「うーん……」
聖華学園大学図書館の閲覧室で、夢人は一人、大きなため息をついた。
日本史辞典の権威とも言える『国史大辞典』を始め、図書館に置いてあるあらゆる歴史辞典、人名辞典をあたっても、今ひとつ織姫家の沿革がはっきりしないのである。
「織姫家に関する史料なんてほとんど見当たらない。……最も、糺宮神社の書庫に「織姫家文書」という形で大量に眠っている可能性は十分ある」
とは、聖華学園大学院の史学研究科に籍をおいている知り合いの大学院生の言だが、どうもそれが現実味を帯びて夢人の前に立ちはだかっているようだ。
JGBAに勤めている弥侘ルートでの情報の入手が不可能とわかった今、織姫家に関する情報は自分の足とカンで捜さねばならない。もちろん、最終的な目標は今のところ真ただ一人だが、ここ数日の間の出来事、そしていまだかつてないほどの氷浦市内の「荒れ」方から考えると、これはどうも真一人の取材では終わりそうにない――そう踏んでの調査なのだが、それは早くも大きな壁にぶつかっていた。
「織姫って、一体何者なんだ……?」
まだ取っ掛かりの段階にしか過ぎないものの、夢人は早々にその疑問にとらわれていた。
今のところはっきりしているのは、織姫家が後醍醐天皇の皇子・糺宮智良親王の子孫であること、その智良親王は当時高名な霊能者として名を知られていたということ、である。南北朝の動乱を描いた軍記物語『太平記』には「智良親王下岩城事」 「智良親王離宮方事」 「津崎重盛為霊異事」の三段で登場し、いずれも智良親王の超人ぶりを描いている。当然のことながら歴史学会はこれらの記述を事実に大幅な脚色を施したものとして「まったく信頼性がない」としているが、夢人はこの記述は大筋で本当だったのではないか、と見ている。軍記物語という性格上、その記述に何がしかの誇張や脚色が施されているという点は確かに否めないものの、描かれている事自体は「あの真の先祖なら」と納得できる範囲のものなのだ。他に同時期の出来事を描いている史料としては『梅松論』『増鏡』などがあるが、いずれも智良親王を有能な霊力者として紹介している。
その、当時としてはトップクラスの有名人であったことは間違いのないことであるにもかかわらず、本人の行動やその子孫についてははっきりしないことが山ほどある。
「氷浦の結界に織姫が一枚かんでいるのはほぼ間違いないはずなんだけどな……」
故郷の星診に張られた結界を調査したときに使った資料や、その時の経験を記憶の底から手繰り寄せながら、夢人は一人呟く。手にとった氷浦市の地形図には、いくつかの神社がマーカーでチェックされている。神社の設立、あるいは拡張、移転の段階で織姫家が絡んだと見られる神社をマーキングしたものだが、そのほとんどが氷浦市の東半分に集中していた。氷浦市の東部、北部、西部で流れている気の「質」が異なっているのがこれに由来するものだとしたら、ある程度納得のいく説明になる。そして、そのからくりは、おそらく古の織姫家が何者かと共に仕組んだものなのだ。
だが、それを探るにはあまりにも情報が少ない。
「なるほど……確かに織姫家に関する史料が少ないわけだ……」
呟いた夢人の脳裏を、
「糺宮神社には貴重な史料が大量に眠ってるはずなんだけど、それを所有してる織姫家が見せてくれないんだよなぁ……」
とぼやいていた大学院生の姿がよぎる。
これは一人では手に余る。
そう判断した夢人は携帯電話を手に取ると、一旦閲覧室を後にしたのだった。
「学校での真の扱い、かぁ……」
聖華高校の近くにあるファーストフード店の片隅で、刃は難しそうな表情で呟いた。
「織姫君、今日も学校に来なかったんだけど……それが当たり前みたいな感じになってるみたいなの。伊藤君も詳しいことは知らないみたいだし」
「なるほどねぇ……」
唯の言葉にいちいち頷きながら、学校側の扱いも当然なのだろう、と刃は思う。
車を無免許で乗り回して何のけちもつかない真である。JGBAという組織がどれだけの規模で、どれだけの影響力を持っているかはさすがに刃も見当がつかなかったが、これまで会ったことのある退魔士たちがそろいもそろって高級車に乗っていること、某県警広域特務課という一般には知られていない組織を通じて公権力とも何らかのつながりがあることから考えると、聖華学園などという一私立高校が口出しできるような次元の組織ではないことは容易に想像がつく。純粋に「一般大衆」の立場にいる唯の目には、確かに真に対する扱いは不自然極まりないものとして映るだろう。
「それで、榊君なら何か知ってるんじゃないか、って伊藤君が言ってたものだから……」
「うーん……あいつにも何かとややこしい事情があるからなぁ……」
ポリポリ、と頭を書きながら、刃がぼやくように答える。おそらく弘明も同じような反応を示したに違いないが、相手が相手なだけに、刃もこれ以上の答えは出しようがない。
「伊藤君も同じ事を言ってたけど……織姫君って、そんなにわけありなの?」
今ひとつ事情が飲み込めていない表情で、唯が尋ねる。
「唯の世話を担任に押し付けられた」
と刃にもらしていた真であったが、その割にはかなり親しげに――それこそ澪が不機嫌になるほど――唯と付き合っていた真である。初対面の相手や気に入らない相手に対しては見ていて気持ちがいいくらいなまでに無愛想な態度で応じる真にしてみれば、唯に対するこの態度は極めて珍しいと言っていい。
「わけありというか何と言うか……まぁ、クラスの連中があまり近づきたがらないのは、あいつの性格にもよるところも大きいんだろうけどな。あいつ、初対面の人間とか、気に入らない奴に対しては恐ろしく無愛想だから」
「そうなの?」
少し首をかしげて、唯は真と初めて会った時のことを思い出す。
確かに、思いっきり不審そうな表情でこちらに尋ねては来たが、それ以外は別に無愛想と言われるほどのものでもなかったはずだ。どうも、真に対する自分と他の認識が少しずれているらしい――刃の話を聞いて、そう感じずにはいられない。
「うーん……あまりピンと来ないな。教科書を貸してくれた時もそんな感じじゃなかったし」
えへへ、と照れくさそうに笑う唯につられて、刃も笑みを漏らす。
「まぁ、俺が話せるのはこれくらいだな。伊藤が言ってたのと大して変わらなかったんじゃないのか?」
「んー……そんなことないよ。なんとなくだけど、織姫君のことが少し分かったような気がしたし」
「そりゃよかった」
と。
テーブルの上に置いていた刃の携帯が「TRUTH」を奏で始める。
「あ、悪い。ちょっと電話してくる」
唯が頷くと、刃は店の外に出て、着信ボタンを押す。
「もしもし、梓瞳さんですか?」
「ああ、刃君。今、時間大丈夫かい?」
「ええ、まぁ、少しなら。ちょっと人と会ってたもので」
「そうか……今、どこに?」
「高校の近くにあるバーガーショップですけど……何かあったんすか?」
「いや、何、というほどのことでもないんだ。ちょっと手伝ってもらおうかと思ってね」
「真がらみのことすか?」
「うーん……そうだとも言えるし、違うとも言えるかな。真君というよりは、JGBAと関係があるかもしれない」
「そうですか……。あ、もう少ししたら店を出るんで、それからなら」
「そうかい? それじゃぁ悪いけど、終わったら編集部まで来てくれないか?」
「分かりました。それじゃぁ、また後で」
同じ頃。
自室のベッドの上に座り込んだ澪は、時計の針が時を刻んでいくのをぼんやりと見つめていた。
(真……どうしちゃったんだろう……)
屋上での一件以来、明らかに自分を避け始めた真。さらに、ここ二、三日は学校にも姿を表していない。
おそらくはこれまでにもあったとおり「仕事の都合」で来れなかったのだろうが、それ以外にも何かあったのではないか、と、澪は考え込んでしまっていた。
すでに、姉の深雪は真との間に何かあったことを感づいているようだった。さすがに露骨に疑惑の目を向けたりはしないものの、心配そうにこちらを見ていることが多々ある。自分より5年長く生きている深雪は、普段どおりに振舞っていても、その裏で何かと心配の種を抱えていることなど一から十まで何もかもお見通しらしい。
「……会いたいよぅ……」
つぶやいた澪は、真が遠い遠いところへ行ってしまったような気がした。
「ああ、こっちこっち」
編集部の入り口に刃が姿をあらわしたのを見て、夢人は席を立ち、手をひらひらさせる。
「すまないね、人と会ってたところを呼び出したりなんかして」
「別に気にしなくていいすよ。それより、何を手伝えばいいんすか?」
「まぁ、今すぐに、というわけではないんだ。まだきっちりと裏が取れたわけじゃないから、今から俺が言うことはすべて推論の域を出ていない、ということを前提に聞いて欲しいんだ。いいね?」
刃が頷くと、夢人は「じゃぁ」と、先日真と面会した部屋まで移動する。
「……刃君、君は最近多発している不可解な交通事故についてどう思う?」
机の上にさまざまな資料を広げながら、夢人は心なしか声のトーンを落として尋ねる。
「どう、って……まぁ、少なくとも普通じゃないと思いますね。真も言ってましたけど、俺たちが出くわした事故の現場だけでも今年に入って6件の交通事故が起きてるわけだし……」
「まぁ、そんなところだね。俺も今回……というか、最近の事故の起こり方にはかなり不自然な部分があると思ってる。……ところで、この間の事故のことなんだけど、何か不審に思った点はなかったかい?」
尋ねた夢人に刃は「うーん……」としばらく考え込んだ後、
「そうすね、車がガードレールの向こう側に吸い寄せられていくような感じがしましたけど」
「やっぱりそうか……」
「……こないだの事故が、どうかしたんすか?」
「うん、今はまだ気になっている、という段階にしか過ぎないんだけどね。俺がこれから話そうとしていることとの関連性については、まだはっきりしたことはいえないんだ」
「はぁ……」
夢人にしては珍しく要領を得ない返事に、刃もただ頷くしかない。
「ああ、悪い。変なことを言ってしまったな。それより、ちょっと、これを見てくれないかな」
そう言うと、夢人はいくつかの点にマーキングがされた地図を出す。
「氷浦市の地図……ですか?」
「ああ、そうなんだけどね」
「で、このマーキングは何なんです? 神社にしかついていないみたいなんですけど」
「神社か……そうだね、神社は神社でも、マーキングした神社には、すべてある共通点があるんだ」
「共通点、ですか?」
「ああ。マーキングされてる神社っていうのは、創建時、あるいは拡張や移転をしたときに織姫家が絡んだと思われる神社なんだ。さらにいうと、そういった神社っていうのはすべて氷浦城から東にある」
「はぁ……」
よく見ると、マーキングされているのは糺宮神社を始め、別宮、御木城跡などの名前が見える。
「なるほど、確かに氷浦城から東にありますね」
「それで、ここからは俺の推測にしかすぎないんだけど……この氷浦には、こういったある共通点をもった神社を中心にした結界が張られてたんじゃないだろうか。それで、この結界に何らかのほころびができたせいで、最近不審な事故が起きてるんじゃないか――俺は、そう考えてる」
「結界……ですか」
いまいち要領を得ない表情で、刃は呟く。
「ああ。昔は今とは比べ物にならないくらい神仏に対する畏怖の念が強かった。だからこそ人々は神社仏閣を大切にしてきたし、何か重要な話し合いがあるときは必ず神社や寺などに集まって物事を決めてきたんだ。そして、それは何も農民や町民などの民衆だけじゃない。彼ら民衆を支配する為政者にも、神社仏閣っていうのは政治的に重要な「道具」として利用されたんだよ。
で、これは俺の故郷――星診を調査したときに気づいたことなんだけど、古の為政者は自らが支配する土地を守り、反映させていくために、政治とは別の霊的な次元でも対策を立てた。それが、ある共通点を持つ神社仏閣を極めて計画的に、地図上で幾何学的な模様を描くように配置していったんだ」
「つまり、それが梓瞳さんの言う「結界」なんすね?」
頷くと、夢人は続ける。
「それで、俺は実際に何らかの形で共通点をもっている神社がないかどうか調べてみた。その結果が、この地図というわけさ」
「でも……どうして東半分なんすかね。バランス的におかしくないすか?」
刃の問いに、夢人は苦笑いを浮かべる。
「そこなんだ。実は真君のこともあったから、単に織姫家がらみの神社を調べていった結果こうなった、というだけでね。残りの西半分についてはまだ調べがついてない。それに、西半分はちょっと複雑なことになりそうなんだ」
「というと?」
「これはあくまで俺の主観にしか過ぎないけど、氷浦市に流れてる気の「質」のようなものが東半分と西半分で違うんだ。もう少し詳しく言うと、桜坂区と船津区でも「質」が違う。つまり、東半分と桜坂区、船津区の3つに分かれてることになる」
「ということは、桜坂区と船津区にも東半分と同じような結界がある、ってことすか?」
「いや、俺はそうじゃないと思ってる。氷浦市に張られた結界は一つだけで、その中で3つの系統がうまく「すみわけ」を行ったんじゃないかな。でないと、さっき君が言ったとおり、氷浦全体を見たときにまったくバランスが取れてない。まぁ、バランス、っていうのは誰がこの結界を張ったのか、ということによってだいぶ変わってくるとは思うけどね」
「なるほど……それで、梓瞳さんはその結界を誰が張ったと思ってるんすか?」
「さぁ……はっきりとしたことはまだ言えないけど、俺は氷浦藩主秋島家が主体になったと睨んでいる。智良親王の前にも後にも、この氷浦を勢力圏のうちとしていた氏族は多いけど、氷浦を中心に勢力を張った氏族っていうと平安時代から南北朝期に勢力を張っていた氷浦氏と江戸以降の秋島氏しかないんだ。でも、氷浦氏の線はまずないといっていい。なぜなら、ここにマーキングされた神社のうち、いくつかは江戸時代初期になって創建されたものだからね」
夢人の言葉に、刃はただただ頷くだけだ。どうやらこの男、ただ軽いだけの人間ではないらしい。
「それで、話はさっきの不審な事故に戻るんだけどね。俺はこの結界に原因の一つがあると思うんだ。つまり、江戸期に張られ、今まできっちり機能してきた結界に何らかのほころびが生じて、その結果、あるポイントで不審な事故が多発する……最近、思い当たるフシはないかい?」
「思い当たるフシって言われても………あ、そう言えば」
突然夢人に尋ねられ、考え込んだ刃だが、その答えはすぐに浮かんでくる。霊関係でやばそうな事といえば、あの男の他にはあるまい。
「そういえば、先月の終わり頃……」
と、刃は相田との一件の顛末を手短に話す。
事が事だけに、最初は半信半疑、といった様子の夢人だったが、話が進むに連れて、その表情の中に確信めいたものが浮かんでくる。
「……なるほど、確かにその相田という人物がからんでる可能性は高いね。でも、その男は真君、そして葛城さん……だっけ。その人と戦って、こてんぱんにのされてるんだろう?」
「それはそうなんすけど……ただ、相田のバックには相当大きな組織がいるみたいなんすよ。相田だってまだあきらめてないだろうし、もし相田があきらめても、また別の人間が送り込まれるんじゃないですかね」
「その可能性は否定できないな……。それで、今も真君たちは相田という男のことを?」
「いや、直接事を構えてはいないみたいですね。もちろん、警戒はしてるみたいすけど」
「なるほど……これはもしかすると、結界の調査を進めていくうちにクロスしちまうかもな」
瓢箪から駒、とはこのことなのだろう。事の発端は「かっこいい高校生」の調査だったのに、いつの間にか、夢人は氷浦に張られた結界をめぐる攻防に首を突っ込んでしまっていたのだ。
「これは大事になるかもな……」
背中に冷たいものが走るのを感じながら、夢人は呟く。
――悲しいかな、その呟きはそう日を置かずして現実となってしまうのだが、もちろん、この時の夢人には知る由もない。
「最近会議ばかりやってるけど、前からこんな感じだったっけ?」
氷浦駅前通りにあるJGBA氷浦支部へと向かうゆかりの車の中で、アミアはそう尋ねた。
「まさか。ベルの言うとおり、最近になってからよ、JGBAが会議を頻繁にやるようになったのは」
「へぇ、やっぱりそうなんだ。何か重大な事件でも起こったのかしら?」
「そうねぇ……やっぱり、相田っていう男のことかしら」
「アイダ?」
「ええ。昔JGBAに登録してた退魔士で、今じゃ裏社会で暗躍する霊能者なんだけどね」
「ありがちなパターンよね。でも、それだったら別に会議を開く必要なんかないでしょう?」
「確かにそうなんだけどね。問題はそれからなのよ。その相田っていう男が、よりにもよって氷浦の御霊をつかって何かやらかそうと企んでたみたいなの」
「御霊を使って? また無茶なことをするわね」
ため息を交えて、アミアが肩をすくめる。
「まぁ、考えたのは相田じゃなくて、そのバックにいる組織らしいんだけどね。一度は真君と葛城さんが何とか防いだんだけど……これで終わり、というわけには行かないみたいね。それに、御霊に手を出そう、っていう考えそのものがそもそもJGBAにはなかったことだから、余計気になるみたいなの。実際にいくつかの結界がすでに破られてる、って話しだし、最近多発してる不審な交通事故との関連性も注目されてるらしいわ」
「なるほど、それでこの間の会議に広域特務課の人間が来てたのね」
「そういうこと」
「あたしが日本を離れてる間に、いろいろあったのねぇ……」
感慨深げに呟くアミアに、ゆかりがクスクスと笑い声を上げる。
「着いたわよ」
「ありがと。ちょっと電話してくるから、先に行ってて」
車を降り、「分かったわ」と頷くゆかりから離れて人気のないところにくると、アミアは携帯で電話をかける。
その相手は――
「相田だ」
「レイジーンです。今、会議場に着きました」
「首尾は? 気づかれていないだろうな」
「問題ありません」
「それで、状況は?」
「JGBAはこちらの動きに対してかなり敏感になっているようですね。ゆかりの話によれば、すでにいくつかの地点で結界が破られているということまでは把握できているようです」
「そうか。織姫たちの動向は?」
「今の所、目立った動きはありません」
「わかった。引き続き情報収集を頼む」
「了解」
同時刻――。
夜の帳も下り、人気のなくなった御木城跡の展望台で、真は一人、笛を吹いていた。
団欒のぬくもりが伝わってくるような暖かい家庭の光、虚栄とつかの間の快楽の狭間に揺れ動くネオンサイン、そしてせわしなく動き回り、休むことを忘れた人々を象徴するかのような車のヘッドライト――さまざまな光がうごめく氷浦の町並みを見下ろしながら、真はただ心の赴くままに笛を奏でている。そこには楽譜にちりばめられた音符のような「作られた」心の音色は、ない。
ただただ笛を奏でる真の傍らには、いつの間に現れたのか、長身の女性がその笛の音に聞き入っていた。
「……お前の笛の音はいつ聴いても切なさで胸が締め付けられる。巧くはなったが、それが故に余計に心に響く。……今宵は一体何を想っている? 無駄な足掻きと分かっていて悩み苦しむ己の身か? 相も変わらずくだらぬ憂き世のことか? ……それとも」
この上なくつまらなさそうな、それでいてこれ以上ないくらいに楽しそうな口調で、女は一人、真に語りかける。
「それとも、懸想した女への揺れる想いか?」
突然、笛の音が止む。
「ああ、悪い。冗談だ」
悪びれもせずにそう言うと、女は声を出さないまま、肩を震わせて笑う。
「……何か、御用ですか?」
とうの昔に日も落ちたというのに、真は傍らに置いてあったサングラスをかけると、女のほうを振り向く。
「ふん……そんな安物で大丈夫なのか?」
「安物……ですか。まぁ、他人に危害を及ぼさない程度にはなりますよ」
サングラスに手をかけながら、真は微かに笑みを浮かべる。
「……それはそうと、近いうちにお前にお呼びがかかる。何のためにかは私の口からはいえないが、大方の想像はついてるだろう?」
「ええ……やっぱり、あれで終わりではなかったんですか?」
「まぁ、そんなところだ」
「そんなところ……ですか。咲夜さんも人が悪い」
「何のことだ」
「だって、いつだってすべて終わってから事情を話してくれるじゃないですか」
「ふん、私だって万能ではない。「読み」が外れることだってあるし、第一、先のことを知っていても、何の楽しみもなかろう?」
フフ、と、女は笑みを浮かべる。
「まぁ、心配するな。お前が死にそうになったときは助けてやるよ」
「どこまで本当なんだか……」
微かな苦笑いを浮かべながら、真は手にしていた笛を袋の中にしまう。
「もう帰るのか?」
「ええ。最近、眠くて仕方がないんですよ」
「ほぉ……それは大変だな」
人の悪い笑みを浮かべながら、咲夜はポン、と真の肩をたたく。
「まぁ、いい。眠れるうちに眠っておけ」
「ええ、そうします。……それでは」
「ああ。またな」
手をヒラヒラさせる咲夜に軽く会釈をすると、真は車のドアをあけ、運転席のシートにその身を滑り込ませる。
つかの間の眠りについていたエンジンが再び目を覚ましたときにはもう、咲夜の姿はなく――空には、数多の星々が輝いていた。 |