同時刻。
「やはり、身体の成長が追いついておらん」
すんでのところで行き倒れになるのを免れて家に帰りつき、家人の手で自室に寝かされた真を見るなり、祖父の司はそう断じた。
だいぶ傾いた西日が部屋の中に差し込み、寝息を立てている真の顔を照らしていた。
血の気の失せたその顔は、日の光でオレンジ色に染まっている。ため息をつきながら、司は真の額に浮き出た汗をぬぐってやった。
彼が市内のとある警備会社と契約して今の仕事に就いてから、すでに3年になる。霊力という特殊能力を駆使しての仕事だから、今までにもずいぶん危険な目にあってきたし、瀕死の重傷を負って家に担ぎ込まれてきたのも一度や二度のことではない。だが、ここ数ヶ月の間は、明らかに様子が違っていた。会社を通じて舞い込む依頼の量や、その仕事をこなした後に来る身体の衰弱の度合いは、どう考えても尋常ではない。突然ふってわいた別宮の封印破りといい、ここ数ヶ月間氷浦市近郊で多発している霊害騒ぎといい、どこかで何かが狂い始めているのは、明確だった。
「しかし、一体誰が別宮の封印を……」
混乱に乗じて破壊活動をたくらむものが大勢乗り込んできた幕末の維新期や戦中戦後ならばいざ知らず、今のご時世に真剣に別宮の封印を破ろうとしている者がいたということ自体、司には信じられなかった。詞咲や叶といった、別宮職を担っていた家々はとうの昔に断絶している。利害得失を考えても、封印を破ることで利益を得ることができる人物の名は、司の脳裏には浮かんでこなかった。
しかも。
別宮に晴憲の怨霊が封印されているという話自体、司は懐疑的に取っていた。『糺宮神社縁起拾遺』の記述こそ、別宮社殿内の石像に怨霊を封じた、ということにはなっているが、それでは何故そんな危険な代物を別宮などに放っておいたのか。いくら織姫家始祖ゆかりの神剣と桜を使った結界を作り、石像に働いた封印への抑えにしたとはいえ、それを管理するはずの別宮職が、霊能者としてはまったく無能だった人物ではあまりにお粗末過ぎる。『糺宮神社縁起拾遺』の記述は由来説話というその性質上、誇張したものや意図的に事実関係を混同したものが多いが、ことこの晴憲怨霊に関するくだりは信用できない。
と、なると――。
「晴憲の怨霊は何処に封じられているのだ……? それに――」
いくら管理者が無能レベルとはいえ、始祖ゆかりの神剣と桜で結界を作るということは、やはり並大抵のコトではない。となると、別宮にはやはり何かが封印されているということになりはしないか。
「――しかし、一体何を……?」
司がため息をつきながら首を軽く振った、その時。
「カハ……ッ!」
それまで静かに寝息を立てていた真が突然軽く咳き込み、次いで苦しそうに身をよじり始めた。
「ま、真ッ!?」
司は慌てて掛け布団を跳ね飛ばし、身を反らせた真を押さえつけようとした。
途端――、
「ガッ!?」
真の身体に触れるか触れないか、というところで、司はものすごい力で跳ね飛ばされる。
「せ、瀬田ッ! 瀬田はおらんかッ!」
壁に身体をしたたかに打ち付け、一瞬息を詰まらせながらも、司は部屋の外で待たせてあった神職の名を呼んだ。叫ぶ喉の奥から血が噴きだし、畳の上に赤い斑点を作っていく。
「瀬田!」
ただならぬ司の声に、瀬田をはじめとした数人の神職が廊下を駆けてくる足音が近づいてくる。
その音に触発されたかのように、真が、またも身をよじった。
そして――。
ガラッ! という、ふすまが乱暴に開けられる音と共に、真の身体を支配していた緊張が解け、彼はクタリ、と布団に横たわる。
「司さん………」
何事か、と真の部屋に踏み込んだ瀬田たちは、拍子抜けしたように、壁にもたれかかった司と、布団で眠ったままの真を見比べる。
「……何事で……?」
戸口で固まったまま尋ねた瀬田に、司は無言で答える。
見ると、彼の口元に血がこびりついていた。次いで床に目をやると、畳の上に、司が吐いたものと思しき血痕が見受けられる。
と――。
突然、ユラリ、と、真の上半身が何かに引っ張られるようにして起き上がった。
「な……ッ!?」
声をあげようとした瀬田を、司が制する。
「何者か?」
うっすらと目を開いた真に、司は小さく、しかし鋭い声で尋ねる。
「北の方 言の葉の咲き乱れる夜は蒼い月」
「何……?」
真の口をついてでた言葉に、司は眉根を寄せた。
北の方 言の葉の咲き乱れる夜は 蒼い月
水の登る坂の果てから 古の陽 今の氷を眺める
流れるような声で真はそれだけを告げると、薄く開いていた目を閉じ、再び眠りにつこうとする。
「待たれよ。古の高貴なる方と見受けたが、何者か?」
額に脂汗をにじませながら、司が尋ねる。真の目が開いている間、彼は真からものすごいプレッシャーを受けつづけていたのだ。
が。
司の必死の問いに真は答えず、再びその身を布団に横たえる。
大きく、司はため息をついた。
「司さん………」
戸口で固まったままだった瀬田が、思い出したように司に声をかける。
「……瀬田」
「は、はい」
「急ぎ、船津八幡の葛城君を呼べ。それと、澪もだ」
「は、はい!」
何かを押し殺したような声で命じた司に、瀬田は後ろで固まっていた同僚を突き飛ばし、転がるようにして廊下を駆けて行く。
司がふと見やった窓の外は、すでに夕闇に包まれようとしていた。 |