翌朝。
眠そうな目をしばたたかせながら、真はいつもより早目に教室に姿を現した。
「あ、織姫」
椅子に座り、大きく伸びをしている真の所へ、弘明が心配そうな表情でやってくる。
「大丈夫かい? 今年はやけにハイペースで休んでるみたいだけど」
「ええ、まぁ、いろいろありましてねぇ……」
ほぼお約束どおりの返事をよこした真に、弘明は苦笑いを浮かべて机の上に腰掛ける。
「……それで、何か、変わったことはありましたか?」
「いや、いつもの通り平穏無事だったよ。押上さんもだいぶ慣れてきたみたいだし」
「そうですか。それはよかった」
頷くと、真は口元を抑え、大あくびをする。
「……寝てないの?」
「ええ……そうそう寝てられるような状況ではありませんでしたから」
「それで、よく早目の電車に乗って来れたね」
「ははは……こういう時こそ、逆に余裕を持ってこないと。何をしでかすか分かったもんじゃありませんしね」
「そういうもんかねぇ……」
再び苦笑いを浮かべる弘明の横で、真がもう一度大あくびをする。
「……というわけで、寝てますね」
「あ、ああ……おやすみ」
机に伏せたかと思うと、すぐに寝息を立て始める真。そんな彼を心配そうに振り返りながら、弘明は真の席を後にした。
「……何なら、送ってくわよ?」
同じ頃。
いつの間にかとんでもない時間になり、恐慌状態に陥っていた澪を見かねたように、車のキーを持った深雪がドアの隙間から顔をのぞかせる。
「ホント?」
ドライヤーとブラシを手に、長い髪の毛と悪戦苦闘していた澪が、パッと顔を輝かせてそちらのほうを振り返る。
「嘘ついたってどうにもなんないでしょ。……それにしても、澪が寝坊するなんて、珍しいこともあったもんね」
「だって、昨日夜遅くまで勉強してたんだもん……痛ッ!」
髪の毛が絡まっていたのか、ブラシで懸命に髪をとかしていた澪が顔をしかめる。
「……ああ、もう。貸しなさい!」
このままでは完全に遅刻してしまうと見たか、澪からブラシを引っ手繰ると、深雪は手馴れた手つきでテキパキと澪の髪の毛をとかしていく。
「お姉ちゃん、そんなにすると痛いってば」
「そんな悠長な事を言ってる場合じゃないでしょ」
乱暴そうに見える手つきの割には丁寧に髪をとかし終えると、深雪は傍らにあったゴムを手渡す。
「とっとと着替えて、下に降りてきなさいよ?」
そう言うと、深雪はポン、と澪の肩をたたいて、部屋を出る。
遠野家のあわただしい朝は、こうして、いつもとほぼ変わりなく過ぎていくのであった。
「織姫……は寝てるのか? まぁ、いないよりはましか」
朝のホームルーム。
結局、担任である稲葉教諭が来てもなお爆睡していた真は、まるでそれが当然であるかのような処理を受ける。
(これもよくあることなのかな……)
「押上」
「は、はい」
眠ったまま、ぴくりとも動かない真を見つめていた唯は、自分の名前が呼ばれたのに気付き、慌てて返事をする。
「ぼうっとするなよ」
そう一言たしなめると、稲葉はパタン、と出席簿を閉じる。
「あー、分かっているとは思うが、もうすぐ中間テストが始まる。えーと、朝比奈、入江、織姫、須貝……と、あと、押上。この五人は各教科担当の先生方が心配されているようなので、その辺をわきまえて勉強しとくように。……あー、伊藤」
「はい、先生」
稲葉に呼ばれて、弘明が手を挙げる。
「他の連中はともかく、織姫と押上に関してはやむをえんところもあるから、できることだけでいいから、お前がサポートしてやってくれ」
「わかりました」
「よし、今朝は以上。各自、次の授業の準備をしとくように。解散」
稲葉が教卓を離れるのと同時に、教室は再び喧騒に包まれる。移動教室のための準備をする生徒や、引き続きこの教室で授業を受けるために教科書やらノートやらを取り出している生徒が、教室の中をあわただしく移動していく。
そんな中、真は深い眠りについたまま覚めようとせず――それを、唯は心配そうに見つめることしかできなかった。
同じ頃。
記桜出版のオフィスの中で、授業を自主休講した夢人は星診に電話をかけていた。
『結界を張ることによって、御霊から力を引き出すことができるか、だって?』
「ええ。そういうことが果たしてできるものなのかな、と思って電話したんすけどね」
『うーん……』
電話の向こうで、弥侘がひとしきり考え込む。
『まぁ、できんこともないんじゃないか?』
「できないこともない……すか?」
『ああ。俺も理論的なことは分からんが、星診神宮がそうだっただろ? あそこだって、星診に眠ってる御霊のいくつかを管理してたとこだったはずだ』
「……でも、星診の場合は祟り神でしたよ? 確かに、御霊もいることにはいましたけど……」
いまいち釈然としない口調で、夢人は尋ねる。
『考えてもみろ。星診の祟り神の大元が虐げられ、貶められた原住民だったとしたら――性格的には御霊と大して変わらん。違いといえば、その力の元が無念の死によるか、それとも支配者に対する恨みか、というあたりだ。もちろん、星診と氷浦では元になってる理論が違うかも知らんが、結果的には同じ事をやってる可能性は高いぜ』
「そうか……そう考えることもできますね」
『……おい、また面倒なことに首を突っ込んでんじゃないだろうな?』
「そんな言い方はないっすよ。今回は関わろうとして関わったわけじゃないんですから」
『ってことは、やっぱり何か面倒なことになってんだな?』
少しばかり、弥侘が声をひそめる。
語るに落ちるとはこのことを言うのだろう。苦笑いを浮かべて、夢人は続けた。
「まぁ、面倒といえば面倒なんですけどね。実は………というわけなんです」
『ほぉ……そんな面白いことをやらかす奴が氷浦にいたのか』
手短に事情を話した夢人に、弥侘が低く笑いながら応える。
「先輩、人事だと思って……」
『悪い悪い。河原の奴、何事で氷浦に行ったのかと思ってたんでな。しかし、氷浦の連中も大変だな。そんな奴を相手にしてたら本来の業務に支障が出るだろうに』
「だから他の所から応援を呼んでるんじゃないんですか?」
『ま、そりゃそうなんだけどな』
あくまで人事のように話す弥侘に夢人は軽くため息をついて、
「それで先輩、この件についてなんですけど……」
『分かってる、俺の意見を聞きたいんだろ?』
「ええ」
『そうだな……。まぁ、これはあくまでお前が得た情報と、お前の話からしか判断できない事なんだがな。とりあえず、お前の考えはそれであってると思うぜ』
「なんか頼りない回答ですね」
『仕方ねぇだろ、俺がご当地にいるわけじゃねぇんだからな。ただ、氷浦の秋島っていやぁ、初代藩主の頃から明治維新まで一貫して呪術政策の研究に力を入れてきたって話だし、大掛かりな結界を張るのもお手の物だったんじゃねぇか?』
「でも、仮にそうだとして、それを実践できるような人材が安定して供給されたんですかねぇ……?」
『最もな疑問だがな。そこが氷浦という土地柄だと思うぜ。織姫、葛城、綺堂、蓮井、武藤……在地系と譜代系、両方の系統にそこそこ名の知れた霊能者の家があったからな。五つ家があれば、[ハズレ]が一人二人いたところで、どうってことなかったんじゃねぇか?』
「そういうもんですかねぇ?」
『そういうもんだろうさ』
「……それにしても先輩、氷浦についてやたら詳しいっすね」
『なぁに、お前の話を聞いて興味がわいてな。ちょっとばかり調べてみたんだよ』
「はぁ、そうですか……」
『それより、大丈夫なのか?』
「は? 何がです」
『んなヤバイことに首を突っ込んでるんだったら、JGBAなり広特なりが介入してこないはずはないんだがなぁ』
「まぁ、色々ありましてね。今のところはお目こぼししてもらってるみたいです」
『色々、ねぇ……』
何かを疑っているような口調で、弥侘がため息混じりに呟く。
「そう、色々あったんですよ」
『……それよりお前、織姫真とは接触できたのか?』
「ええ、まぁ……」
いきなり真のことについて水を向けられ、夢人は動揺を隠しきれない、ひどくあいまいな返事をするにとどまる。
『何だ。その調子だときれいさっぱり黙殺食らったみたいだな』
「……せんぱーい。何なんですか、あの態度」
『はははは。不用意に不審人物を近づけるほど馬鹿じゃない、ってことさ。それに、織姫家っていうのは先代が死んでからこっち、JGBAや広特との仲があまりよろしくないんだよ。お前みたいな奴が近づいていったところで、最初のうちは黙殺されるのが当然だぜ』
「……まぁ、いいです、彼のことは。どの道仕事になりそうにないんで、差し替え用の原稿のネタを探してるとこなんですよ」
『でも、興味はわいた、ってとこだろ?』
「へ? どうしてそれを」
『長年付き合ってやった先輩の勘、という奴だ』
「なんですか、それ……」
一気に脱力したような口調になる夢人を、弥侘が電話の向こうで笑い飛ばす。
『まぁ、いいや。下手をやって死なんようにしとけよ。今回ばかりは洒落になってない』
「それは分かってますよ」
『じゃぁ、そういうことで。俺もそろそろ仕事を始めなきゃ上の連中ににらまれるんでな』
「忙しいとこ、ありがとうございます」
『なーに言ってやがる。どうせ、んなことこれっぽっちも思っちゃいないだろーが。じゃぁな』
ははは、と夢人が乾いた笑を漏らすと、弥侘は一方的に電話を切る。
「うーむ、いつ話しても強引な人だ……」
携帯電話をポケットに入れながら、夢人は誰にともなく呟く。
ありえないことだが、もし、弥侘と深雪が意気投合して、二人一緒に自分の前に現れたら――。
「くわばらくわばら」
途端に身震いを覚えた夢人は慌てて首を振り、怖い想像を振り払うのであった。
昼休み。
周りが騒がしくなったためなのか、真はようやく、大きく伸びをしながら目を覚ました。
「おはよ」
まだ眠り足りない、といったふうに目をこする真に、唯はくすくす、と笑みを漏らしながら話し掛ける。
「ああ……おはようございます」
なんとなく間の抜けた答えを返しながら、真は目をしばたたかせる。どうやら、まだ完全に眠気が抜け切っていないらしい。
「結局、ホームルームからずっと寝ちゃったのね」
「はぁ……そうですか」
「……学食でも、行く?」
遠慮がちに尋ねた唯に、真は眠い目をこすりながらうなずく。
(……大丈夫なのかしら……)
なんとなく行動が幼児化している真を見つめながら、唯は沸き起こる不安を抑えることが出来なかった。
「あれ?」
食べるものも食べて、手持ち無沙汰で屋上から学校の中を見下ろしていた刃が、ふと、妙な声をあげた。
「どうしたの?」
傍らで弁当を食べていた澪が、その声につられて顔をあげる。
「ありゃぁ、真と転校生じゃないか。あいつ、今日は学校に来てたんだ」
「どこ!?」
真と聞いて、澪が血相を変えて鉄柵にへばりつく。
「ほら、あそこ」
刃が指差した先を食い入るように見つめると、なるほど、確かに真と唯が渡り廊下を特別棟方面に向かって歩いているのが見える。
「まぁ、この時間からして学食に行こうとしてんじゃねーか?」
刃が腕時計を見やりながら、もっともなことを言う。
「………」
「どうした?」
鉄柵にへばりついたまま、無言のままでいる澪に、刃はいぶかしそうな表情で尋ねる。
と――。
「……もう、許せない!」
短く言うと、澪はサッと立ち上がり、そのままの勢いで駆け出そうとする。
「まぁ、待てよ」
すんでのところで、刃は澪を押しとどめる。
「止めないでよ」
「だから、待てって。今行った所でどうにもならないだろ? 火に油を注ぐようなもんだぜ」
「でも……」
「とにかく、落ち着けって。真だって他の女の子と歩く事だってあるさ」
いまいち意味の通じない言葉で、刃は澪を諭す。ここは何としてでも、澪を踏みとどまらせねばならない。ここで真と澪が接触してしまうと、コトはゴールデンウィークの嵐――ゆかりといっしょにいるところをはちあわせした、あの忌まわしい事件だ――などとは比べ物にならない、とんでもない嵐が吹き荒れることになる。
そしてそれは、不幸にしてその場に居合せた刃にもとばっちりが飛んでくることを意味している。真と澪の仲も大事だが、それ以上に自分の身が危ない。
(真……お前、何やってんだ?)
すでに怒りが臨界点に達している澪を前に、刃が内心、そうつぶやいたのも、無理なからぬこと。
彼の奮戦の甲斐あって、その場は何とかことなきを得たのだが――この分では、長くは持たない。
破局の時が迫ってきつつあることを、刃は肌で感じていた。
見上げた空の片隅には、不穏な黒雲が立ち上っている。
その、空の下。
庭を元気に走り回っている葛城美弥子嬢を横目に、葛城蒼雲は深刻な表情で一枚の地図を見つめている父・俊晴と向かい合っていた。
「ふーむ、これを真君が、ね」
「ああ。俺も最初は半信半疑だったが、実際にその場を回ってみると、そうも言ってられないような気がしてな」
「確かに、秋島家が氷浦市中に結界を張っていたのではないか、という話は前からあった。秋島家の呪術政策への力の入れようはそれを思わせるには十分だったし、JGBAや氷浦警察署も結界の存在については議論が交わされ、実際に調査チームを組んだこともある。だが、結局は探し出すことが出来なかった」
「それはやはり、今度のような[とっかかり]に欠けていたからなのか?」
尋ねる葛城に、俊晴が重々しくうなずく。
「そういった作業に我々の祖先が関わっていたということは、葛城家に伝わる文書の記述からある程度推測が出来る。だが、彼らが一体何をやっていたのか、という肝心な部分の記述が抜けている。おそらくは、秋島家中における譜代系呪術師と在地系呪術師の扱いに差があったのではなかろうか?」
「譜代系と在地系の確執……結局は、そこに行きつくのか?」
「おそらくは、な。JGBAと氷浦警察署が結界に行きつけなかったのは、そういった資料の決定的な欠落にあるだろう。明治維新とそれに伴う混乱の中で秋島家の手を離れた蓮井、武藤といった譜代系呪術師の家系は衰退し、遂には断絶した。肝心の資料は廃藩置県で東京に移住した秋島家の倉庫に全て納められたし、その倉庫も先の大戦で秋島家の屋敷自体が全焼してしまって、すでにない。それに対して、JGBAや氷浦警察署は戦後になってから在地系呪術師の家系に連なる者達が中心になって組織されたものだ。最初から結界に関する情報が欠落していた、というわけだな」
「口伝、という形で残ったものは?」
「ほとんどない。あったとしても、抽象的に過ぎて今となっては何を指しているのかすら分からん。当たり前だが、結界そのものが禁忌事項だったのだ。そういったものはたとえ口伝で伝えられていったとしても、文字情報が発達している時代のことだ。時がたつにつれて風化し、忘れ去られる運命にある」
実体が何を指しているのかが分からなくなるのは口承伝承の常だ、と俊晴は付け加える。
「譜代系と在地系の暗闘か……。そこまでは考えが及ばなかったな」
ふぅ、と、葛城は軽くため息をつく。
「蓮井家や武藤家は秋島が氷浦に入部する以前からの家臣だ。徳川家が氷浦を支配する前からこの地に勢力を張っていた織姫、綺堂、葛城といった家は、それらに比べると信用が置けなかったのかも知れん。秋島入部から明治維新まで、江戸期を通じて在地系の呪術師が譜代系の呪術師の上に立ったことは殆どなかったからな」
それにしても、と、俊晴はお茶を飲みながら続ける。
「氷浦に眠る御霊をそのような大それた事に使おうとは……罰当たりな奴もいたものだのぅ」
急に老け込んだような口調で、俊晴は縁側のほうに目を向ける。
「いずれにせよ、そのような事はなんとしても止めねばならん。それが出来ねば……あの娘の未来も、暗いぞ」
庭に現れた和美にじゃれついている美弥子の姿を眺めながら、俊晴はそう、呟く。
様々な人間の思いが交錯する氷浦の空は、次第に曇りがちになり――そして、予報にはない大雨となった。
「どうしよう……」
今日の天気予報によれば、氷浦地方はそれこそ梅雨を通り越して一気に夏が来たかと思わせるほどの、徹底した晴天に恵まれるはずだった。
予報の降水確率は、0%。
それ故に、聖華高校の学生の殆どが、傘を持参してきてはいない。
時折、ホッとした表情で傘を差して玄関を出ていくのは、たまたま置き傘があったのか、あるいは朝降っていた雨がやんで、そのまま学校に傘を忘れていた者たちなのだろう。それ以外の殆どの学生は、途方に暮れて恨めしそうに空を見上げたり、意を決して大雨の中を走って帰ろうとしている。
唯は、というと――。
どちらかと言えば、彼女は前者に属していた。
恨めしそうに天を見上げては、濡れて帰るか、このまま小ぶりになるまで待つか、決め兼ねているという様子である。
と。
「一緒に帰りますか?」
もうすっかり聞きなれた声が、唯の背後から、かかった。
「え?」
といって降りかえると、傘を持った真が立っている。
「織姫君、置き傘してたの?」
「いえ……降るかなぁ、と思ったんです。なんとなく」
そう言うと、真ははにかんだ笑顔を見せる。
その笑顔に誘われるかのように頷こうとして――しかし、唯は思いとどまった。
「遠野さんは、いいの?」
唯の言葉に、真の顔が、ほんの一瞬だが翳りを見せる。
「ああ、いえ……教室に行ったら、もういなかったものですから。それに」
「それに?」
「ここから近いんですよ、澪の家は。濡れて帰ってしまったのではないでしょうか」
「そうかな? 案外、織姫君を探して学校中を走り回ってるのかも」
悪戯っぽい笑みを浮かべる唯に、真はハハハ、と力なく笑って見せる。
「……まぁ、いいわ。それじゃぁ、入れてってもらおうかな」
「どうぞ」
頷くと、バサリ、という音と共に、真の傘が花開く。
「それでは、行きましょうか」
「……うん」
照れ隠しにうつむいた唯に少し首を傾げつつも、真はゆったりとした歩調で、雨の中へと歩を進める。
唯は、遠くで雷が鳴るのを、聞いたような気がした。 |