「いい加減に起きたらどうだ。もう、ずいぶんと日が高くなっているぞ」
少しばかり苛立たしげな表情をした咲夜に揺り動かされて、真は目を覚ました。
「ん………」
まだ眠い目をこすりながら、真はゆっくりと半身を起こす。
「今、何時ですか?」
尋ねられて、咲夜は時計を見やる。
「十二時ちょうどだ。お前にしては珍しく寝坊だな。それほど疲れていたのか?」
フフ、と咲夜が笑みをもらす。
「ええ、まぁ……」
曖昧に頷きながら、真はベッドから降りると、大きく背伸びをする。
「ああ、真」
「何です?」
「一息ついたら、外に出よう」
「……?」
咲夜の誘いに、真が首を傾げる。今まで、真が咲夜を何かに誘うことはあっても、その逆はほとんどなかったからだ。
「昼餉くらい、二人で食べに出ても罰はあたらないだろう?」
キョトン、として見つめる真の鼻先を、咲夜がピン、とはじく。
「一人きりの朝餉は、非常に味気なかったからな」
「……分かりました」
ほんの一瞬、頬を膨らませて駄々をこねるようなしぐさを見せた咲夜に、真が微かに笑いながら頷く。
「とりあえずシャワーを浴びてきますから、少し待っていてください」
「分かった」
咲夜が頷くと、真は着替えを持ってバスルームの中へと入っていく。
――十数分後。
真と咲夜は連れ立って街の中へ出た。
梅雨を前にして、空は久しぶりに太陽が顔を出し、初夏を思わせる陽光を降らせている。
周りには誰一人して自分を知る事のない、旅先の空気がそうさせたのか――二人は束の間の急速を楽しむ恋人同士のようであったと、後にただならぬ騒動に巻き込まれることになる男は、そう語っている。
同じ頃。
昼食を食べ終えた伊藤弘明は、先ほどの伝言をどう扱うべきか、思案に暮れていた。
真が学校を休んでから、すでに五日が経っている。
似たようなことはこれまでにも何度かあったものの、今回はそれとは少し様子が違うことを、彼は感じていた。
まだ真のことをよく知らない唯ならともかく、澪までもが何とも腑に落ちない様子なのだ。
そんなところへ、真のことで話がある、と1年生から呼び出しを受けたのは、つい先ほどのことだ。
「訳あって氷浦を離れているが、心配しないで待っていて欲しい――」
真が、澪にそう伝えて欲しいと、少年に頼んだのだという。
思わず、弘明は首をかしげた。
「心配しないで待っていて欲しい」
と言っている割には、かなり不自然な伝え方である。
何故に、わざわざその少年――彼は、真はアルバイト先の同僚だと言っていた――から自分を介して澪に伝えるなどという、実にまわりくどい方法を取っているのか?
その程度の伝言なら、直接澪に連絡を取れば済む話なのだ。
と、いうことは――、
「直接連絡を取れる状況にはない、ということか……。これじゃぁ、余計に心配しちゃうよな」
これはしばらく、保留しておこう。
「じゃないと、何されるか分かったもんじゃないし」
唯が転入してきた日のことを思い出して、背筋に寒気が走る。
澪の前で、真に関して不用意なことを言えば、とんでもないことになる――今度は、首を締め上げられるだけではすまないかもしれないのだ。
軽く頭を振って、弘明は次の授業の準備を始めた。
「うむ、悪くない」
宿泊しているホテルから程近いターミナルビルの中にあるレストランで、咲夜は満足げに頷いていた。
「……素直においしいと言ったらどうです?」
向かい側に座っている真が、苦笑まじりにたしなめる。
「ふむ。この間、お前が作ってくれたカレーは美味かったぞ」
「………」
「何を赤くなっている?」
見る間に耳まで真っ赤に染まっていく真を見ながら、咲夜が意地の悪い笑みを浮かべる。
「カレーは誰でも作れるからこそ、上手く作るのは難しいぞ。私はそういった、妙なところで器用なお前が好きだ」
「誉められているのか、それともけなされているのかよく分からない言い方ですね」
「気にするな。多分、誉めているはずだ」
「多分、ですか」
あからさまに憮然とした表情を見せる、真。彼がこういった表情をするのは、極めて珍しい。
「まぁ、いいではないか。ここでこうして二人で平和に昼餉を食していることを知ったら、氷浦に残してきた連中は激怒するだろうが――今のお前には、こういう時間が必要だ」
咲夜の言葉に、真の顔がサッ、とこわばる。
「フフ、そういう顔をしてくれるな。休み無しに戦ってばかりいては、いずれどうにもならなくなってしまう。……私も心配なのだ。お前のことが、な。それに――」
「それに?」
「――いや、よそう。少なくとも、こういう場ではなすことでは、ない」
珍しくばつの悪そうな表情で、咲夜が話をそらす。
咲夜はさりげなく、というよりはむしろ露骨に話をそらす事のほうが多い。それだけに、それ以上話を続けようという気が起こらないし、また続けようとしても、無駄なことだった。
「そうですか?」
結果として、真はいつも、わずかばかり首をかしげてその話題について触れるのをやめざるを得ない。
また新たな波乱の波が、自分に近づきつつある――ただそれだけのコトしか、今の真には分からなかった。
「結局、何も分からずじまいか」
午後になって、もう一度病室を訪れたゆかりから話を聞き終えて、葛城は軽くため息をついた。
「ここまで何も分からないとなると、真君の行方に関しては本当に誰も知らないんだろうな」
「ええ……。瀬名君をはじめとして、桜坂のほうでも真君の行方を捜しているそうなんですが……。まだ、手がかりはつかめていないようです」
「真君の実家や、澪ちゃんのほうははどうなってるんだ?」
ゆっくりと、ゆかりが首を振る。
「駄目ですね。何の連絡もないそうです。それに、JGBAが監視対象に指定したことで、織姫家とJGBAの間で折り合いが悪くなっているらしくって……」
「なるほど、例え連絡があったとしても情報提供はしない、ということか」
頷くゆかり。
「肝心なのは、誰が最初に居場所をつかむか、だな……」
「誰が、ですか……?」
「ああ。おそらく、真君の行方を追っているのはJGBAや広特だけではないはずだ。相田が所属している、例の企業連合体も行方を追っているだろうし、もっと別の組織だってその可能性はある」
「もっと別の組織、ですか……」
「例えば、海外の退魔士組織だな。最近になって、JGBAに登録していたフリーの退魔士が登録を抹消して、海外の組織に移ったという話も出てきている。なんでも、海外には膨大な額の金が動く移籍市場があるそうだが……そういった海外市場のエージェントがこの機会に真君に接触しようとすることだって、考えられないことではない」
「移籍市場……そういえば、ベルがそういった話をしていたことがあります。まずは市場で有能な退魔士への交渉権を買い、その後で組織への勧誘を行う……そして、その交渉権の売買には対象となる者の意思はまるで関係ない、と」
「それでは、アミア君もその移籍市場を経てJGBAに移ってきた、と?」
「ええ……たしか、そんな感じでした」
「そうか……」
しばらく考え込んで、葛城はゆかりがくる前からずっと読んでいた報告書に目を落とす。
「まぁ、その線も考えられなくはないが……こればかりは情報が足りないから、如何ともしがたい部分があるな。それより、この報告書を読んでいて気付いたことがあるんだ。聞いてくれるかい?」
頷いたゆかりに、葛城が報告書を手渡す。
「その報告書を作る際の事情聴取には俺も証言したし、何より実際現場にいたから分かるんだがね。被害状況、というか、現場検証で作成された現場見取り図を見ていて気付いたことがある」
見取り図が描かれたページを開いて、ゆかりが先を促す。
「よく考えれば分かることなんだが……どうして、澪ちゃんだけ無事だったのだろうか?」
「澪ちゃんだけ……ですか?」
「ああ。不自然だと思わないか? あれだけの人間が、ほんの一瞬で血だらけになって倒れたんだ。それなのに何故、彼女だけが無傷で生き残ったのだろうか?」
「言われてみれば……そう、ですよね」
「君も知っているとは思うが、有効範囲にいたらよほどの偶然が重ならない限り回避できないのが言霊だ。それが利点でもあるわけだからね。そして、あの時の真君は言霊と同じに、磨眼までもが発動していた……と、なれば」
「何らかの、別の力が働いていた、ということですか?」
ゆかりの言葉に、葛城がうなずく。
「その可能性は極めて高いと思う。それが一体なんだったのかはわからないが……。澪ちゃんのことだ。知らない間に、強力な護符を身につけていたのかもしれない。そして、その護符の力が働いて、真君の言霊が中和された……こう考えるのが、自然ではないかと思う」
「……とすると、もし、それが本当だとしたら……」
ゆかりの顔が、サッと青ざめる。
「ああ。もしかしたら真君は、澪ちゃんもろとも、相田たちを壊滅させようとしていたのかもしれない。澪ちゃんは、たまたま助かっただけかもしれないんだ……あの時の真君が正気ではなかったとしても、後でそれを知れば、彼の行動もなんとなく分かるような気がしてね。それに――」
あの時の彼なら、その程度の事はやりかねない――そう続けようとして、葛城は口をつぐんだ。
「……それに、どうしたんですか?」
「いや……このままでは、何の解決にもならない。真君と澪ちゃんが、余りにもかわいそうだ。それに、あの事件は相田が当分の間使えなくなった、というだけだ。もしかしたら、例の企業連合体は次の手を既に打っているのかもしれない。……結局、情報が致命的なほどに足りないな」
「真君と良く一緒にいる子がいましたね……確か、榊君、でしたっけ。彼の情報網は使えないんですか?」
「ああ、その手もあることにはあるんだが……果たして、真君の行方までつかめているかどうか。何にせよ、一度連絡をとってみるのもいいかもしれないな。よければ、ゆかり君の方から連絡をとってみてくれないか。確か、事務所の方に彼の連絡先があったはずだ」
「わかりました」
「……それから、早島君に連絡して、桜坂とまめに連絡を取り合えるような体制にしておいてくれないか? どうも、今回の事件は前回の事件と事情が異なるような気がする」
「どういう事ですか?」
形のいい眉をひそめながら、ゆかりが首を傾げる。
「今回の相田の動き、不思議に思わなかったかい? まるで、こちら……というか、JGBAの動きを逐一つかんでいて、その上で行動していたように見えるんだ。――もしかしたら、内通者が居たのかもしれない。もちろん、相手がすぐに行動を起こすとは思えないが、何らかの手は打っておいたほうがいい」
「と言うことは、何かことが起こった場合には、桜坂総合警備と協力体制をとる、という事ですか?」
「そうなるだろうね。もちろん、そうならないことを祈っているが」
ため息をつく、葛城。
「そういえばここ最近、ため息ばかりついているな」
何かを思い出したように呟いた葛城に、ゆかりはただただ、苦笑いをするほかになかった。
「あ、おい、伊藤」
放課後。
昇降口で靴をはいていたところで、弘明は刃に声をかけられた。
「ああ、榊君。何?」
「ああ……いや、別に用がある、というわけでもないんだけどな」
珍しく歯切れが悪い刃に、弘明は怪訝そうな顔で首を傾げる。
「……真のことについて、何か聞いてないか?」
しばらく迷った末に、刃がようやくそれだけのことを尋ねる。
「織姫のこと?」
「ああ。伊藤なら、何か聞いてるかと思ったんでな」
「うーん……稲葉先生からも、同じことを言われたんだよね……。でも、僕にも織姫からは何の連絡もないんだ。連絡はないんだけど……」
「どうかしたのか?」
「……榊君、遠野さんには……」
「ああ、分かってる」
刃が頷いたものの、弘明はまだしばらく迷っているようなそぶりを見せる。
「……実は、一年生から織姫の伝言を受け取ったんだ」
と、散々考え込んだ末に、弘明は今日の昼休みのことを、手短に説明する。
「……その一年生、何者なんだ?」
「さぁ……織姫のバイト先の同僚だ、って言ってたけど」
「バイト先、ねぇ……」
「榊君も知らなかったの?」
怪訝そうな面持ちで首を傾げる刃に、弘明が不思議そうに尋ねる。
「まぁ、あいつも妙な知り合いが多いからな。大方その中の一人だろう。……ああ、帰ろうとしてたところを呼び止めてしまって、すまなかったな。ありがとう」
「いいよ、このくらい。……それじゃ」
「ああ、またな」
ひらひらと手を振って、刃は家路につく弘明を見送る。
「……さてと、そろそろ俺も行くとするかな」
弘明の姿が見えなくなったところで、刃も靴をはき、バイクを置いている場所に向かう。
昼休みが終わる直前にゆかりから電話がかかってきて、放課後に会う約束をしたのだ。
「……本当は、ここまで大騒ぎする必要なんて、なかったのかもしれないな……」
ゆかりとの会見では、おそらく、真に関する情報を交換し合うことになるだろう。
徐々に騒ぎが大きくなりつつある、真の失踪。そんなところへ彼が帰ってきたら、一体どう思うだろうか?
澪には悪いかもしれないが、本当はそっとしておいたほうがよかったのかもしれない――そんな思いに捕らわれながら、刃はバイクのエンジンをかけた。
同じ頃。
葛城は、二人連れの男の訪問を受けていた。
入院してから、都合三回目の事情聴取である。
だが、今回はそれまでとは、少し様子が違った。
「JGBA某県支部監査部氷浦二課所属の、七瀬恭一郎です」
「某県警察広域特務部広域特務課の、押上日出男です」
二人の自己紹介を受けて、葛城は一瞬、どう対応していいものか判断に迷った。
今までにJGBAの監査部と某県警の広域特務課が一緒に現れたことは、まず、ない。
あまり例えはよくないが、東西冷戦のさなか、CIAの諜報員とKGBの諜報員が仲良く一緒に現れたような組み合わせである。それほどに、JGBA監査部と某県警広域特務課は仲が悪かった――悪い、はずだった。
それだけに。
「……二課と広特課とは、なかなか珍しい組み合わせですね」
正直に、葛城は「感想」を述べた。多少、「呆然」といった感も含まれている。
「ええ、まぁ……今回の事件はJGBAとウチとで共同捜査をすることになりましてね。それで、こうしてお伺いした、というわけなんですよ」
日出男が苦笑いを浮かべながら、おもむろに名刺入れを取り出し、葛城に名刺を渡す。
「……それで、今日のご用件は? 一応、JGBAが出した報告書は受け取りましたが……私には、あの程度の証言が精一杯ですよ」
「ああ、今日は、報告書の件ではありません。……もっとも、事件にかかわりがないといえば、嘘になりますが」
日出男と同じく、名刺を渡しながら、恭一郎が話を遠まわしに切り出す。
「……と、言われますと?」
恐らくは、真の行方についてだろう……そう思いながら、葛城はあえて聴き返す。何も、聴かれていないことをわざわざこちらから話す必要はない。
「事件直後に行方がわからなくなった、織姫真君についての事です。何か、ご存知ありませんか」
「さぁ……私は、別に。あれ以来、連絡もありません」
「本当ですか?」
「……別に、隠さなければならないことでもないでしょう?」
疑わしい目でこちらを見た恭一郎に、葛城はむっとした表情で言い返す。
その態度が癇に障ったのか、一瞬恭一郎が詰め寄ろうとするそぶりを見せる。
横にいた日出男が、慌ててなだめるように肩をたたく。
「……まぁ、いいでしょう。彼から連絡があり次第、こちらに知らせていただけますか」
「分かりました。そのかわり、そちらのほうでつかんだ情報があれば、私にも教えていただけませんか? 彼の安否については、私も心配している事ですから」
「……考えておきましょう」
それだけを言うと、憮然とした表情のまま、恭一郎はさっさと病室をあとにする。
「……どうもすみません。ウチとの共同捜査が面白くないようで」
やれやれ、といった表情で、後に残された日出男が頭を下げる。
「ああ……いえ。二課の人間は、いつもあの調子ですよ」
そうなんですか? と、日出男が不思議そうな顔をする。
「ご存じなかったんですか?」
「ええ、まぁ……実は、ついこの間、今の部署に転属になったばかりで」
まだそれほど事情に通じているわけではないんです、と、日出男がすまなさそうな顔で続ける。
「……それで、先ほどの件についてなんですが」
「ああ、真君の行方ですね?」
「いえ……まぁ、それもありますが。実は、娘が聖華高校に通っていましてね。それで、織姫君と同じクラスだというのです」
「そう……ですか」
「急な転校でしたから、何かと織姫君にお世話になったようです。それで、娘も彼のことをだいぶ気にしているようで……」
いつの間にかすっかり娘を心配する「父親」になっている日出男に、葛城は妙な親近感を覚える。彼自身にも、二人の娘がいる。日出男の気持ちは、同じ父親としてわかるつもりだ。
「……分かりました。何かわかったら、連絡しましょう」
「ありがとうございます。……それでは」
図らずとも「父親」の顔を見せてしまったことに気恥ずかしさを覚えたのか、日出男はばつが悪そうに軽く会釈し、病室を後にする。
「……色々大変みたいだな」
音が立たないよう、ゆっくりと閉じられたドアを見つめながら、葛城は一人、呟く。
「やれやれ、もうこんな時間か。少し散歩でもしてくるかな」
大きく身体を伸ばしてベッドを降り、窓から中庭を見下ろす。
「……ん?」
陽もだいぶ傾き、人影もまばらになった中庭の中に、葛城は見知った顔を見つける。
「あれは……そうか、彼もこの病院に収容されていたのか」
一人頷く、葛城。
彼の視線の先には――何故か中庭でストレッチをしている、梓瞳夢人の姿があった。 |