影の住人では、あるかも知れんなあ」
「そのような戯言で預言者を装い、人心を惑わしているのか」りりしい声に皆が振り返ると、廃兵院の扉は開かれ、花火を従えたグリシーヌが逆光の中にいた。囲まれ問い詰められても、コスモの受け答えには微塵の動揺もない。「惑うは人にあり。われ、古き古きいや古きものは、惑いなどせぬ」コスモの姿が薄くなったことを、隊員たちは感じた。「ただ自然の成り行きを、見つめるのみ」声も次第に小さくなる。「待て」グリシーヌは斧を下段に構えて追いすがった。
「グリシーヌ」鋭い声を発した花火は、すでに強弓をつがえている。廃兵院の天井に向けて次々に放たれた矢は、鋭い放物線を描いて、床下から伸びる黒いとげにぶつかり、縦に裂く。「またか」すでに空転して難を逃れていたグリシーヌは見事に着地する。「姿を現せ、あやかしの者」レニが気合を込めて、ランスで地を衝く。それは物理的エネルギーよりも、霊的なエネルギーを送り込もうとしたものである。効果はすぐに出た。地面からぬっと現れたそれは、黒いハリネズミのような姿である。「ウーニィィィ。俺様はバフーン。ご主人様に歯向かう者は、俺様が串刺しにしてやる」
 じゃらん。いきなり放たれた鎖が、ウニ怪人バフーンの首に巻きついた。鎖をきりきりと巻きながら、ロベリアは言った。「あんた、串刺しが得意なのかい。だがフランスじゃ二番目だ」「じゃ、じゃあ、一番は」「あ・た・し・よ」ロベリアは色っぽく言うと、鎖を強く引いたので、バフーンは引き倒された。身を起こそうとしたバフーンの目の前で、レニのランスとグリシーヌの斧が交差した。
「皆さん、落ち着いてください、かわいそうじゃないですか。さあ怪人さん、おとなしく素直な気持ちになってくださいね」エリカの優しい言葉に、バフーンはうんうんとうなずいた。エリカの二連サブマシンガンが、ぴたりと胸の中央に突きつけられていたからである。にっこりと微笑み返すエリカを横目に、グリシーヌが問い詰めた。
「ゴマルラとは何だ。お前たちが操っているのか」「ち、違う。ご主人様はただ、ぐはあっ」怪人の体が震えたかと思うと、それは一陣の煙と化して宙に飛んだ。その先には、件の老人、コスモが再び現れている。「やはり嬢たちの力、こやつにはちと余るか。是非もなし、是非もなし」煙と化した怪人を吸い込んだのは、茶色い細口の小瓶。それを懐にしまったコスモは、薄れ、かき消える。
「気配が、消えましたね」花火が再び静かになった廃兵院を見回した。「さっきの怪人、うそをついているようには、見えなかったね」コクリコが言った。「怪人さんにも、きっと愛の心が隠れているのです」サブマシンガンを突きつけていたことを棚上げにしてエリカが言うのを、ロベリアが短く引き取った。「言ってろ」
「そのゴマルラのフェイスを拝むまで、対策の打ちようがないデース」織姫が肩をすくめた。


「新型光武のテストを見届けたかったのだが、残念だね。後は三菱の若い人たちでも大丈夫だろう」「三菱さんにはよくして頂いて、感謝しております。閣下も道中ご無事で」米田が珍しく丁寧な言葉遣いで、作業服姿の初老の男を大帝国劇場の支配人室から送り出そうとしている。ちょうど廊下ですれ違ったのは、桐島カンナ李紅蘭
「あ、あわわっ。あわわわわっ」突然泡を吹くように震えだしたのは、紅蘭のほうである。その姿を認めて、初老の男は声をかけた。「李紅蘭君というのは、君かね。いい筋を引いているそうじゃないか」「はっはっはっはいっ」紅蘭はぺこぺこと恐れ入るばかりで、相手の顔も見られない。あっけに取られて見ているのは、カンナである。「新型光武の練成はお手伝いできないが、よろしく頼んだよ」「はっはいっ。ありがとうございますっ」そのやり取りを最後に、悠然と男は去っていった。その後を再拝した紅蘭が、やにわに拍手(かしわで)をぽんぽんと打って拝んだものだから、カンナは笑い出してしまった。「どうしたんだい紅蘭」「神様に拍手打って何が悪い」紅蘭は怒る気力も吸い取られたように言った。「あれは平賀造船中将や。造船の神様や。ええスジ引けますように」紅蘭はまじめくさった顔で、もう一度誰もいない廊下に祈った。

 大帝国劇場のテラスでは、平賀を乗せたケルベロスがぶつくさ言っていた。「なんでわいがこんなおっさんを」「代わろうか」ユエが声をかけた。白い翼を広げたユエは、李小狼を抱えて飛び立とうとするところである。ケルベロスと李小狼は互いをにらみつけ、同時に決然とかぶりを振った。「私が小狼さんと交代いたしましょうか」木之本桜とともに封印の杖にまたがった大道寺知世が、何気なく提案した。「あのっ、あのっ、あのっ」今度は桜と小狼が真っ赤になって、声を揃えてうろたえた。それらすべてを静かに見守っていた平賀は、必要にして十分な一言を吐いた。「行こうか」
 ケルベロスが、ユエが、そして桜が飛び立った。「えー、おせんにー、キャラメル」大帝国劇場の通路で売り声を張り上げる木之本桃矢(とうや)はその気配を察して、天井を見上げた。「しっかりやって来いよ」声にならない呟きを漏らしたのは一瞬のことで、すぐに桃矢は自分の仕事に戻って行った。「えー、おせんにー、キャラメル」


 イギリス戦艦部隊は次々に主砲を斉射した。目標は分火の余地もない。怪しい黒いうねり、ただひとつ。必殺の放物線が交錯し、次々に水柱が上がる。
 だが。
 黒いうねりは、ついにその半身を白日にさらした。短い腕、突き出したくちばし状の口。その口が開いて、押し殺したような声とともに、黒い筋が宙を駆ける。それは真っ直ぐにイギリス艦隊旗艦を捉える。黒い筋が命中したところからむくむくと盛り上がるのは、赤い炎、そして黒い煙。一瞬の沈黙に大音響が続く。主砲塔が浮き上がったかと思うと甲板にたたきつけられ、2本の砲身は相異なる方を向いて不自然に折れ曲がる。黒いものは容赦なく隙間風のように砲塔の閉ざしていた穴に吹き込み、致命的な火柱を呼び出す。
 黒いうねりは、すでに関心を失ったように首を回し、次の艦を選んだ。


「イギリスの喪失は戦艦2、フランスは戦艦4ですか」日本海軍の駐在武官から知らせてきた戦況を読んで、大神は米田を見た。「陸軍の俺でもわかる理屈だ。イギリスにゃあ、虎の子の艦隊を全滅させてまで、フランスを守る気がねえのさ」支配人室の米田は、さばさばと笑った。「上陸は時間の問題だな。ま、ゴマルラが陸を歩けるとしてだが」「ゴマルラ?」「フランス人はそう呼んでる。理由は知らん」たったったったったっ。小刻みな足音に続いて、支配人室のドアをノックもせず開けたのは、アイリスである。「かいじゅうがフランスに向かっているんだって?」「アイリス、だめじゃないか、ノック…」「おしえてっ」アイリスがいっぱいにためた涙に、大神は先が続けられなくなった。「、ご両親を乗せたイリス号は、いまカリブ海にいるそうだ。先に言っておけばよかったな」米田が言うと、力が抜けたアイリスがへなへなと床に座り込んだ。
 開いているドアをわざわざノックしたのは、、神崎すみれである。「中尉、ちょっとお話したいことがありますの。よろしいですかしら」「あ、ああ」「ここは大丈夫だ。追っ付け、かえで君も来るだろう」米田が言うので、大神はすみれと支配人室を後にした。
 ドアが閉まったとたん、すみれが体をぴったりとくっつけてきたので、大神は息を呑んだ。「中尉、私にだけは教えていただけませんこと。帝國華撃団は、何を作っていますの」「新型の光武だと聞いている」「あら、花組のトップスタア、神崎すみれを相手に、お芝居をなさいますの」すみれの口調は優美だが、大神の顔を下から覗き込む、その眼は鋭い。「神崎重工も花やしき支部も、いつもの皆さんがいませんの。新型光武を立ち上げるこの重大なときに、三菱の助っ人の皆さんばかり」すみれは大神を見つめた。「中尉、私たちの間に、隠し事など似合いませんわ」

「大神さんっっっ」

 ふたりが廊下を向くと、そこに立っていたのは、言わずと知れた真宮寺さくら。
「すみれさん、抜け駆けなんて。離れてくださいっ」「何ですのっ。あたしが折角、中尉さんに本当のことを聞かせていただこうと」「本心ですってっ」「ええそうですわっ。直接言葉を交わしてこそ」「言い交わしているですってっ」「嘘があっては心をひとつに戦えませんわ」「一心同体ですってっ。おおお大神さんっ」
「あ、あの、さくら君がどんどん邪推していって…」
「だまらっしゃいっ。不純ですわっ」「ほい」
 何か小さなメカをさくらに差し出したのは紅蘭である。「自動邪推機よこしまくん1号や。疑う側の霊力の揺れと、疑われる側の霊力の乱れと、両方吸い込んでな」
「どうなりますの」すみれが聞いた。
 紅蘭のめがねがきらりと光った。「爆発するんや」

「お外、騒がしいね」まだ支配人室にいたアイリスが言った。鈍い爆発音と悲鳴と咳き込む声に続いて、ドアの隙間からうっすらと煙が漏れて来る。
「さて、こいつぁぶっつけ本番になりそうだな」米田は独り言を言った。「俺には時間がねえって言うのに」


 ノルマンディーの海岸は、喧騒と緊張に包まれていた。フランス陸軍が張り巡らした急ごしらえの縦深陣を有機的に結び付けようと、各級の司令部がそれぞれ懸命の努力を続けた挙句、伝令と伝令が互いに交通渋滞を起こして肝心なことは伝わらず、混乱は時間を追って増幅されてきていた。
 遠雷のように、海から水柱が立った。ゴマルラが機雷に触れたのだ。次々と上がる水柱は、ゴマルラが無事で、海岸に近づきつつあることを如実に示していた。その水柱に、沿岸砲台の砲撃が加わるが、騒がしくなるばかりで砲撃の効果は見られない。
 ごぼり、ごぼり。水面を白く波立てて、いよいよ黒いものが姿を現した。

 ギエオーン。それは叫びを上げた。

 短い腕、どこかよたよたとした短い足。その全長はゆうに30メートルを超える。丸く無表情な目は、おそらくいたるところにいるフランス軍兵士を捉えていることであろう。
 次々に陸軍の野砲が着弾する。ゴマルラを時折直撃するが、ゴマルラは意に介した様子もない。ゆっくりと、ゆっくりとゴマルラは歩いていく。その進路の先にあるものが、遠く巴里であることに、やがて軍人たちは気がついた。
 ノルマンディーの山野に据え付けられた巨大な椀のような構造物が次々に旋回し、ゴマルラを指向した。それらは一様に、急造の柱に支えられた、長い専用電線につながっている。
 突然、それらの椀の中心から、光のような、空気の揺らぎのようなものが一斉に照射された。
 ギエオーン。ゴマルラは初めて苦しげに叫びを上げた。ぱん、ぱん、ぱん。短い腕が胴をはたくと、黒い煤(すす)のようなものが空中に放たれた。それらは椀の放つ光に触れると、ぱちぱちと音を立ててはぜた。そう、フランスがひそかに開発していたメーザー砲は、マイクロ波を敵に照射する兵器なのである。
 ギエオーン。ゴマルラは口を開いた。
 黒い筋が空を切り裂いたとき、兵士たちは自分の運命に気づく暇もなかった。吹き飛ばされ、折れひしゃげたメーザー砲が、次々と大地にたたきつけられた。
 程なく、動くものはゴマルラだけになった。動ける人間も、心を砕かれて立ち上がれなくなっていた。風が、動かないものや、動かなくなったものを転がすばかりである。
 ゴマルラは、何事もなかったように、再び歩き始めた。


「ゴマルラは災いを連れてくる。動力を捨てよ。蒸気を捨てよ。自然のままに生きよ」
 巴里で辻説法を続ける預言者の周りには、最近大きな人だかりができるようになっていた。その反面、感情的な反発を食らうことも、また多かった。
「あたしの息子を返せ」老婆が叫んだ。「モーレタニア号を返せ」「黙って聞け」「何だと、この臆病者」「言ったな」支持者と排除者があちこちで小競り合いを始め、やがて広場全体が騒然となって、説法ができなくなった。
 いつの間にやら群集をするりとすり抜けた預言者は、急ぎ足で広場を離れようとしていた。その預言者に声をかけた者がいる。
「やあ、今日は早じまいかい」
 預言者は足を止めた。白いスーツに身を固めたその男は、ぽろん、とギターをかき鳴らして見せた。
「これはこれは遠方からご苦労なことだ」預言者コスモは言った。
「帝國華撃団、月組隊長の加山だ」「よいのか、正体を明かして」「隠しても察してしまうのだろう」加山の口調には気負いがない。
「人が蒸気文明を捨てれば、ゴマルラは帰るのか」「それはゴマルラが決めることだ。だが、次のゴマルラは現れない」「捨てなければ、力で倒しても次が現れるということか」「聡(さと)いな」
 ふたりの前を、貨物を満載した大型蒸気自動車が1台、黒い排気ガスを撒き散らしながら通っていった。「あれは石炭文明の、負の遺産なのか」「人が生み出したものは、人に片をつけさせるしかあるまい。他のものは迷惑するばかりだ」「他のものねえ。そのあたりが君たちの正体か」「聞いたとてどうなるものでもないぞ」コスモはいなした。
 興奮した群集の一部が、あふれ出るように公園から走り出してきた。皮肉なことに、壁にもたれて静かに語り合う預言者と加山は、すでに彼らの目に入らない。「ゴマルラの目的は何だ」「確たることはわからん。だがマンチェスター(繊維産業の世界的中心)もブラックカントリー(バーミンガム、コベントリーなど、炭鉱・鉄鉱と関連産業が集中)も素通りして、一直線に巴里を目指してくるのはなぜか、考えてみたらどうだ」「ヨーロッパで一番エネルギーを使っているのは、巴里華撃団、と言いたいのか」「わかっておればよい」こうしている間にも、ゴマルラはゆっくりと着実に巴里に近づいているはずであった。加山は立場上、そのことをよく知っていた。
 加山の足元で、黒い鋭いとげが見え隠れしている。それにちらりと視線をくれて、加山は再びぽろんとギターをかき鳴らした。
「ウニは、いいなぁ」


「ゴマルラが巴里に来るまで、あと3日もない」アパートの屋上で月を眺めながら、レニは織姫に言った。「日本にこんな月夜のお芝居、ありましたね」織姫は暗唱した。「来年の今日の月、再来年の今日の月、私の涙で押し流して見せまあす」「曇らせるんじゃなかったっけ」「細かいことを気にすると、ビッグになれませぇん」
 事態の展開が急すぎる。今から日本を発っても、大神たちが巴里防衛戦に参加することはできないであろう。
「あのひとの見る月ならば、曇らせるわけには行かない」あのひと、というレニの言い方に、織姫の女心がぴくりと反応したが、織姫の口から出た言葉はそれを感じさせなかった。「もう一度、会いたかったです」
「君たちも、眠れないのかね」平賀中将が屋上に上がってきた。急に間借り人が増えて、アパートの空き部屋はもうほとんどない。「こんなとき、人のことより、自分たちの作ったものが気になってしまう技術屋根性が、ほとほといやになる」平賀も見つめる方向は同じであった。ゴマルラのいる北西の空は、まだ何の変化も見えない。
「これから最後の仕上げだ。今夜は現場で夜明かしだな。ぶっつけ本番だが、何とか役目を果たせそうだ。これで何とか、大神君たちも間に合う」
「隊長が!!」
 ふたり同時に大声を上げたので、平賀中将は3歩ばかり退いた。「聞かされていなかったのか?」


 塗装の暇すら惜しんだと思われるそのボディは、鋼鉄の色そのままに黒光りしていて、かえって荘厳な威圧感を増している。むき出しになるはずのパイプ類は走行中の空気抵抗を減らすため、目の詰んだ金網に覆われている。
「これが、弾丸超特急あじあ号だ」米田は言った。「時速800キロ、霊子力併用とはいえ、世界最高速の蒸気機関車だ。これで巴里まで一日で行ける」
「一日でって、軌道はどうするんですか」さくらがあっけにとられて尋ねた。
「掘ったのよ。ヨーロッパまでな」米田は信じたくないものを口にするときの口調で答えた。「海軍さんのワシントン条約は、こいつの費用を世界的にひねり出すための、おとりさ。ああ紹介しよう」海軍の将官服を着た人物が、ごく自然な態度で彼らのそばにいることに、団員たちは初めて気づいた。その細長い顔は、温容に隠し切れない謹厳さを漂わせる。
「海軍の堀悌吉少将だ。今日から、帝國華撃団の指揮を執る」「何だってぇ」カンナの声が格納庫に響いた。

「大神一郎、入ります」支配人室のドアが開き、また閉じた。「来るころだと思ってたよ」米田は物憂げに言った。「聞かせていただけませんか」「何を、と聞くまでもねえな」米田は無言で大神に着席を勧めた。
「そこに紙箱があるだろう。中を見てみろ」その大きな平べったい紙箱を、大神は開けた。陸軍の将官服である。見慣れた米田のものより、素人目にも明らかに仕立てが良い。その階級章が大将のものであることに気づいて、大神ははっと顔をあげた。
「俺は今日、陸軍大将になった。急のことなんで服がねえから、宇垣さんのお下がりをもらった」「おめでとうございます」大神はあわてて敬礼し、そして続けた。「宇垣さんといいますと」「宇垣一成大将を知らんのか。船乗りでもモギリでも新聞くらい読め」米田は言った。
 宇垣一成大将は岡山の出身ながら、長州閥で固められた陸軍主流派の首領であり、陸軍大臣を何度も務めていた。「明日、宇垣さんが組閣をやる。現役の大将じゃなきゃあ、陸軍大臣にはなれねえ」「支配人が、陸軍大臣ですか」帝國華撃団が、陸軍大臣京極慶吾の野望を退けてから、まだ日が浅い。
「火のねえところに、煙は立たねえってな。京極みてえな軍国野郎を歓迎する空気があるから、奴がのさばったのよ。俺はそいつと、一戦交えに行く」米田は目を閉じた。
「大神。俺はアメリカ資本を、満州(中国東北地方)に入れるぞ」その言葉に遺言めいた響きを感じ取った大神は、ただ硬直して聞き入った。「一度手に入れたものを手放せねえのは、中がまとまってねえ証拠だ。そんな国は誰も友達扱いしねえよ。てめえが損するばかりだからな」
 諧謔(かいぎゃく)を利かせた米田の物言いに、大神は決死の覚悟を感じ取って、言葉が出なかった。陸軍の若手士官たちには、京極に心酔していた者も少なからずいるのだ。満州に外国資本を入れるなどといったら、暴発の危険は十分にあった。「宇垣さんも、上原さん(上原勇作大将。薩摩出身の野津元帥の娘婿であり、当時陸軍内の反長州閥を率いていた)も古狸だ。その古狸でも思うように動かせねえのが最近の士官どもよ。俺はそういう世界で、俺の戦をやる」米田は独白を続けた。「俺は、山崎や京極以上の大悪党になろうとしてるのかも知れん。そうなったら大神、構わず俺を斬れ」

「そんなことは、させません」柔らかいが決然とした声が、ドアから響いた。

「そのときは必ず、必ず閣下をお迎えに上がります」藤枝かえで副司令である。続いて、新しい司令の堀少将も入ってきた。
「つまらねえことを言っちまった。忘れてくれ」米田の声から鬼気が去った。「ああ、堀をまだ紹介してなかったな。こいつは隊長の大神」「大神一郎であります」大神はあわてて直立不動の姿勢をとった。「堀とは江田島の首席同士だ」米田の言葉の切れ目を見つけて、堀が口を開いた。
「堀悌吉だ。ここの支配人になると言ったら、娘たちが大喜びしていたよ。陸戦のことはよくわからないから、よろしく頼む」「陸戦のことは、こいつと副司令に任せておけばいい。それより男として、いろいろ相談に乗ってやってくれ。なにせいろいろ苦労のあるやつでな」堀は苦笑した。「ひととおり戦闘記録は読ませてもらった。さくら君の年はいくつになるのだ」「は、たしか、23になったかと」堀が一瞬言いよどんで、すぐ言葉を継いだ。「大事にしてやりたまえ。ああ、私ではそちら方面には役不足だな。同期に山本というのがいるから、今度引き合わせよう」
「堀はな。軍人のくせに折に触れて非戦思想なぞを説くものだから、すっかり浮き上がってしまってな。もっけの幸いとこちらに来てもらった」「私は、海が好きなだけの男ですよ」「海が好きなだけの男に、海軍さんは恩賜の長剣をくれるのかい」米田がからかった。
 言われて大神も気がついた。堀が下げている軍刀は、海軍大学校の首席卒業者がもらう、恩賜の長剣である。「仕事が仕事だから、ご皇威をいささかお借りすることもあるかと思って、持って来ました。だが霊力もない私がこれを抜かねばならんようでは、おしまいです。大神隊長、しっかり頼むよ」「はっ、微力を尽くします」大神は敬礼した。


「霊子カタパルト、準備良し」「各員、対加速度防御」「霊子混焼ボイラー圧力、80%、100%、120%、メインバルブ開け」濃紺のブレザーに身を包んだ、帝國華撃団・風組の3人娘は、あじあ号の運転席で発進準備に余念がない。
 用のないものは、例え花組メンバーであっても、指定された座席に座ってシートベルトを締めていなければならない。大神も例外ではない。
 ふと、右手にやわらかいものが触れる。さくらの手であった。
「今度は、巴里までご一緒できますね」
「ああ…そうだね」
「一緒に、帰ってきましょうね」
「ああ」
「ちょっと、そこ、抜け駆けは許しませんことよっ」
 後ろの座席にいるすみれからは、手をつないでいるところが見えるはずはないのだが、気配で察してしまうらしい。大神はさくらと微笑を交わすと、手を放した。

「メインタービン、順調に吹き上がっています。人工魔神器、スタンバイ」銀座本部側のオペレーションルームでは、かえでがてきぱきと確認作業を行っている。
「こいつを着るのも、今日が最後か」中将の軍服を着た米田がつぶやいた。
「夢組、詠唱開始」霊能力者部隊・夢組は、かえでの指示を受け、低い声で祝詞の詠唱を始めた。その霊力は清流が大河を成すように合わさって、鏡・剣・珠から成る人工魔神器に流れ込む。
 人工魔神器は、破邪の血統に呼応して魔を封じるというオリジナルの能力をまったく受け継いでいない。それはただ夢組の送り込む霊力に励起され、霊力的に爆発することのみを目的として作られた、まがいものである。
 鈍い光を帯びた人工魔神器が、ついにどくんと脈動した。光は急速に強まり、そして霊力の奔流が霊子電子コンバータへと流れ込む。コンバータは一瞬で崩壊するが、その最後の瞬間に、霊子カタパルトに強烈な電磁誘導を起こす。その力が、あじあ号を一気に加速させるのである。
 白い息吹に希望を乗せて、あじあ号はゆく。
 閃光に思わず目を細めながら、米田は敬礼をやめなかった。


 ルノー蒸気戦車の甲高いタービン音は互いに共鳴し、フランスの山野を揺すぶっていた。その響きは欧州大戦において、幾多の敵兵の心胆を寒からしめたものである。しかし今や彼らが対している敵は、その音にあまり感銘を受けた様子ではなかった。
 ゴマルラは地雷原に正面から突っ込んだところであった。ゴマルラが信管を起動した地雷、有線で爆破された地雷、それらに誘爆した地雷が入り乱れて、土ぼこりがすべてを覆い尽くす。その外側で待っているのがルノー戦車隊である。
 ギエオーン。その声はタービン音を打ち消すように響き渡った。最先頭の戦車が、不愉快な摩擦音とともに踏み壊される。そしてまた一台。一斉に戦車が反撃するが、ゴマルラの外皮を貫通することができない。
 再び黒い炎が、セーヌ川西岸の広々とした平野をなぎ払った。装甲板が、ボイラーが、そして車体が砕け散る。後退する戦車にも、猛進する戦車にも、等しく死が与えられていく。勇敢な士官が戦車を飛び出し、サーベルを引き抜いて何事か叫んだが、その姿は黒い炎に飲まれて、すぐに見えなくなった。
 波が草原をなでるように、人の波が野を払って広がる。戦車隊の運命を目の当たりにして、士気の崩壊した歩兵が塹壕を出て逃げ出したのである。それはもう止められなかった。機関銃で何ができよう。人に何ができよう。

「ひどいな」双眼鏡から目を離して、レニは短く言った。セーヌ河畔の古城に、彼女たちはそっと陣取っている。咲き誇る花が、悲しい。
「桜ちゃんたち、連れてこないでよかったデース。子供の見るものでは、ありません」織姫は応じた。
「見たら放っておけずに、手当たり次第に人を助けようとしただろうな。そして消耗して…」ユエは言葉を切った。
「何かしてあげたいのは、私たちも同じデース」織姫は憔悴した声を出した。
「信じたくないな」グリシーヌが言った。「これが母なるフランスの姿とは」
「そして私たちが、今度はあれと」花火は後を続けなかった。遠くにいるゴマルラの巨大さは、十分に伝わってきた。ゴマルラはまた首を回し、黒い炎を吐いた。
「イチロー」コクリコが、ぽつりと言った。


「あじあ号、ポーランド国境を通過、チェコスロバキアに入りました。ズデーテン保線区、ボヘミア保線区、減速態勢に入ります」「あじあ号、第1エアブレーキを開きました」巴里華撃団本部では、濃紺の乗務服に身を固めたメルとシーがあじあ号の運行状況をモニターしている。なにしろ世界最高速の鉄道、しかも地下鉄道であるため、加速も大変だが止まるのも大騒動なのである。トンネル内の気密性を高めて空気抵抗を大きくし、さらに列車自体もエアブレーキを開いてなんとか減速しようというのだが。
「第1エアブレーキ、破損。圧力で飛散した模様です。第2エアブレーキを展開するとのことです」シーがあわてた声を上げた。「ボヘミア保線区進入時の予定スピード、40キロ超過しています。巴里本部よりニュルンベルグ保線区、圧搾空気、予備を注入してください。全部です」メルが追加指示を出す。
「やれやれ、聞いてるだけでお肌に悪いよ。ムッシュ・平賀、大丈夫なのかい」「安全率は十分とってあります」まじめくさった返答に、グラン・マは不満げであった。
「シュツットガルト保線区に、アレスティングネットを準備させてくれたまえ」平賀の指示を聞いて、グラン・マは天を仰ぎ、次いで十字を切った。

 車輪とレールが立てる不快な摩擦音が、ようやく、ようやく止まった。
「…止まったか」静まり返った客室内で、大神がつぶやいた。「生きてるって、すばらしいですわ」すみれの声が聞こえる。「腹減った」カンナである。
「おーい、誰か生きてるかぁ」ジャン整備班長の声が、外から響いた。
 よろめき出た大神を抱きしめたのは、グリシーヌであった。エリカも、コクリコも、花火も、ロベリアもいる。そして織姫も、レニも。立ち上るほどの感情を秘めながら、誰も口を開こうとしなかった。
 明日からの戦いは、過酷なものになる。その確信を、誰もが共有していた。その直前の刹那を大神と共有できたことを深く喜ぶあまり、誰もそれを言葉に閉じ込めることができないのである。
「おおお、大神、さん」絞り出すような細い声を上げたのは、まだふらふらする身であじあ号から降り立ったさくらであった。大神を離そうとしないグリシーヌにそれは向けられていたに違いないが、巴里華撃団員たちの研ぎ澄まされ重なり合った霊気の中で、そのような声は無力であった。やがてコクリコとアイリスが抱き合い、マリアとロベリアが油断のない会釈を交わすころ、堀少将はグラン・マを見つけて敬礼した。「帝國華撃団、堀悌吉以下8名、ただいま着到、あじあ号乗務員と共に、巴里華撃団総司令の指揮下に入ります」「戦場へようこそ」グラン・マは鷹揚に応じた。


 巴里華撃団と帝國華撃団の合同会議には1階客席がそのまま使われることになった。人数が多いし、どうせ劇場を開けることは問題外だったからである。
「今までのところ、ゴマルラはいかなる攻撃も受け付けた様子がない。そうですね」マリアが言った。陰気な沈黙が、消極的な肯定のしるしだった。
「あの黒い炎については、どうなんだい」グラン・マが言った。「何らかの酸化反応、つまり広い意味での燃焼を起こさせていることは明らかです」マリアが答えた。「それだけかい」「それだけです」
「フランスが、壊れちゃう」アイリスが小さな声で言った。
「身長を比べても、ゴマルラは光武シリーズの10倍以上だ。これを縮めなければ、勝ち目はない」グリシーヌが意味ありげに、桜を見た。「何か方法はないのか」
「ビッグのカードを使えば、光武をゴマルラくらいに大きくすることはできます。ただどれだけそのままでいられるかは…」桜は語尾を濁した。
「霊力を伴う攻撃は、まだ試されていない。ゴマルラが巴里に入る前に、攻撃を試みたほうがよいと思う」堀がグラン・マを見て言った。
「試みる、じゃだめだよ。絶対に成功させなきゃ」グラン・マは応じた。
「巴里が滅びても、それでヨーロッパが滅びるわけではありません」堀は静かに言った。「人類が地球のどこかに生きている限り、われわれには守るべきものがあります。そうではありませんか、総司令」
「…こいつは、一本取られたね。その通りだ」グラン・マは苦笑した。
「聞いての通りだ。この戦いは巴里防衛のための重要な分水嶺であるが、くれぐれも軽挙なきよう厳命する」さすがに堀の訓示には迫力がある。


「あんたもけっこう、いける口やな」「こういうのはいける口って言わねえよ。あーっそれ、あたいが目をつけてたのに」「細かいこと気にしとったら、大きゅうなれへんで」「あたいは十分大きいんだよ。けっこう気にしてんだぞこのやろ」「あぐあぐあぐー」厨房でにぎやかにフランス菓子の試食会を開いているのは、カンナとケロである。
「やってますね」さくらが、厨房の入口から顔をのぞかせた。
「隊長と一緒にいるかと思ったぜ」カンナは陽気に言ったが、さくらの笑顔が弱弱しいので、心配顔になった。「けんかでも、したのか」
「今夜は…あたしたち帝都の者は」「そうか。そうだよな」カンナは間を持たせるように、手近のケーキをほおばった。「あいたいたいた」ケーキと一緒に手をかまれたケロが叫ぶ。「あ、すまねえ」
 大神は巴里華撃団の仲間たちと、月でも見ているところであろう。どんなことを話しているだろうか。何も話さず、黙って月を眺めているような、さくらにはそんな気がした。


「まだ寝ないのかい」何気なく知世に声をかけたのは、加山である。誰もいなくなった深更の楽屋に、ひとつだけ明かりがついている。
「すこし、フリルを増やしておこうと思いますの。桜ちゃんの衣装も、悔いの残らないように」知世は手元から視線を動かさなかった。
「明日は決戦だというのにか」加山は軽くからかったつもりだったが、知世は手を止めて、加山を真っ直ぐ見上げた。
「決戦だから、私は私にできることをするんですのよ。このシャノワールの外には、何かしたくても、何もできない皆さんが、星の数ほどおられるのでしょう。何かできる私は、その幸せを大事にしなくては」知世の顔には、微笑さえ浮かんでいる。
「…いかんな」
「え?」
「大人がこういうことでは、いかんと言ったんだ。何かできることを、見繕(みつくろ)って来るとしよう」加山はいつの間にやら持っていたギターを背中にして、楽屋から出て行った。


 巴里の下町に、いつしか預言者コスモを奉じて、自然に近い暮らしをする人々の集まる一角ができていた。
 何もせずに寝転がっているものも、少しばかりいた。しかし多くの者は、すでに自然から切り離されて久しく、かといって何もせずに食っていくこともできなかった。彼らは人の目を避けるように働きに行き、帰ってくると動力やその産物に触れぬように暮らした。
 あまり衛生的とはいえない一角である。そこを白いスーツですたすた歩く加山に、うさんくさげな視線がからみついたが、加山はそれを一向気にしなかった。
「朝はいいなあ」加山はコスモを目ざとく見つけて、挨拶した。朝といっても払暁のころである。
「人にとって良い朝か、悪い朝かは知らぬ」コスモは答えた。「クメの子よ、こんなところにおって、よいのか」
「あっちには、俺にできることは、ないからな」加山は早朝の薄明かりで、人々の暮らしを見はるかした。「狭いな。疫病でもあれば全滅だぞ」
「私の民というわけではない。ここにおっても、クメの子にできることは、なかろう」コスモの言葉に平仄(ひょうそく)を合わせたように、加山の足元で、鋭いとげが素早く動いて、消えた。加山はそれには応じず、建物で狭くなった空を見上げた。


 そして、容赦なく朝が来た。
 ふたつの花組のメンバーは、大きな円陣を組んで、片手を重ね合わせていた。その上に自らの右手を乗せて、大神は言った。「巴里はいい季節だ。この戦いが終わったら、みんなで花見に行こう。ひとりの遅刻も許さない。いいな」
「我等、生まれた日は違っても」グリシーヌが雄雄しく言った。
「お昼ごはんを食べるときは、一緒です」エリカが続けた。
「お前は黙ってろっ」ロベリアが言った。
「がんばりましょう。みんな、一緒だから」さくらが言った。みんな大神と一緒なのか、怖いのはみんな一緒なのか。あいまいな表現だった。そんなさくらを見て、すみれがくすりと笑った。
「帝國華撃団、巴里華撃団、両花組、出撃」「了解!」
 大神の檄に答えて、隊員たちは一斉に光武に乗り込んだ。次々にタービンに命が吹き込まれ、重々しい足音がそれに続く。先年の戦いで失われた弾丸列車エクレール・フォルトの略同型機エクレール・ヌーボーは、すでに蒸気を吹き上げていた。その車体にブルボン王家の白百合と並んで、花弁16枚の菊が描かれているのは、整備班員たちの心づくしである。
「今度ばかりは、あたしも逃げようかと思ったさ。だが、もう他に行くところがないんでね」ロベリアはマリアに言った。「逃げるのは、つらいことです。戦う場所のあるのは、幸せなことですよ」マリアは答えた。
 エクレール・ヌーボーは、高く高く出発の汽笛を鳴らした。目指すは巴里西方。北西へ蛇行するセーヌ川がもはや、巴里の護りを果たさぬ地。


 光武が次々と地下から現れるのを見届けて、桜は巾着袋からカードを取り出し、ひらひらと舞わせた。「かの者たちを、怪しきゴマルラと同じ丈と成せ。星々の力を以(も)って、桜が命じる。ビッグ!」封印の杖が一閃する。
 むくり。むくり。むくりむくり。光武は次々に巨大化し、ゴマルラと肩を並べる大きさとなる。
 ヘアッ。妙な音に最初に気づいたのは、アイリスであった。「なに、このヘアッて」「光武のサスペンションから出ているようだな。巨大化で何か無理が出たんだろう」大神が明るく言った。「さあ、行くぞ」ヘアッ。ヘアッ。光武が動くたびに男性が叫ぶような音がする。
「ぶっ飛べぇぇぇ」エリカ機が、口径15センチくらいになったガトリングガンを連射すると、薬莢がごろんごろんと地上に降り注ぐ。「種も仕掛けも、なんぼでも作ったる」「おいで、子猫たち」紅蘭とコクリコの協力攻撃で、大小の子猫が目も開けられない密度でゴマルラに降り注ぐ。
 視界が晴れたとき、ゴマルラは微動した様子もなかった。ゴマルラの目が凶暴に光り、黒い炎が放たれる。「織姫くん」大神が叫んだ。織姫が思わず目を閉じかけたとき、緑色の小さなものが視界を横切った。「翠雨請来、急急如律令(すいうしょうらい、きゅうきゅうにょりつりょう)」少年の声が響く。そして目の前で、激しく黒いものと白いものがぶつかり合った。
 織姫が目を開けたとき、イタリアンローズに彩られた織姫の光武は全体に黒く汚れ、ところどころ黒いところができて、ぶすぶすと煙を上げていた。「あ…あ」あっけに取られながら、織姫が手足を動かしてみると、重大な損傷はないようであった。
「黒くても火ならば、水で和らげることはできるはずだ。桜はビッグの維持に集中しろ」ユエに抱きかかえられた李小狼は、空中から怒鳴った。「は、はいっ」高い木のこずえに陣取った桜は答えた。「やるやつですわね」ケルベロスに乗った知世がつぶやいた。「しかし、これではあっという間に消耗してまうで」眼下で動き回る14体の巨大光武を見て、ケルベロスが言った。
「大神君、長引かせるな」さすが俊才をうたわれた堀司令は、見たこともない形態の戦闘で、何がボトルネックになるかを早くも読み取っていた。
「あたいを踏み台にしな」「心得た」ゴマルラに急接近したカンナ機の頭を踏んで、グリシーヌ機が斧を振り上げる。振り上げられた斧の先端は、2体の巨大光武の身長にそれを越える斧の長さを加えて、地上から100メートルに達していたかもしれない。
 ゴマルラはその大きさを考えれば俊敏とすらいえる動作で、グリシーヌの一撃を避ける。しかしその注意は上に集中し、備えに大きな穴が開いた。
「一気に決めるぞ、すみれ君、さくら君、ロベリア」大神はとっておきの近距離攻撃機を呼び集めると、走り出した。
「もらいます」さくらが太刀(たち)を振りかぶる。
「渡しませんわ」すみれが長刀(なぎなた)を下段に構える。
 両翼に展開する2機の中央をすり抜けるのは、地中に半身を沈めたロベリア機。「最後に笑うのは、あたしさ!」そしてその背中に乗り、身をかがめていた大神機が、やにわに伸び上がる。「人生、綱渡り! 奥義・八方佳人(おうぎ・はっぽうかじん)」刃渡り15メートルになろうかというシルスウス鋼の双刀が、うなりを立てて振り下ろされる。

 ギエオォォォォン。ゴマルラは悲しげな声を上げた。切り下げられた両肩から、黒い煤塵が血のように噴き出し、飛び散る。そしてゴマルラは天を仰ぐように膝を折り、倒れた。
「や、やったぜ」カンナが叫んだ。
「大神さん」「隊長」さくらとグリシーヌが競うように大神を呼んだ。
「うわぁ」作戦司令室では、シーがはしゃいだ声を上げた。「どうしたのよ。メル。メル。素直に喜び…どうしたの、メル」
「死んでない…死んでないわ。ゴマルラの妖力反応は、ほとんど下がってない」メルは信じられないものを見るように、計器を見つめた。
「じゃ、じゃあ」シーはもう笑っていなかった。
「再生してるのよ。きっと時間はそんなにないわ」メルが言うと、すぐグラン・マの指示が飛んだ。「ムッシュ大神。もう一度攻撃しな。ムッシュ。ムッシュ」「誰か、桜君を保護しろ」堀司令は、華撃団員たちが混乱している理由に思い当たった。木之本桜が魔力を使い果たして意識を失い、光武も元の大きさに戻ってしまっているのである。「現員確認次第、帰投せよ。グラン・マ、これでよろしいですね」「あ、ああ」グラン・マは堀に生返事をした。


「勝ちきれなかったようじゃのう」コスモは加山に言った。加山のもとには、携帯キネマトロンを通じて戦況が逐次送られてきている。「ゴマルラは影ゆえ、影を消せば光もまた消える。それが理(ことわり)よ」
「ゴマルラはいつ復活する」加山は尋ねた。
「そうさのう。闇はゴマルラに力を貸さぬ。光とともに影が生ずるのは、明日の夜明けといったところか」コスモは言った。


 ゴマルラから目が離せないので、エクレール・ヌーボーはパリ郊外に止まったままである。作戦司令室にいたグラン・マたちも、夜になると最前線に移ってきた。巴里市警がテントと発電設備を調達して、巴里華撃団のために前線本部をこしらえてくれたのである。
「何かとご不自由でしょうが、何なりとおっしゃってください」エビヤン警部はいつものように、グラン・マに慇懃に申し出た。「ありがとう、エビヤン警部。いつもすまないね」テントの照明は明々(あかあか)とともり、人々の気分とどこか不釣合いである。
「ご迷惑をおかけしました」木之本桜が入ってきたので、グラン・マは驚いた顔をした。「もういいのかい」「ええ」「休めるときには、休んでおおき。またあたしは、あんたをこき使わなけりゃならないんだからね」グラン・マの言葉には明るい響きがあった。
「明日は思い切って、巨大化させる光武は、大神君のもの1体にしようと思うんだ。そのほうが、桜君の負担は小さいだろう」「は、はい」桜はあいまいに堀司令に返答した。
「まだ見つからへん、言うことやな。あいつを完全に倒す方法が」桜の肩から、ケロが顔を出した。「なななななな、なんです、これは」エビヤンが仰天した。「ああ、これはね。新型の携帯キネマトロンさ。売店の売り物に偽装しやすいだろ」「あ、ああ、そうでしたか」「あー、あー、本日は晴天やで」ケロが突然棒読みのような声を上げた。「あ、本官は、その、お邪魔しました」エビヤンが慌てふためいて退出したあと、ケロはため息をついた。
「こういう大事なときに、ムッシュ・加山はどうしているのかねえ」グラン・マはぼやいた。「こういうときに前線を離れていられるのは、馬鹿か臆病者か、でなければよほどの勇者です」堀は天気の話でもするように言った。「自分の責任で、何か探っておるのでしょう」
「光と、影」ユエが言った。「影だけを消し去ることはできない」「その影と、お話しできないの?」
 グラン・マが突然立ち上がったので、桜は怒られるのかと思ってびくりとした。グラン・マは、「ちょっと外の空気を吸ってくるよ」と言って、すたすたとテントを出て行った。

 夜のパリ郊外は冷え込んでいる。前線本部はちょっとした高台にしつらえられていて、巴里の明かりを少し眺めることができた。
 巴里には、まだ明かりがある。人々の暮らしがある。
 その巴里に戻ることができるかどうか。グラン・マには確信がなかった。もし巴里華撃団が敗れ、巴里をゴマルラに明け渡すことになれば、グラン・マは指揮を堀に委ねて、ひとりでゴマルラに対するつもりであった。策があるわけではない。グラン・マは拳銃の入ったポシェットを、何気なくまさぐった。
「やあ僕のベルじゃないか、会いたかったよ」調子の良い声に、グラン・マは振り返った。フランス陸軍の軍服を着た、金髪で大きな目をした男の、薄い影がそこにある。
「あんた…相変わらず調子がいいねえ。そういう調子で、大戦のときも毒ガスん中に突っ込んじまったのかい」「ああ、ベル。僕のベル。あの兵士は確かに大馬鹿者だったが、婚約者がいたんだよ。士官として放っておけないじゃないか。君ならわかってくれると思っていたよ」影は大げさに両腕を広げて、非難の不当さを鳴らした。
「わかるもんかい。あたしはどうなるのさ。あたしは」グラン・マは涙声になった。「ああ僕のベル、百万本のトゲある白薔薇の君。君が巴里のために悪魔に魂を売るときは、このジョルジュ・ライラック伯爵も一緒だ。だから今は、僕の巴里を守っておくれ」
「あんたの巴里なんか、守るもんか」グラン・マは叫んだ。「あたしはあたしの巴里を守るんだよ。誰に言われて守るわけじゃない」
「僕のベルが、戻ってきた」影は微笑んだ。「元気を出すんだ。君だってひとりじゃない」
 影はうっすらと消えた。その消えてゆく影をグラン・マは気丈ににらみつけていたが、完全に見えなくなると、あわてたようにハンカチを取り出し、目をぬぐった。

 帰ってくると、テントの外で堀司令が待っていた。
「失礼ですが、さっきの男性はご主人ですか」すれ違いざまに堀に言われて、グラン・マは目を見張った。新しい司令の履歴については詳細な資料が送られてきていたが、霊力があるとは聞いていない。
「最初の家内を、新婚3ヶ月で亡くしましてね。今のさくら君より、ひとつ下でした」堀が言った。
「それで…」見えるのであろう、とグラン・マは思った。そういえば堀に言っておくことがあったのを、グラン・マは思い出した。
「ムッシュ・大神を、お願いしますよ。あたしがオム・フェ(直訳すると「完成された男」、つまり一人前の男)に育ててやりたいところだけど」グラン・マは語尾を濁した。
「グラン・マ、ある陸軍さんから、こんなことを聞いたことがあります。死を覚悟した兵は強い。だが指揮官が死ぬつもりになってしまうと、兵は不思議と弱くなる
「聞いてらしたんですか」グラン・マは静かに言った。
「いや、亡くした家内がもし私に会いに来るとしたら、何を伝えるだろうと、考えておっただけです」堀はそれきり何も言わず、一礼してテントに入ってしまった。

「やっぱり何もいないなあ。何かいる気配があったのに」桜は宿泊用のテントから首を出して、首をかしげている。「わいも、何か感じた」ケロも相槌を打った。
「力があるからといって、何でも見えたとしたら、それはきっと不幸せなことですわ」知世はテントの中で微笑んだ。「さ、休みましょう。明日のために」


 まったく当てはずれなことをして、貴重な時間を空費してしまったのではないか。その鈍い自責の念が、心の支配権を疲労と争っていた。
「さあ、少しですがパンを持ってきました。みなさんで分けてくださいね。あたしが作ったものじゃないから大丈夫ですよ」聞き覚えのある若い女性の声に、壁にもたれてうつらうつらしていた加山は目を覚まされた。「エリカ君じゃないか」「あーっ、加山さん、こんなところにいらしたんですか。こんばんは」「こんばんはじゃないだろう。明日に備えて寝ておかないと」「あたしは戦士で、踊り子で、見習いシスターでもあるんです。どれも本当の私です。今の時間は、見習いシスターなんです」エリカは明るく笑った。
 エリカの持ってきたわずかなパンは、すでにエリカの手元から消えうせている。暗くてよくわからないが、抑えたざわめきの中で、それは分配されつつあるようだった。
「こんなときにまで、シスターでいなくても」「こんなときだから!」エリカは涙声で叫んだ。「あたしは明日も戦いに出て…それっきりかもしれないし、だから、できることは、今やっておきたいんです」
 何も言えずにいる加山の後ろから、コスモの声がした。いつの間にここにいたのであろう。「嬢よ、お前さんの秘めておる霊力を、なぜ解放することを願わんのだ」「みんな、口には出さないけど、わかっているんです。ゴマルラは倒せる相手じゃないって。倒していい相手じゃないって。目を背けてもやっぱりそこにある、世界の一部だって。だけどあたしは…あたしは人々を、気高いところも醜いところもひっくるめて守るのが役目で」エリカの声は、次第に小さくなった。「あたしの願いが、たったひとつあるとしたら」エリカはしばらく言いよどみ、少し声に元気を取り戻した。「最後まで、最後の最後まで、あのひとと一緒にいたい。あのひとにとって、あたしが何番目なのかは、それはわからないけど、あたしは、あたしの一番なひとといっしょにいたい。それだけです」

 コスモは、歌った。たぶんそれは歌なのであろう。古い古い、まだ歌が歌の形を取っていない、詠唱とも歌唱ともつかない歌であった。

うたえよ 丈高きパリシィのますらお
舞えよ 豊かなるパリシィのたおやめ
日の光は太陽に戻らず
悔い暮らしても日々は戻らない

「なんだか、聞いたことがあるような気がします」「それはきっと違うな」コスモはエリカに言った。「心を受け継いでいることと、覚えていることは、また別だ。ずいぶん昔」コスモは遠くを見た。「我が友がよく歌っていた」
 コスモは思い出したように言った。「嬢よ、病人をひとり、連れて帰ってはくれまいか。そこな男はこの三昼夜、ほとんど寝ておらぬ」加山は体がぐらりと傾くのを感じた。てっきり術にかかったと思った加山であったが、実際には単に疲労が限界を超えただけであった。エリカが、それを抱きとめた。
「ゴマルラの本質は、炭だ」コスモは言った。「炎より生じ、もはや炎になれぬものと、炎になれるものが混じっておる。炎になれるものゆえに、炭は燃える。だが、炎になれぬものの扱いにくさゆえに、人は炭を捨てる」コスモは詩を暗誦するように何もない虚空を向いて、それを言った。言ってはならぬものをひそやかに言うかのように、それを言った。
「魔法といい、霊力といい、妖力という。呼び名は様々だが、言葉の枠に当てはめるところから始まるのは共通しておる。ゴマルラの本質がわかれば、それに乗ずることができよう。わかったかな」コスモの問いに、エリカは元気に答えた。「はいっ。わかりませんっ」
「ならば行け。わかるかわからぬかは、大事ではない。やるかやらぬかに比べれば。やがて朝が来るぞ」コスモは言うだけ言い終えると、街路の暗いところへと消えていった。


「両華撃団花組隊長、大神一郎、出撃します」出撃命令に返答がないのは妙なものだ、と大神は思った。今日は大神の光武だけが出撃することになっている。
「この零式光武は、軽金属を多用している。要所の装甲は今まで通りだが、軽快になった半面、構造は脆弱(ぜいじゃく)と思ってもらいたい」平賀造船中将の説明を、大神は思い返していた。
「ビッグ」封印の杖が風を切る。大神の零式光武はむくむくと巨大化し、無塗装ジュラルミンの白銀色を巴里の空に輝かせた。近隣の農家の人々が見上げ、子供が母親にしがみつき、老婆が十字を切る。今日何が行われるのか、発表はなくても、人々は感じていた。
 同じころ、ゴマルラもむっくりと起き上がった。ぎょろりとした無表情な目で大神の光武を見つめる。1歩、2歩。光武に歩み寄るゴマルラ。抜刀する大神。
 ギエオーン。ゴマルラは高く鳴いた。
 大神の光武が疾駆する。側面に回りこもうとする大神に、黒い炎が浴びせられる。「ふっ」水流を浴びせてその勢いを殺すのは、審判者ユエ。水と風を力の源とするユエは、ある程度水の力を操ることができる。今日の小狼は、桜をぴったりガードしている。「すまない」機体の随所に黒い曇りを作りながら、大神はかまわず駆ける。
 ギエオーン。大神に接近を許したゴマルラは、口から黒い煤(すす)を吐いた。煤はたちまちゴマルラの周囲に広がり、大神の視界をさえぎる。「うわっ」大神は強い衝撃を受けた。ゴマルラの短い腕の一撃を食らったのだ。たまらず転倒する光武。
 息を呑むさくら。

「そこまでだ!」

 しゅばっ。しゅばっ。しゅばばばっ。大空を駆ける3機の飛翔甲冑(ひしょうかっちゅう)、アイゼンフリーガー
「いやぁ、一度言ってみたかった」とロンメル。「お久しぶりです、フロイライン」とグデーリアン。「適切な時期に、到着したようですね」とマンシュタイン。「あ、あやつら」グリシーヌが叫んだ。
「ドイツ光武隊、参上」野太い声が合唱した。
「でかいな」堀司令が言った。確かにそれぞれの飛翔甲冑は、光武よりはるかに大きい。
「フロイライン、ドイツの科学力を、今こそご覧に入れましょう」ロンメルは叫んだ。「行くぞ。メタモルフォーゼ・アドラー、アンシュリース(合体せよ)」
 見る見るうちに3体の飛翔甲冑は変形し、空中で合体する。「いい仕事をしている」平賀中将が思わず身を乗り出した。「アイゼンアドラーの力、今こそ」しゃいぃん。しゃいぃん。地上に降り立ったロンメルのアイゼンアドラーはどこに収納されていたのか、2丁のスコップを抜き放つ。短い腕を威嚇するように振り回したゴマルラは、黒い炎をアイゼンアドラーに放つ。「アイゼン、シャァァイン」アイゼンアドラーの腹部から放たれた光はしばし黒い炎に抗うが、やがて押し返される。「アウフビント(合体解除)」ロンメルの掛け声とともに、3機は合体を解く。
「今度は俺だ。メタモルフォーゼ・ファルケ、アンシュリース」グデーリアンの掛け声で再び3機は合体し、ほっそりした機体が現れる。「うーむ」平賀がうなった。「欲しい」
「俺に追いついてみろ」グデーリアンは地上を疾駆する。「今だ、ヘル・オオガミ」「あ、ああ」あっけに取られていた大神も起き上がって走り出し、機会をうかがう。ゴマルラは目を覚ますように頭を振る。その懐へ飛び込むグデーリアンのアイゼンファルケ。左手の速射砲が至近からゴマルラを襲う。ギエオーン。ゴマルラは鋭く鳴いて、アイゼンファルケに体当たりする。引っくり返るアイゼンファルケ。ゴマルラの怒りのキックに捉えられる刹那、合体が解除される。
「私にやらせてくれないか。メタモルフォーゼ・グライフ、アンシュリース」マンシュタインの掛け声に応じて現れたのは、両肩に巨砲を持つ重装タイプ、アイゼングライフ。「あんなものが現れては、戦艦の時代も終わりか」平賀がつぶやいた。
 両肩の巨砲グライフドーラが間断なく律動し、巨弾をゴマルラに送り込む。それにゴマルラが気を取られる隙を突いて、大神がゴマルラに迫る。間合いに入った、と誰もが思った瞬間、ゴマルラの背中から鞭のようなものが伸びた。それは大神の光武を捉え、みしみしとジュラルミンの機体を圧迫した。「アウフビント! ロンメル、あれを使うぞ」「心得た。メタモルフォーゼ・アドラー、アンシュリース」再び現れたアイゼンアドラーは、2本のスコップを両手に構えると、そのまま両腕を反り返らせた。「ドッペルシュパーテンス・ブゥゥゥゥメラン」くるくると回転しながら飛んだスコップは、見事にゴマルラの鞭を断ち切り、くるくるとアイゼンアドラーの手元に戻る。よろめきながら後退した大神の光武を気遣うように立ちはだかったアイゼンアドラーだったが、ゴマルラはいまや無数の鞭をゆらゆらと背中から生やしていた。妖気はさらに増し、空間の揺らぎが目に見えるほどである。

「司令、お願いがあります。私たちも、戦わせてください」エリカが言った。両華撃団の隊員たちが一斉にグラン・マと堀を見た。どの顔にも、熱望があった。
「しかし」言いよどむ堀に、木之本桜が言った。「私からもお願いします。司令さん。大好きな人と、みんな一緒にいたいんです。あたしも長いこと、一緒にいられなかったから、よくわかります」その傍らで李小狼が真っ赤になっていたが、桜はかまわなかった。「今がどういうときか、わかっているのかい、桜」グラン・マが言うのも聞かず、桜は巾着袋から1枚のカードを取り出した。「クリエイトというカードです。これで大神さんの光武に、皆さんの座席を作ります。それでいいですね」桜は隊員たちを見回した。「ありがとう」さくらが言った。グラン・マは苦笑いした。「わかったよ。好きにしな」そして小さな声で付け加えた。「あたしにも、覚えがないわけじゃないさ」
 カードは呼び出されると、分厚く何も書かれていない本の形を取った。「知世ちゃん、お願い。使い方はわかっているよね」「ええ。じゃあ書きますわ」知世が「光武と13の座席」のお話を書き始めると、隊員たちは次々に色とりどりの流れ星となって、大神の光武に吸い込まれていった。
 中に入ってみると、それは座席と机だけがある、何の用途もない空間だった。スクリーンがあるようには見えないが、周囲の様子は正面に映っている。そして、隊員たちの目の前の机には大きなハート型のランプがあって、色とりどりに点滅している。
「ところで」知世はケルベロスに尋ねていた。「操縦席ってどんなものがついていますの」「あちゃあ」ケルベロスはうめいた。「まあ、何にも書かんとき。本物の操縦系に干渉したら、勝てるもんも勝てへんようになるさかい」よく考えてみると、いくら巨大化したとはいえ、光武の胴体の中に13もの座席を並べられるはずもない。まったくのおとぎ話であった。
「どうするんだい。本でも読んでろってか」ロベリアがいらだった。「気を練りましょう。大神さんと心をひとつに」さくらが叫んだ。「一郎さん。もうお供するなんて言いません。私はここにいたいんです」花火のつぶやきに、グリシーヌが賛嘆の微笑を見せた。
 零式光武は、白く、鈍く輝き始めた。
「想い、ひとつに!」叫びざま、大神は光武で突っ込んだ。鞭が次々に覆いかぶさり行く手を阻もうとするのを、光武のすぐ上を飛ぶアイゼンアドラーがスコップで切り払う。ふたつの円弧を描き、下段に構えていた大神の双刀が、上段に移る。

斬獣剣、二剣二刀斬り」大神の叫びに遅れて、隊員たちが唱和する。「斬獣剣、二剣二刀斬り」

 ゴマルラと行き違って、零式光武は止まった。かすかなVの字の切り口が、ゴマルラの背中に見える。
 そして、ゴマルラは倒れた。しかし、それで終わりではないことを、誰もが感じていた。

「ゴマルラの本質は、炭」エリカがいきなり言った。「古き古きものコスモが、そう言っていました。本質がわかれば、言葉の枠に当てはめて、それに乗じることができると」「エリカ、お前」グリシーヌが絶句した。エリカの体が、白く光っている。「覚醒したんだ」コクリコがつぶやいた。
「炭といわれてもねえ。炭に強いカードなんて、あるのかい」グラン・マに問われた木之本桜は、困った顔をした。「そんなこと言われても」「炭…言葉の枠に…そうか」空中にいた審判者ユエが、まっしぐらに桜に近づくと、耳元でささやいた。
 ささやきは長かった。「えーっ、あたし小学生だよ。そんなこといわれても」「言うとおりにしろ。雪兎がちゃんと勉強していれば、これで魔法がかかる。ウォーティを呼んでくれ。おまえたちも手伝え」ユエは小狼とケルベロスに声をかけた。「ゴマルラに水をかけるんだ」
 水のカード・ウォーティが呼び出された。ユエ、小狼とともに、三方からゴマルラに水をかける。「本当にこれでいいのか」小狼がいぶかる。
「どういうことだね」グラン・マがつぶやくように問うた。「ゴマルラは本当は炭ではありません。だが炭であると決め付けることによって、炭に関係のある魔法をかけることができるようになる。そういった関連付けが魔法というものだと、コスモとやらは言いたいのではありませんか」堀が言った。「ムッシュ・堀。あんたを日本海軍から追い出した連中に、キスしてやりたくなったよ」グラン・マは笑った。
 桜は自信なげに、1枚のカードを取り出すと、唱えた。
「ここに炭素、水素、酸素そろえり。禍々(まがまが)しきものを取り、好ましきものと成せ。スイート!」「な、なんやて」ケルベロスが驚いた。
 呼び出された甘みのカード・スイートの精霊は、丸くふわふわした黄色いスカートにピンクのぽわぽわした髪といういでたちの、小さな女の子である。その精霊はミツバチのように忙しく飛び回り、ゴマルラに魔法をかけ始めた。
 変化に人々が気づくのに、少しかかった。さらさらと、ゴマルラの表面が粉になって崩れていく。「砂糖か」平賀が言った。「確かに糖類は、炭素、水素、酸素からできている。だが集めれば変わると言うものではないはずだが」「そこが魔法というものではありませんの」知世が言った。

「妖力反応、縮みました」メルが言った。「縮んだ? なくなったんじゃないの」シーが心配そうに言った。「なにか小さな妖力反応が残っています」メルが言った。
 桜はまたカードを取り出した。「何か満たされない思いがあるんだよ。あなたなら、それを探せるよね」桜はカードを投げ上げると、封印の杖を振るった。「ピース!」
 1羽の鳩が飛び立った。ほどなくそれは、ゴマルラの胸があった辺りで、輪を描いて飛び回った。「よくやってくれたね。だが、あとは花組の仕事だよ」グラン・マに言われた桜は、ビッグのカードを呼び戻した。光武は元の大きさに戻り、その中から流れ星のように華撃団員たちが現れた。
 さくらたちが近づいてみると、それは卵だった。だいぶ大きいが、怪獣の卵というほどではなく、鳥の卵のように見える。それはぺりぺりと割れて、中から雛が出てきた。「うわぁ、かわいい」思わず声を上げたグリシーヌが、あわてていかめしく言い添えた。「という見方もあるであろうな」花火がおかしそうに笑った。グラン・マや桜たちも、その様子を見て近づいてくる。
 雛はよちよちと歩こうとして転び、歩こうとして転ぶことを繰り返している。その姿を見て、動物に詳しいコクリコが叫んだ。「ペンギンだぁ」
「ゴマルラ言うのんは、お母ちゃんベンギンやったんかも知れへんなあ。子供のために、きれいな海が欲しかったんや」紅蘭はしんみりと言った。
「グラン・マ」エリカが決然と言った。すでに覚醒は解けているらしい。「このペンギン、シャノワールで飼っていいですか」
「何だって」グラン・マは絶句した。グラン・マが答えないので、エリカがたたみかけた。「無理ですか。それは、それは…」エリカは目に涙をいっぱいにためた。

「賃貸だからですかっ」

 エリカはせきを切ったように続けた。「あたし、シャノワールの間借り人だから、イヌネコさんとかペンギンさんとか怪獣さんとか、飼っちゃいけないんですかっ」
 グラン・マは頭に手を当てて、しばらくうつむいていた。熟考しているようでもあり、頭痛に耐えているようでもあった。おそらくその両方であったろう。
「あ…あの、もし、もし…だな」グリシーヌがおずおずと言ったが、小さな声なので十分に注意が引けなかった。
「こいつを大事に育ててやることが、自然と和解する条件のひとつ、という考え方もあるねえ」グラン・マは言った。「いいだろう」
「わぁぁ、やったあぁ」エリカとコクリコは手を取り合って喜び、グリシーヌは肩を落とした。「私は誇り高き戦士の家の当主だぞ。その私が、かわいいものが大好きだなどと、言えるかあぁぁぁっ。あ」グリシーヌは周囲の目に気づいた。
「言っちまってやんの」ロベリアが言った。
「グリシーヌさんのお屋敷にも、遊びに行きましょうね。お池もありますもんね」エリカが子ペンギンに話しかけると、子ペンギンは伸び上がるようにぷるぷると体を震わせた。「くえぇぇぇ」グリシーヌは観念したように、にこにことその頭をなでた。
「名前は、なんとつけますの」すみれが言った。
そりゃあ、みんなが一番大好きな名前が、いいんじゃないかな」コクリコが元気よく言った。
「いいっ」大神がおびえた。
「ねっ、イチロー」「くえぇぇぇ」イチローはコクリコに応えた。陽気な笑い声が起きた。
 ぽん! 「きゃっ」桜は悲鳴を上げた。「桜ちゃん、服のフリルが増えてるよ」アイリスが指摘した。ぽん! またフリルが増える。「ほええっ」桜は原因に思い当たった。「知世ちゃんにクリエイトを預けたままだあ」

「きょうも桜ちゃんは、超絶かわいいのですわ、っと」知世はにこにことクリエイトに書き込み続けていた。「ああ、幸せ絶頂ですわ」「ほええええ」桜は叫んだ。


 米田陸軍大臣は、誰もいない私邸で簡単な朝食を前にして、両花組の勝利を報じる新聞を読んでいた。
「米田閣下、火急の用件で参上いたしました」女性の声がする。その声はまったく平静である。尋常でないものがあるとすれば、玄関で案内を請うことなく、いきなり居間のふすまの向こうから声がしているところである。
「ああ、入れ」その声に聞き覚えがあったので、米田は簡単に言った。藤枝かえではふすまを開けて敬礼した。「一部陸軍部隊が日比谷公園に集結、不穏な情勢です。閣下には一時帝國華撃団の保護下に入っていただきたく」「宇垣さんはどうした。山口さんは」「首相閣下と海軍大臣閣下をはじめ、すべての閣僚方を保護すべく、月組・雪組・風組が手分けをして当たっております」「宮城は」「摂政宮(せっしょうのみや)が近衛師団司令部の直接掌握に乗り出されました」「危ねえことを…お若いな」米田はうめいた。「すぐ行く」米田は居間の隅にあったかばんをひょいと拾い上げた。当座に必要なものはすべて入っている。
 居間を出るとき、米田はちらりと新聞に目をくれた。「大神、俺もやってるぜ」その呼びかけは思いにとどまり、声として発せられることはなかった。


「セイヤッ、セイヤッ」星組訓練生の男たちによる、勝利を祝うラインダンスはいつ終わるとも知れず続いている。戦場となった巴里西方に程近いベルサイユ宮殿は、巴里市民の感謝の印として、今日は巴里華撃団・帝國華撃団の祝勝会のために貸し切られていた。空は晴れ、音楽は明るく鳴り渡り、料理は善美を極める。
「隊長とさくらさんがいません」きょろきょろと織姫が会場を見渡しているのを、レニが短く評した。「先んずれば人を制す。こういう場合の常道だ」「あの焼き餅グリラー、また抜けランニングしましたか」「よく我慢しましたわ、あのふたり。だから今日は、負けて差し上げましょう」いきまく織姫に、瀟洒(しょうしゃ)なイブニングドレスを1日であつらえさせたすみれが、珍しく太っ腹なことを言った。「いや、やっぱりここは、このお庭番君G4で」紅蘭は、お盆のような機械を抱えていた。その表面に描かれているのはどうやらベルサイユ宮殿の地図らしい。「これは、大神はんとさくらはんの居場所を探知してな」「探知して、どうするんだい」カンナがごくりとつばを飲み込んだ。
 紅蘭のめがねがきらりと光った。「爆発するんや」


「いやあ、もうミルクとか砂糖とか、根本的になんかちゃうんやなあ」上機嫌で菓子をほおばるケロを連れて、桜と知世は市内観光をしていた。フランス駐在経験のある堀司令がエスコートしてくれている。
「あら」街路樹の根元に小さな撫子が咲いているのに、知世は気がついた。
「お母さま、来てらしたのかもしれませんね」知世は言った。
 桜はしばらく黙っていた。「きっと、巴里をきれいにしたい人が、種をまいたんだよ。そのほうが、素敵だよ」桜は笑って、晴れ渡った空を見上げた。「そうだよね」
「行こうか」目をしばたたきながら、堀が言った。


 花束を持った花火は、いつものように婚約者フィリップの墓にそれを手向けた。戦いの様子を話そうとしたとき、視界の隅に、見慣れた人の見慣れない姿が映った。
 墓石の前には、そう高くもない赤ワインの小瓶から注がれた、ワイングラスがひとつ。いや…ふたつ。薄っぺらく切ったチーズが添えてある。
 花火は微笑むと、フィリップに話しかけた。「今日は早めに失礼しますね。私は、お邪魔だから」
 晴れ渡った巴里の空の下で、夫の墓石にもたれてうつらうつらしているグラン・マの表情は、老婆のようでもあり…
 恋多き少女のようでもあった。

エリカ対ゴマルラ 完



オープニングテーマ 「檄!帝國華撃団III」
(サクラ大戦3)


エンディングテーマ「やさしさの種子」
(カードキャプターさくら)


参考文献
ファミ通書籍編集部編「サクラ大戦公式ガイド・戦闘編」アスペクト
ドリームキャストマガジン編集部編「サクラ大戦2徹底攻略ガイド」ソフトバンク
ドリームキャストマガジン編集部編「サクラ大戦3攻略ガイド」ソフトバンク
宮野澄「不遇の提督 堀悌吉」光人社
平凡社世界大百科事典(CD-ROM版)


オリジナルキャラクター イメージキャスト

コスモ           石塚運昇
バフーン           千葉繁
平賀譲           富田耕生
堀悌吉           田中秀幸
ジョルジュ・ライラック伯爵 中尾隆聖

ロンメル           関智一
グデーリアン         家中宏
マンシュタイン       池田秀一

ゴマルラ         (合成音声)
子ペンギン(イチロー)     丹下桜

この作品のキャラクター解説には、下記サイトがご好意で提供してくださっているアイコンやポスター画像が使われています。記して感謝します。