織姫家から急を告げる電話を受けた真の従姉妹・遠野澪が到着したのは、それから1時間後のことだった。
車が玄関先に着くなりドアを開けて外に飛び出した澪は、彼女を待っていた神職の案内を待たずに玄関から中に入り、真の部屋へと続く廊下を駆けて行く。
「真ッ!」
悲鳴にも似た叫びと共に開けたふすまの先には、すでに先客がいた。
真とはまったく正反対の、たくましい男だった。
年は、30代前半だろうか。おそらく、刃が成長すれば、このような姿になるのだろう。男は、司が普段着ているのと同じ、和服を身に着けていた。小さい頃糺宮神社の境内でよく真と遊んでいた澪は、彼が司と同じ神職にある者で、なおかつ、真と同じ世界に身を置いているものだということを、直感で悟った。
「あ……」
勢い込んで部屋に踏み込んだ澪に、男は口唇に指を当てる。
「まだ眠っているから、音は立てないほうがいい。とりあえずは無事だから、心配はいらんよ」
「す、すみません……。あの……」
「ああ、君とは初めてだったかな。俺は船津八幡神社の神職で、葛城蒼雲という。真君と同じく、霊能者稼業に身を置く者だ。……澪ちゃん、だったかな? 真君の従姉妹の」
「え、あ、はい。初めまして……。あの、おじいちゃんに呼ばれてきたんですけど、今、どこに……?」
「ああ、司さんなら、今書庫のほうで何か調べ物をしているそうだ。話はだいたい、聞いているね?」
「ええ……。何か、仕事中に問題が起こって、それで倒れたって……」
「ふむ。……まぁ、大筋ではあっているか。かなり省略されているようだが」
葛城の言葉に、澪は少し顔を赤らめる。
澪の携帯電話に直接連絡を取ってきた瀬田が、何やら電話口で詳しい事情を説明していたような気がしたが、澪は真が倒れたということしか頭になく、瀬田の話を聞いている余裕などまったくなかったのだ。
「司さんが、君に真君のことをしばらく頼みたいと言っていた。どうやら、今回真君が請け負った仕事はかなり危険なものらしくてね。それで、司さんも手が離せなくなるから、君を呼んで、ということになったらしい。瀬田君たちは瀬田君たちで、神社の仕事があるだろうしね」
コクリ、と澪はうなずく。
「だから、とりあえず真君が落ち着くまで、こっちにいて欲しい、ということだ。本当は君のこともあるから、君の家に真君を預けたほうがいいのだろうが、そうも行かない事情があってね。頼めるだろうか?」
「ええ……喜んで」
と引き受けては見たものの、澪は直面した事態に動揺しきっていた。
真が仕事を終えた後で寝込んでしまうことは、良くあることだった。
真の両親はまだ彼が幼い頃に亡くなり、祖父の司や神職の瀬田たちもそれぞれの仕事で忙しくて真の看病まで手がまわらないため、彼が倒れるたびに、澪が着きっきりで看病してきたのである。電話口での瀬田の様子が少しおかしかったとはいえ、今回も、いつもとそう事態は変わらないだろう、と澪は踏んでいた。
だが。
ことここに及んで、澪は事態の深刻さを初めて悟ったのだ。
異常事態だった。
それも、長年一線から離れていた司が復帰せねばならないほどの、である。
ややあって、瀬田が姿をあらわした。
「葛城さん、司さんがこちらへ来てくれ、と」
「わかった」
短くうなずくと、葛城はポン、と澪の肩を叩く。
「大丈夫。これまでと同じように、真君を守ってくれれば、それでいいんだ」
「は……はい!」
「じゃぁ、頼んだよ」
最後に力強く頷いた澪に、葛城はニッコリと笑みを浮かべ、瀬田と共に司のもとへと向かった。
「……結局、あの別宮に詞咲晴憲の怨霊は封じられていなかった、ということですか?」
あらかたの事情を聞いた葛城は、机の上に広げられた地図を眺めながら尋ねた。
「そういうことになる。真は『縁起拾遺』の記述からそう思っていたようだが、それにしては事後処理の仕方がちぐはぐだ」
「仮にそうだとして、では、晴憲の怨霊は今どこに?」
尋ねた葛城に、司は無言で一枚の紙片を差し出す。
「『北の方 言の葉の咲き乱れる夜は 蒼い月 水の登る坂の果てから 古の陽 今の氷を眺める』……なんです、これは?」
「真がトランスしたときに口走った言葉だ」
「……何かの場所を表しているように思えますが」
「うむ。だが、『言の葉の咲き乱れる夜は蒼い月』という部分は、場所ではあるまい。おそらくは、人名だ」
「と、言われますと?」
「言の葉とはそのまま言葉、言い換えれば詞、それが咲き乱れる、というからにはやはり詞咲、ということになる」
「では、青い月、とは?」
「『縁起拾遺』によれば、晴憲が生まれた夜は満月の夜。しかも、中天に恐ろしいほど青白い満月が輝いたという。つまり、これは晴憲をさしている、ということになろう」
「なるほど。では、場所の方は?」
「うむ。先ほど書庫にあった氷浦地方の古地図で確認を取った。わしの読みが外れていなければ、おそらくは北区三名坂のどこか、ということになろう」
「三名坂……?」
怪訝な面持ちで、葛城は再び地図に目を落とした。
氷浦市は、遠野区、城東区、氷浦北区、氷浦区、船津区、桜坂区の五つの区に別れた、東西方向に長くのびた都市である。氷浦湾に南面し、市域のほぼ中央を東西方向に東名高速、東海道新幹線が横断している。一番東から遠野区、城東区、氷浦区、船津区と並び、氷浦区の北に氷浦北区、船津区の北西に桜坂区が位置し、遠野家と聖華高校は遠野区東部、糺宮神社は氷浦北区のほぼ中央部、船津八幡神社は西部に位置している。
問題の三名坂は、というと、これは氷浦北区の北東の端に位置する地区で、このあたりに縄文人の集落が存在したことを示す三名坂貝塚や、古代人が築いた三名坂山古墳群などの史跡が点在する。
「三名坂……ミナサカという地名は、もともと現在の表記ではなく、水の坂、水坂という表記だったことが分かった。現在の表記になったのは、維新期に佐幕を訴えた氷浦藩の重臣3人が、勤皇に傾いた藩の内情に憤って自刃したことにちなんでのことだろう」
「なるほど……確かに、あの辺りの旧家には、三名坂ではなく、水坂という苗字が多いですね。すると、『古の陽 今の氷』というくだりは、昔この辺りが氷浦ではなく、日浦と表記されていたことに関係があるのでしょうな」
「おそらく、そうであろうよ」
「となると……氷浦市内を一望できる場所に、晴憲の怨霊が封じられている、ということになりますね?」
「うむ……だが、問題はその三名坂には、そのような場所などどこにもない、ということだ」
司が苦々しい顔で、地図に目を落とす。
「確かに……。三名坂は四方を小高い山に囲まれた場所ですからね。三名坂山古墳群も、そこまでの高さはない……」
苦りきった表情で、二人は地図を見つめる。
と。
ピクリ、と、葛城が眉を動かした。
「待ってください? 『水の登る坂の果て』ということは、必ずしも三名坂の中にあるとは限らないのではありませんか?」
「何?」
「おそらく、『水の登る坂』とは地名を表すと同時に、道を表していると思うんです。だから、『水の登る坂の果て』になる。となると、おそらくは、氷浦城に端を発するこの道……」
葛城が氷浦区のほぼ中央を指差し、そこからほぼまっすぐ北東へと動かす。
「なるほど、三名坂街道か!」
葛城の指を眼で追いながら、司が頷く。
「となると、この街道の行き着く先で氷浦市を一望できる場所といえば……」
三名坂地区をだいぶ外れたところで、葛城の指が止まった。
「御木城跡!」
途端、司がウーン、とうなった。
「どうしたのです?」
「当時の御木城の守将だった御木晴重は、晴憲の母方の祖父にあたるのだ!」
「なるほど……では、晴憲の怨霊がそこに封じられていてもおかしくはありませんね。
しかし、まだ解けていない謎があります」
「謎?」
「ええ。まず第1に、別宮に封じられていたのが晴憲ではなかったとするならば、あそこには一体何が封印されていたのか。第2に、封印を破った者がそのことを知っていたのか、ということです。そして最後に封印を破ったのが誰なのか、ということです」
「なるほどな……確かに、それがわからないままに御木城に赴いても、手の打ちようがない」
「ええ、その通りです。……時に、真君は榊刃という少年に依頼されて今回の騒動に巻き込まれたんですね?」
「ああ。最近はその少年の依頼で出向くことが多い」
「そうですか……。それでは、その榊という少年に一度会う必要がありますね。それと、その少年の後ろにいる人物にも会わなければなりません。絶対に、情報を提供している人物がいるはずです」
「うむ、その通りだな」
「では、今夜はもう遅いので、また明日伺います。真君のことも心配ですし」
「そうしてくれるとありがたい」
二人は顔を見合わせると、力強く頷く。事はいつの間にか、一刻を争う事態に進展していた。
「榊、か……。彼に関わると、厄介なことになりそうだな」
織姫家を辞し、家路についた車の中で、葛城は図らずも情報屋・聖と同じ科白を吐いていた。
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