気がつくと、真は真っ暗な闇の中にいた。
真っ暗な、闇、闇、闇。
上も下も、右も左も皆目見当がつかない、そんな深い闇の中だ。
またか、と思った。
同時に、おやぁ? とも思った。
彼の全身を包む、とろりとした液体の感触。とうの昔に、それは慣れてしまったものだ。
決して不快ではない、いや、むしろ抗いがたい心地よさが、彼の体を包んでいる。
そう……まるで、それは母親の胎内のような。
そんな、心地よさだ。
しかし彼は、そんな心地よさの中で、けれど、と、首を傾げた。
今自分がここにいる、という事は、やっぱり意識が肉体を遊離してしまっている、という事なのだろう。意識を失ってどれくらい経ったのはかは全く分からない。そう……今頃は澪が目に涙を浮かべて……あるいは、顔を青ざめさせて、自分を見つめている頃だろうか? それとも、とっくの昔に1週間くらいたっていて、別宮の結界にほころびが出始めている頃なのだろうか?
わからない。時間の感覚が、あまりに希薄だった。
しかし。
いずれにしても、自分は意識を失ってしまったのだ――。
その事実だけが、彼の前に横たわっていた。
恐らくは、意識が相当深いところにまでもぐりこんでしまったのだろう。
綺麗に体を洗い清められた真の寝息は、時として恐ろしいほどゆっくりとしていて、その寝顔は、先ほどまでその華奢な身体をよじって苦しんでいたとは思えないほどに、安らかだ。
そう。
いつもいつも、彼女――澪が駆けつけたときには、すでに真は今のように、前後不覚の状態で眠りについていた。
そして、いつ目覚めるのかも分からぬままに、彼をじっと見守りつづける。
それは、むずがりにむずがった赤子をようやく寝かしつけ、その寝顔を見つめる母親にも似た心境だったろうか。彼女の気持ちなど全くお構いなしに、疲れ果て、そして眠りについた、真。
いっそのこと、変わってやれればどんなに楽だろうか?
それが駄目なら、せめて彼の力になりたい……彼を助けてやりたい。どうして、自分にも真と同じ力が備わっていなかったのだろう?
いや。
正確に言えば、真と同じように、身に受けたその力を、制御できないのだろうか?
真が寝こむたびに、澪はずっとその思いに捕らわれつづけていた。
澪とて、半分は真と同じ血を引く、司の孫娘である。
そしてその身体には、れっきとした力が秘められている。
素質は、十分すぎるほどにあった。
だが。
彼女は決して、真のように、そして、彼の父親のように、生まれながらにしてそういう生き方を運命付けられてはいなかった。
澪の母親は、真の叔母。つまりは、真の父・孝の妹に当たる。
けれど。
孝の妻となったのは、高名な退魔士――文字通り、魔を退ける者の事だ――の娘であり、彼女自身も結婚する直前まで現役の退魔士として活躍した女性だった。
だが、澪の母親・美沙が結婚したのは、ごく普通民間人。大衆小説家・遠野顕一郎――。
どんな思いで、司が自分の娘を民間人と結婚させたかは、澪をもってしても十分に分かっている。
叶わぬ、願い。すべては願っても、詮なきこと。
ああ――。
と、澪は大きく、ため息をついた。
もうこの辺で死んでもいいのかもしれない――人生、終わりにしてもいいのかもしれない――。
この闇に包まれるたびに、真はそう考える。
父も母も、優秀な、とても優秀な退魔士だった。
たったそれだけの理由で、どうしてここまで理不尽に傷つかねばならないのだろう?
自分で選んだ道とはいえ、真もまだ十代半ば。
そのような思いが浮かぶのは、あまりに当然すぎる。
やがて、スゥ、と意識が遠のきかける。
肉体から意識が遊離しているこの状態で、また意識を失うのは、つまり、死を意味する。
だがそのたびに、彼の脳裏を、さまざまな人々の顔が浮かんでは消え、消えては浮かび、彼の意識を此岸へと引き戻そうとする。
ヤな奴。
例えば、協会の受付をしているあの性格の悪い女。電話に出られるたびに、むかついてむかついてしようがない。一度会って平手の一発でも食らわせてやらねば気がすまない。
例えば、高校の体育教師をしているあの男。
こちらの身体がひどく華奢でしかも体力がお世辞にもあるとは言えないのを理由に、ネチネチ、よくぞそれほど思いつくな、と感心するほどのイヤガラセをしてくる。もし自分の力を民間人の目の前で解放していいのなら、まず真っ先にお礼参りに伺わねば。
例えば、氷浦署特務課のあのいけすかない課長。
公権力機関である事を良い事に、今までさんざん仕事の邪魔をしてくれた。おかげでこっちは莫大な損害だ。クルマの修理代くらい出してもらわないと話にならない。
大切な人、大事な人、そして、大好きな人。
まずは、やたら強かった、という印象しかないお父さんと、顔も知らないお母さん。
こんな人生いい加減投げ出したくなるけど、それでも、この世に出してくれた事、本当に感謝してます。だって、ワタシ、いろんな人に出会って、いろんなことを経験できたもの。
次に、厳しいながらも、きっちりかっちり稽古をつけてくれたおじいちゃん。
おじいちゃんによる指導がなければ、今頃力が暴走して、大変な事になってたみたい。ありがとう。
また、小さな頃から話し相手になってくれたり、辛い時に励ましたりしてくれた、瀬田さん、葛城さん、藤堂さん。
だいぶ年が離れた兄貴みたいで、とっても頼もしかったです。……もっとも、こんなに年下の弟なんてごめんだと思いますけど。
それから、仕事でミスをやらかすたびにかばってくれた、瀬名さんとゆかりさん。
お蔭で社長の金切り声から何度も逃れる事ができました。恩に着させていただきます。
さらには、幼くして両親をなくした自分を引きとって、愛情いっぱいに育ててくれた、美沙叔母さんと顕一郎叔父さん。
あなた達の愛情がなければ、今頃ワタシしっかり不良になってました。本当に感謝してます。
忘れちゃいけないのは、意識を失うたびに勝手に事態を好転させてくれてる、ご先祖サマ。
別に頼んだ覚えもないし、名前も教えてくれないけど、でもやっぱり、感謝してます。たまに事態がややこしくなってるのが玉にキズだけれど。……って、ああ、こういう事を言うから罰が当たるのか。
ああ、それと、ひっきりなしに厄介事を持ちこんでくれる、榊君。
厄介事は厄介事だけど、でも、君のおかげでだいぶ「コーコーセー」らしくなれたような気がするよ。これも、やっぱり感謝。
そして――澪。
いつもいつも心配かけてごめんなさい。そして、ありがとう。今はまだ、素直にその気持ちを言えないけれど、いつか、きっと……きっと、言葉にしてみせるから……。
死んじゃ駄目だ。まだ、こんなところで彼岸には――三途の川なんて、渡っちゃいけない。嫌いな奴より、好きな人が多いうちは――ワタシが死んで、笑う奴より涙を流してくれる人の数が多いうちは、絶対に死んではならないのだ。
そう。
私はまだ、死ぬには早すぎる。
うん。
まだ、生きていよう。生きていたい。そして――、澪に会いたい。
決心する――スゥ、と、真の意識が、上へ上へと、のぼっていく。
やがて、一瞬の痛み。
そして―――。
どれほど真の顔を見つめていただろうか。
中天に差し掛かっていた月は、すでに西の空に傾き始めている。
ああ、そういえば、明日くらいからは学校に行かなければ――。
思い起こして、澪は真の本棚に目を向ける。
学校の道具類は全部家に置いてきたから、教科書の類は、とりあえず真のものを借りる他にない。制服は――ああ、そうだ。服なんかは、こういう時のために、一揃い、ココに置いてあるんだった。いや、そんな事より、真の分のノートをどうしようか? 私と真はクラスが違うから、誰かに頼まないといけない。
でもその前に――ひどく、眠い。
当たり前だった。
時計は既に深夜と言うよりは早朝、と言った方がいい時刻を示している。
昨日の夜にココにきてからこれまで、一睡もしていない。おまけに、ずっと気が張り詰めたままだった。疲れ果ててしまうのが、当たり前かもしれない。
今夜は、もう寝よう。
そう考えて、立ちかけた、その時。
「み………お…………?」
それは紛れもない、さっきまで眠っていたはずの、真の声。
「真……?」
我知らず、澪は声を震わせて、真の顔をのぞきこむ。
そのまなざしの中で、真の目が、ゆっくりと開いていく。そこには、しっかりと意志の光りをたたえた、漆黒の瞳。
「真………真ッ!」
「澪……」
今度は、しっかりとした口調で、自分の名前を呼ぶ。
目を覚ました。
こんなに早く、目を覚ましたのだ!
「バカ………バカ!」
ギュッ、と手を握り締めて、澪はたまらずに涙をこぼす。
「澪……心配かけて、ごめん……もう、大丈夫、だから……」
涙に霞む、真の、この上ない極上の笑顔。
ああ、何年ぶりに見るだろうか……?
そう。
その夜。
真は何年かぶりに、「素のままの」姿を、表情を、澪の前に晒したのだった。
それからしばらく、澪は真を力の限り抱き締めながら、泣きに泣いて泣きじゃくった。今まで、何があっても自分の目の前では見せることのなかった涙に、さすがに真も、今回ばかりは心が痛む。
だが。
今の真には、ただただ、澪を抱き締めることしか、できなかった。
ずっとずっと心のうちに秘めていた、モノ。
それを口に出して、言葉として紡ぎだすには、自分の背負っているものがあまりにも重過ぎるのだ。
やがて、長いことしゃくりあげていた澪の身体から、安心しきった寝息が、聞こえ始める。泣きつかれて、眠ってしまったらしい。
安らかなその寝顔は、どこかしら、幸せそうな笑みを浮かべているようにも思えた。
目を覚まさぬように、そっと自分の布団に澪を寝かせると、真は音も立てずに立ち上がり、そして、部屋を出る。
「まこと……」
部屋を出る間際に聞いた幸せそうな澪の寝言が、真の脳裏に焼きつく。
そして――。
封印がとかれてから数えて2日目の朝を、真は糺宮神社の正殿の中で迎えた。 |