エッセイ

はまっていること

奇妙な日本語

水のように


はまっていること

今、はまっていることが2つある。

 一つ目は、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを自分の感想などを交えて文章にすること。ちょっとカッコよく(?)いうとエッセイ(随筆)を書くこと。

 まさに、今書いているこの文章もそんなものなんだが、これがまたおもしろい。

 元来、筆無精である僕は、日記のように書くことが義務化するようなものは、向いていない。文通もそのたぐいである。 

 その点、エッセイというものは、何か書きたい題材があって、「書きたいな」と思ったときに書けばいいので、僕の性格にとても合っている。(単なるわがままかもしれないが・・・)

 今までも、旅行に行った先から、旅の記録として自分にはがきを出したりしていたんだが、ここ最近、ホームページに掲載して、誰かに読んでもらうという楽しみを見つけてしまった。別に返事やリアクションを期待しているわけでもなく、あくまでも自己満足の世界だが。 

 しかし、やはり人に読んでもらっていると思うと、それなりの文章を書けるようになりたくなる。そこで、エッセイ講座なるものを始めてしまった。そこまで、はまってしまったのである。

 これからも、つれずれなるままに、こんなことを続けていこうと思っている。

もう一つのはまっているものは、古田のチョコエッグである。

といっても別にチョコレートが食べたくてしょうがないわけではない。このチョコレートは、卵形をしていて、なかにおまけが入っている。

このおまけというのが「日本の動物コレクション」と言って、かなりリアルな動物の模型である。

確かにコレクションとしても立派(?)だが、はまった理由は、別のところにある。

このおまけは、チョコの中に入っているため、なにが入っているかわからない。そこがいい。

子供の頃、ガチャガチャとか、仮面ライダーカードなんかで、「ほしいものが出るかな〜」というワクワク感。ほしいものが出たときの喜び。持っているものが出てきたときのがっかり感。あの感じが味わえるのである。

それと、シリーズもんで、それぞれに番号が振ってある。当然全部そろえたいと思ってしまう。そこに持ってきて、子供の時と違い、ある程度自由になるお金がある。

完全にメーカーの戦略にはまってしまっている。対象年齢4歳以上、とは書いてあるが、完全に大人をねらった商品だと僕は思う。

でも、子供の頃の無邪気な気持ちを思い出させてくれたことに、感謝の気持ちすらわいている。

あの気持ちを求めて、今日もコンビニに向かってしまうのである。

 チョコエッグのホームページへ

奇妙な日本語

 今朝、ラジオを聴いていたら、敬語と謙譲語の話をしていた。
 職場で課長に、
「今朝、うちの兄貴が、亡くなりましたので、今日から5日間休ませてください。」
というのは、正しいか?という問いであった。

 何となくおかしいな。とは思ったが、あくまでも何となくだった。

 やはり、答えは間違い。気になる理由というのは、
「兄貴というには、兄に”貴”をつけて兄を敬っている言葉。目上の人に対し、身内を敬う言葉を使うのは間違い」ということだった。姉貴についても同じということだった。

 そういえば、貴方・貴女(あなた)、貴社など、”貴”をつけて自分がへりくだる言葉はいろいろある。兄貴もその一種ということだろう。

 そこで一つの疑問が浮かんだ。『貴様』という言葉である。ここには”貴”という文字ばかりでなく、ご丁寧に”様”までついている。しかし「貴様」は、明らかに目下の者に対して使う言葉だ。へりくだったつもりで、目上に人に「貴様」などといってしまったら、ボス(缶コーヒー)のCMのような結末になってしまう。

 ほかにも変な言葉はある。「絶命」とは、命を失うことだが、この言葉に強調(?)の「ゼッタイ」をつけた「絶体絶命」は、多くの場合助かることが多い。
 
「九分九厘間違いない」という言葉に至っては、「残りの九割一厘は間違いかい」、という話である。

 何気なく使っている言葉だが、言葉として覚えた日本人にとっては、当然のことでも、学問(?)として学んでいる外人さんには、奇妙に感じられているのではないだろうか?

夜明け前に、ラジオのイヤホンを耳に入れ、そんなどうでもいいようなことを考えながら、散歩をするのが日課です。

水のように (遊民発足エッセイ)

 私は、水が好きである。

      流れる川、轟く滝、鏡のような湖、母なる海

このような水は、皆さんも好きだろうが、私にはもうひとつ好きな水がある。

   「水のような関係」がそれである。

水というものは3つの状態を持っている。「水蒸気」・「水」・「氷」である。

これらの違いは、分子の状態によって違ってくるのだという。


・それぞれの分子が自由に、何の束縛もなく飛び回っているのが「水蒸気」。

・それぞれの分子が緩やかなつながりを持ち、自由も持っているのが「水」。

・それぞれの分子がガチガチにつながり、自由のない「氷」。


これを人間関係にたとえて、


・何の関係もない状態。

・緩やかな関係の上で自由を尊重し、束縛をしない関係。

・ガチガチのルールで縛り、自由のない関係。


としたうえで、『最高の人間関係というのは、2番目の「水のような関係」だ』というのだ。

誰からの受け売りかは忘れたが、私はこの考えがとても気に入った。

そこで生まれたのが遊民である。

「一枚の名簿という緩やかなつながりで、何の束縛もなく、自由に各個人の考えで活動をしていく。」

これが、私の考えた『水のような関係』である。

これが元となって遊民という変な集団(サークル?)が生まれた。


名簿という緩やかな関係(水蒸気ではない)。

ほかのサークルと違って定期会合等を持たない(氷ではない)。


「定例会や事務局主催のイベントがあるじゃないか!!」といわれる人もあるかと思いますが、事務局というのは私の昔からの仲間であり、定例会は昔からある仲間内の飲み会であり、イベントは、私たちのあそびの場である。

 『私たちの仲間に入ってきたください。ただし、強制はしません。』というのがスタンスである。だから、会員・非会員にはこだわらない変な集団として存在しようとしているのである。


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