目が覚めた。
見慣れぬ天井。明らかに来客用だと分かる、質の良い布団。そして、何故か懐かしいと感じる、部屋の空気。
夜明けが近いのか、カーテンの隙間から薄い明かりが差し込んでいる。
「………」
だるそうに半身を起こして、真はまぶしそうに窓のほうを見やると、ほぅ、と、大きくため息をつく。
隣の布団では、咲夜が規則正しい寝息を立てている。
氷浦を出てから、6日目の朝。
今朝も、夢を見た。
血の雨が降った。
悲鳴をあげることすら許されず、男たちが、次々と鮮血を噴出して倒れ伏す。
不意を突かれた者に特有の、唖然とした表情。
その表情を変えることなく、彼らはまるで投げ棄てられるゴミのように、地面に身を投げ出していく。
頬に、腕に、足に――身体中に降りかかる、生暖かい、血。
それを避けることなく、むしろ進んでその血の中に身をおいた自分。
むせるほどに濃い、血のにおい。
身体中を駆け巡る、生命そのものの、におい――そのにおいに酔いしれ、恍惚となっていたのは、紛れもない、事実。
目の前に立っていた相田が、恨めしそうな表情のまま倒れ伏す。
それと同時に、相田の背後に捕らわれていた、澪と目が合う。
心の底から怯えきった、瞳。
そのまなざしはまっすぐ真に向けられ、その身を小刻みに震わせる。
そこにいたのは、真が知らない、別の澪がいた。
今まで、ただ一度も見たことのない、怯えきった表情。
やがて彼女はゆっくりと、そして何度も首を振り、か細い声で何度も繰り返す。
「……ないで……来ないで……こっちに、来ないで……どこかへ、行って………ッ!」
「―――――ッ!」
真の目が大きく見開かれ、引きつった喉が、知らぬ間に自分の手で締め上げられる。
声にならない、叫び。
いっそあらん限りの声で叫ぶことが出来れば楽になるだろうに、喉を締め上げる自分自身の手が、それを許さない。
「真、真ッ!」
異変に気付いた咲夜が、布団から飛び起きて真の身体を揺さぶる。
が、それには全く反応せず、真は喉を締め上げる手をどんどん食い込ませていく。
「真ッ!!」
真の身体を激しく揺さぶりながら、咲夜がひときわ大きな声で呼びかけた、その瞬間。
「く……かは……ッ」
自らの喉を締め上げていた手の力が緩み、真が激しく咳き込む。
「……咲夜、さん?」
激しく咳き込んだためか、目にうっすらと涙を浮かべて、真は不思議そうに咲夜を見つめる。
「醒めた、か……」
「さめた……?」
そっくりそのまま聞き返す真に、咲夜は小さく頷く。
「また、夢を見ていたのか? 尋常ではなかったぞ」
「………」
心配そうに尋ねた咲夜に、真は何が起こったのかを悟ったのか、口をつぐみ、うつむき加減に頷く。
それを見て、咲夜は、そっと真を抱き寄せる。
いつもなら「そんなことはありませんよ」と強がって見せる真なだけに、状態はかなり悪い。
守ってやらなければならない――そういう思いが、真を抱き寄せた手に、力をこもらせる。
「咲夜、さん?」
恥ずかしそうに、真が尋ねる。
「自分を責めるな、とは言わない……。だが、いつまでも責めてばかりでは、どうにもならない」
母親が幼子を諭すかのように、咲夜が耳元でささやく。
「今は、ゆっくり休んでくれ……それが、私の願いだ」
いつもとは違う、温かみを持った咲夜の言葉に、真は素直に頷く。
「咲夜さん……」
「何だ?」
「……しばらく、こうしていて、いいですか……?」
そんな、真の言葉に、咲夜は戸惑ったような表情を浮かべ――
「ああ……わかった」
今度は咲夜が、恥ずかしそうに頷く。
それからしばらくして。
真は、咲夜に抱かれたまま、穏やかな寝息を立てていた。
心の底から、安心しきった――そんなことが伺えるような安らかな寝顔は、長い間真を見守ってきた咲夜でさえ、初めて見る顔だった。優しく包み込んでくれた、咲夜のぬくもり――真はその中に、あらかじめ失われてしまっていた「母親の愛情」を感じることが出来たのかもしれない。
やがて、夜が明け、部屋の外が騒がしくなってきた頃。
咲夜は真をそっと布団に寝かしつけると、静かに、部屋の外へと出ていった。
「おや、真君は?」
一人で朝の食卓に姿を現した咲夜を見て、新聞を読んでいた初老の男が、不思議そうに尋ねた。
「まだ眠っている……無理に起こすのも、どうかと思ってな」
「……何か、あったのかね?」
伏目がちに答えた咲夜に、老人は怪訝そうな面持ちで尋ねる。
「……今朝方、発作が起きた。幸い、すぐに治まったが、状態はかなり悪い。ここを訪れて、ようやくほっとできたようだったが……それが原因になったのかも知れない」
「そうか……」
新聞を折りたたんで、老人は深刻そうな面持ちでお茶を口に運ぶ。
「それはそうと、悪い知らせがある」
「悪い知らせ?」
眉をひそめる咲夜に、老人は重々しく頷く。
「JGBA氷浦支部が、真君を監視対象に指定したそうだ……」
「そう、か……ああいうことをした以上……いや、させてしまった以上、ただではすまないと思っていたが」
「それでは、このことは既に予想できていた、と?」
「できていなかったら、今ごろはまだ氷浦にいる。真も、そこまで脳天気に人を信じてはいない。星診にきたのは、私ではなくて、真の意思だからな。……それで、状況はどうなっている? 星診でそれが知れたということは、すでにその旨が星診にも伝わっているのだろう?」
「確かに。だが、氷浦のほうも真君がここにいる、という確証はまだつかめていない。美春の故郷だし、あるいは……というところなのだろう」
「そう、か……」
「それにしても」
咲夜を前に、老人は軽くため息をつく。
「まだ一度も顔を見たことがなかった孫が、いきなり尋ねてきたのにはびっくりした」
「だろうな。私も氷浦を出たときは、まさか、ここに来るとは思わなかった」
頷いて、咲夜はお茶を口に運ぶ。
それは、昨日の昼過ぎ――時間的には、JGBAの職員である弥侘と河原が、ターミナルビルにあるなじみの定食屋に入った頃。
同じビルにあるレストランから出た二人は、これからどうするかを話し合っていた。
「……それで、ここにきた目的の家は、もう見つかったのか?」
尋ねた咲夜を、真は意外そうな目で見る。
「咲夜さん、どうしてそれを?」
「星診にきたというのであれば、大方の想像はつく。……まぁ、一度も訪れたことのない母親の実家へ行くのには、ちょうどいい機会だな」
「知ってたんですか……」
「当たり前だ。私はお前が生まれるずっと前から織姫の者たちを見守っている。……まぁ、私とて、星診に来るのは初めてだがな。それで、見つかったのか? ずいぶんと探し回っていたようだが」
「ええ、昨日、やっと見つけましたよ。これから行こうと思っています」
「そうか……では、私も行こう」
「え?」
てっきり「私はその辺を適当にぶらついてるから、夕方にまた落ち合おう」という言葉が返ってくるものと思っていた真は、思わず意外そうな声をあげてしまう。
「いい加減、その辺を歩くのも飽きてしまったし……何より、一人でいると、不逞な輩がうるさい」
顔をしかめながら答える咲夜を、真はまじまじと見つめる。
「……何だ?」
「ああ、いえ……咲夜さんをナンパするような命知らずがいるとは、思わなかったものですから」
「……何かトゲを感じる言い方だな、真?」
「咲夜さんよりはましだと思いますけど」
「な……っ」
悪戯っぽい笑みを浮かべる真に、咲夜ははからずとも顔を赤くし、手を振り上げる。
「いいじゃないですか、それだけキレイだってことなんですから。別に悪いことではないでしょう?」
「それは……そうだが」
耳までに真っ赤になった咲夜が口ごもりながら、振り上げた手を下ろす。
ガラにもなく、照れているらしい。
「……何か、変なことでも言いましたか?」
突然口をつぐんでしまった咲夜の顔を、真が心配そうな表情で覗き込む。
「いや、なんでもない」
短く首を振ると、「そうですか?」と真は不思議そうに首をかしげ、ポケットから車のキーを取り出す。
「では、行きましょうか」
「そうだな」
福岡県、星診市。
人口は14万をわずかに切る程度。西は有明海に面し、南と東の境で熊本県に接する、福岡県最南端の地方都市である。
「ヤマ」――いわゆる星診炭鉱が閉山してから、既に数年。主産業と呼べるものは既に失われ、行政はそれに代わる産業を誘致しようと躍起になっているが、それもいまいち効果をあげていない。むしろ、悉く失敗したという声すらある。
「ずいぶんと寂れた街だな」
とは、初めて星診に入ったときの咲夜の言だが、それも致し方ないと言えよう。
炭鉱が閉山してからそれほど時間がたたぬうちに商店街から活気が失せ、中心部を通る国道沿いでさえ更地が目立つようになったのは、事実である。
そんな、炭鉱と運命をともにしたといっても過言ではない街であるから、星診市としての歴史は浅い。
何より、江戸時代までは北の柳河藩領と南の星診藩領に分かれていた。それが幾度かの統合を経て現在の星診市となったのは、昭和の初め頃。この北と南の差異は現在でもなお明確で、炭鉱閉山の折、人口が急減した南に対し、北は相次ぐ新興住宅地の建設で、人口は徐々にではあるが、増えつつある。九州第一の都市、福岡までは私鉄の特急で1時間、JRではそれよりも短い。
通おうと思えば通えない距離ではない――そう判断した家族が、移り住んできているのだろう。
星診とは、そんな街である。
その、星診市北部地域にある住宅街の一角。他の家々よりは比較的大きな邸宅の前に赤いスポーツカーが停まったのは、陽も中天を少し過ぎた、午後2時ちょうどのことである。
「……着いたのか?」
家の門を少し過ぎたところで車を停めた真に、助手席でうとうとしていた咲夜が、目をこすりながら尋ねる。
「ええ、ここで間違いありません」
門の表札には、「緋月」とある。
生まれてこの方、一度も顔を見たことがない母親――織姫美春の実家である。
真は車を降り、門の前でしばらく緋月家を見上げた。
ついに、ここまでやってきた――そういう、感慨が沸き起こる。
やがて、意を決したように、インターホンを押す。
『はい?』
少し間があいて、女性がインターホンに出た。
「あの、緋月義澄さんはご在宅でしょうか?」
遠慮がちに尋ねる真。その後ろで、咲夜が人の悪い笑みを浮かべて、彼を見守っている。
『はい、おりますが……失礼ですが、どなたでしょうか?』
「……織姫真と申します。某県氷浦市から参りました」
『オリヒメ、マコト……少々、お待ちください』
それからものの数分と立たぬうちに、真は緋月家の客間に通されていた。
「君が、真君か……」
向かい側に座った老人が、感慨深そうに真の顔を見つめる。
無理もない。
娘の美春――真の母親が世を去ってから、既に17年になろうとしている。その間、一度も彼は真の顔を見たことがなかったのだ。初対面がこういう形になるとは、彼――緋月義澄にとって、予想すらしていなかったことであった。
「……はい。突然お伺いしまして、ご迷惑かと思いましたが」
淡々と答えた真には、確かに美春の面影が色濃く残されていた。
どうやら、母親似であるらしい――初対面であるにもかかわらず、長らく会っていなかった知人に面したときのような懐かしさを感じたのは、そのせいであったのかも知れない。
「星診へは、いつ?」
「五日前に。今は、星診ガーデンホテルに泊まっています」
「ふむ……そうですか」
とても17年越しの初対面を果たした祖父と孫とは思えない、淡々としたやり取りである。考えてみれば、真の母親が世を去って以来、緋月家と織姫家の間では何の交流もなされてはいない。孫とはいえ、今の義澄にとっては他人に等しい。
それは、真にとっても同じことであった。
それ故に、二人とも、何を話すべきか迷っていた。
気まずい沈黙が、二人の間を支配する。
それを、真の隣に座った咲夜が、面白くなさそうな顔で見守る。
と。
「あら、なんですか? そんなに難しそうな顔をして」
と、祖母――静がお茶とお菓子を持って現れる。こちらは義澄と違い、孫との対面を素直に喜んでいるらしい。
「……いただきます」
軽く会釈して、勧められたお茶を口に運ぶ。
「……それで、星診へは、何故?」
このまま世間話をしても埒があかぬと見たか、義澄はもって当然の疑問をぶつける。隣に座った静が「いきなり何を」と非難がましい目を向けたが、それはあえて無視した。ここはあえて他人として考えたほうが、事は運びやすい。
長い、間。
しばらく考え込んでから、真はぽつぽつと、ここにくるまでの事情を話し始めた。
自分は、父親の後を継ぐという形で退魔士をしていることから始め、一ヶ月前、とある依頼を受けたこと。
その依頼に端を発する、御霊騒動、そして、氷浦に張られていた結界。
その結界を巡る争いの中で、何の関係もないはずの従姉妹が巻き込まれてしまったこと、そして、その従姉妹をひどく傷つけてしまったこと――そして、その中で、一度氷浦を離れようと思ったこと。
「本当はこんな形で星診には来たくはありませんでした。けれど、氷浦を出て、他に行くところといっても……」
そう言って、真は話を結ぶ。
「そういう事情があったのか……」
深いため息とともに、義澄がつぶやく。
長い、間。
「……それで、体に異常が出始めているといっていたが……どの程度までに?」
しばらく何事かを考えていた義澄が、ふと、気づいたようにたずねる。
すると、真は
「すみません、水を一杯もらえませんか」
と静に頼むと、左の袖を、肘のところまで捲り上げる。
怪我でもしたのか、左腕には、包帯が巻かれていた。
それを、ゆっくりと解いていく。
「……それは、呪符かね?」
現れたのは傷ではなく、一枚の呪符であった。長年退魔士として活動していた義澄でさえ、始めて見る紋様が描かれている。
軽くうなずくと、真は腕に貼り付けていた呪符を、はがした。
「これが、見えますか?」
「これは……!?」
呪符をはがした左腕を、真はまっすぐと突き出す。
黒い霧のようなものが、腕に絡み付いていた。
ゆらゆらとうごめきながら、それは濃くなったり、薄くなったりしている。
「……大丈夫なのかね?」
「あまりよくはありません。とりあえず呪符を貼り付けて寄ってくるのを防いでいますが……それをとってしまえば、このとおりです」
そういうと、真は縁側に出て、静が持ってきた水で左腕を洗い流す。
「血を浴びたことで受けた穢れはそうそう落ちるものではない。結果的に、氷浦を出たのは正解だった、ということになるが……ここはここで、なかなか気のめぐりが荒れているようだ」
袋入りのせんべいを割りながら、咲夜がそう付け加える。
「ということは、氷浦をめぐる気の流れが相当乱れている、ということかね?」
「ああ。結界の要をいくつか破られたせいで、あちらこちらで淀んでいたり、想定外の場所に流れ出たりしている。そういったところには、さっきのような汚れた気がたまりやすい」
「それで、星診もそういった状態にある、と?」
義澄の問いに、咲夜は首を振る。
「わからない」
「わからない?」
「そうだ。私はこの土地にとって余所者だからな」
そういうと、咲夜は戻ってきた真の腕に呪符を貼り付け、包帯を巻きなおしていく。
「……それで、星診にはいつまでいるつもりかね?」
たずねた義澄に、真は少し困った表情で答える。
「それはわかりません。ただ……」
「ただ?」
「母が生まれ育った街を、もう少し見て回ろうかとは思っています」
「そうか……」
答えた真に、義澄はしばらく考え込む。
「それでは氷浦に戻るまで、ここにいるといい」
「えっ?」
戸惑いの表情を見せる真に、義澄が笑みを浮かべる。
「ホテル住まいも何かと物入りだろう。それに、せっかく孫が遠いところから尋ねてきてくれたというのに、知らぬ顔をするわけにもいかん。いいかな、母さん?」
「ええ、もちろん」
今まで心配そうに見守っていた静も、うれしそうな表情で答える。
「そういうわけだ、真君。しばらく、ゆっくりしていくといい」
「……ありがとうございます」
「あれ? 真、まだ寝てんの?」
食卓についたままぼうっとしていた咲夜は、元気のいい少年の声でハッと我に帰った。
「真に何か用か、少年?」
咲夜は、向かい側――義澄の隣に座った少年に尋ねる。
「別に用、ってほどのことでもないけどさぁ……。あ、それと、俺は『少年』じゃなくて、澄馬だからな」
「真はまだ眠っている。私でよければ、後で伝えておこう」
「んー……別に、いいや。学校から帰ってきたら、現場の話を聞いてみようと思ってただけだし」
そう言うと、少年はトーストにバターを塗り始める。
「そうか? 一応、そう伝えておく。あとは、真次第だな」
「ホント?」
咲夜の答えに、少年の顔がパッと明るくなる。
突然現れた、二つ違いの従兄。
たった二つしか違わないのに、真はすでに現場に出て活躍していて、自分はまだJGBAの施設通い――退魔士を目指して修行中であるところの緋月澄馬少年にとって、突然現れた真という存在は羨望の的であると同時に、今、一番身近に感じられる目標であるらしかった。もちろん、最初のうちは真の存在にひどく戸惑っていたものの、それも一晩のうちに慣れてしまったらしい。
「ラッキー」
「ただ、あまり無理はさせるな。真はあくまで、静養中だ」
気体に満ちた笑顔を見せた澄馬に、咲夜がきっちりと釘をさす。彼には、真が静養目的で星診を訪れた、ということにしてある。下手なことを聞いて真が再び発作を起こさないとも限らない。以前からそういう傾向にあったとはいえ、氷浦を出てからの真は、精神がかなり不安定になっていた。
「わかってるよ。普段どういう顔色してるのか知らないけど、なんだか辛そうだもんな」
澄馬の言葉に、咲夜は微かにため息を漏らす。
緋月家に宿泊することが決まって、真はようやく心に余裕ができたような、そんな様子であった。だが、その一方で、顔色は依然として悪い。
もともと肌の色素が薄くはあるが、今の真はそれだけでは説明がつかないほどに青白い顔をしている。透き通るように白い肌を、俗に「白磁のような」と形容することがあるが――今の真は、悪い意味で「白磁のような」肌をしていた。
血の気がない。加えて、体温も低い。
初対面の澄馬にでさえ、体調の悪さが知れてしまうような状況である。
にもかかわらず、つとめて平気を装おうとする真。咲夜が感じるのは、痛々しさ以外、何者でもない。
「ま、早くよくなるといいよな」
そう言うと、澄馬はトーストにかじりつく。
「そうだな。早く、元気になるといいな……」
うなずいて、低くつぶやくと、咲夜は食パンをトースターの中に押し込んだ。
同じ頃。
「ずいぶんと辺鄙なところね」
高速道路を降りて星診市内に入ったアミアは、コンビニの駐車場で軽いため息をついていた。
氷浦ICから東名、名神、1号線、山陽道、九州道と乗り継ぎ、南関ICで高速を降りたのが、つい先ほどのこと。
今いるのが星診市北部の農業地帯――主にみかんの栽培が行われている、果樹園地帯――であることは、カーナビと道路地図を頼りにここまでやってきたアミアには、もちろん知る由もない。
氷浦を出たのは、昨夜遅くのことだ。
突然ゆかりに呼び出され、まだ退院できない葛城や、船津八幡神社への応援で手が離せないゆかりに代わって、星診に行くよう頼まれたのである。
自然と出てくるあくびを必死にこらえながら、彼女はビニール袋を片手に、自分の車を見やる。
「まずは朝ごはんを食べて……それから、ガソリンを入れに行かなくてはね。……ホントは洗車までやっておきたいところだけど」
氷浦からの長旅のせいで、鮮やかな深紅に輝いていた車のボディも、すっかりくすんでしまっている。
洗車までやっておきたい、というのは紛れもない本音であったのだが――今回は、それほど悠長に事を運んでいる場合では、ない。
「まぁ、しょうがないか」
軽くため息をつくと、彼女は車に乗り込み、先ほど購入してきた朝食を取り始めた。
――氷浦ナンバーをつけた赤のロータス・エリーゼが緋月家の近くで目撃されるのは、それから数十分後のことになる。
「よーし、全員出勤してるな」
所変わって、JGBA星診一課オフィスでは。
本日、朝礼で重要な布告があるので、一度出勤するように――という、今朝早くに職員全員の携帯へ届いたメールによって、久しぶりに職員全員がそろっての朝礼が行われていた。
職員全員、といっても、それほど数は多くない。
事務方が3人と、実働部隊が10人。実働部隊のうち4人は非常勤だし、残る6人で日勤と夜勤とを振り分けるため、所属している13人全員が朝礼に参加する、ということはほとんどない。
異例といえば、異例であった。
「夜勤明けの者や、これから仕事に出るものもいるから、手短にいこう。昨日の夜遅く、某県支部氷浦二課から協力要請があった」
「はぁ、氷浦から? そりゃまたどうして?」
弥侘と河原を除いた職員のほとんどが、怪訝な面持ちで星診一課長・村山光司を見つめる。
「河原は氷浦から戻ってきたばかりだから事情は知っていると思うが――実は、某県支部に登録している退魔士に、とんでもない能力を持った少年がいたらしい」
「とんでもない能力? なんです、それは?」
「魔眼と、言霊――この二つの能力が、互いに干渉もせずに同居している。そういう少年退魔士が、向こうにいるんだ」
村山に代わり、河原がそう説明する。
「その少年が、ついこの間ある事件に巻き込まれ、十数人の男に瀕死の重症を負わせている。それも、ほんの一瞬で。それで、氷浦二課はこの能力を危険なものと判断し、特別監視対象に指定した――俺は、そう聞いていますけど。その後、何か進展があったんですか?」
「それが……その事件のあった夜から、少年の行方がわからなくなっているらしい。それで、捜索に協力してくれるよう、要請があったというわけだ」
「しかし、解せんな。氷浦で行方不明になったのに、どうして星診くんだりまで協力要請がくるんだ?」
首をひねる弥侘に、他の職員たちもうなずく。
「それが、な。その少年――名前を、織姫真というんだが、実は、緋月前教導部長のお孫さんにあたるらしいんだ」
「……澄馬君の他にお孫さんがいらしたんですか? そんな話は聞いたことありませんけど」
女性職員が首をかしげながら尋ねる。
「何でも、氷浦に嫁いだ娘さんがいたらしい。もっとも、その娘さんは今問題になっている少年を産んだ後、すぐに亡くなったそうだ」
「……それで、氷浦の連中はその少年が星診にいると考えて、探すのを手伝え、と言ってきたわけか」
「まぁ、そういうことになる。これが、その少年の写真だ。後で、同じものを配布する」
「……?」
村山がホワイトボードに貼り付けた写真を見た河原は、わずかに首をかしげ、弥侘を見やる。小さくうなずく、弥侘。
「どうやら、氷浦からは車に乗ってきたらしい。車は、赤のホンダ・S2000。氷浦ナンバーだ。同行者がいるかどうかは、わかっていない」
――やはり。河原は一人うなずき、口を開こうとしたところで、弥侘に止められた。
怪訝な表情で弥侘のほうを見ると、彼はなにがしかの考えがあるのか、微かに首を振って見せる。
「それで、課長。結局、氷浦二課の協力要請にはどう対応するんです?」
「それだ。同じ要請が星診二課にもなされている。二課は、要請を受諾したそうだ」
「じゃぁ、ウチはやめといたらどうです」
こともなげに言ってのけた弥侘に、他の職員たちの視線が集中する。
「二課は二課同士、何かにつけて協力するのが当然です。だが、ウチにはウチの業務がある。確かにここんとこ、あまり大きな事件はおきちゃいないが、だからといってそんな探偵ごっこに付き合っちゃいられませんよ。事件なんて、いつどこで起きるかわからないんです。去年の診野山の例もありますしね」
「うむ……弥侘の言うことにもうなずけないことはないが……他のみんなは、どういう考えなんだ?」
尋ねた村山に、河原が賛成の声を上げる。
「俺は、弥侘の言うことに賛成ですね。まぁ、一課として協力を拒否するのがまずいんだったら、ウチは職員の判断に任せる、とか何とか答えておけばいいでしょう」
河原の意見に、他の職員もうなずく。
「わかった。では、織姫真を発見した際の対応は、各自の判断に任せる。これからパトロールに出るものは、念のため写真のコピーを持っていくように。では、解散」
一斉にオフィスがあわただしくなる。夜勤明けや非番でこれから帰る家に者、パトロールに出るための準備に入る者。さまざまである。
「弥侘、それと河原。ちょっとこっちにきてくれ」
「……何ですか、課長?」
パトロールに出ようとしていた弥侘と河原を呼び止め、村山は自分のデスクにつく。
「……お前たち、何か知っているな?」
「やっぱりバレましたか?」
難しい表情で尋ねた村山に、弥侘は悪びれもせず答える。
「バレバレだ。それで、何をつかんでいる?」
ニヤリ、と笑う村山。
「例のS2000ですが、昨日、星診ガーデンホテルの駐車場で見ました。それから」
「それから?」
「件の少年退魔士――織姫真ですが、西鉄栄町駅のターミナルビルで見かけました。確か、20代前半の女と一緒でしたね。たぶん、氷浦からは二人連れできているでしょう。星診では、ちょっと見ないタイプの女でしたから」
「ほぉ……そこまで特徴をつかんでいるとは、お前の女好きもたまには役に立つもんだな」
「課長、そりゃぁないっすよ」
ハハハ、と笑ってから、村山は続ける。
「……それで、今はどうなってる? 今もその車は停めてあるのか?」
「いえ。昨日の夕方、もう一度見に行ったんですが、そのときはもうありませんでした。単に出かけた、という線もありますが……おそらく、チェックアウトしたんじゃないすか?」
「どうしてわかる?」
「単なる、俺の勘です」
弥侘の言葉に、村山は再びニヤリ、と笑って見せる。
「まぁ、いい。そこまでつかめていたんなら、仮に向こうから何か言ってきたときも何とか言い訳がきくだろう。……ああ、それとだな」
「何です?」
「氷浦二課の連中が、今日中に星診入りするそうだ」
「……そうです、か」
「向こうから直々に人員を送ってくるんだ。おそらく、無事ではすまんだろう。邪魔になったときは、問題にならない程度にしておけよ」
「……了解」
「……織姫君、今日も来ないんだ」
隣の机をぼぅっと見つめながら、唯はポツリ、と呟いた。
真の身に何か起こったらしいことは、すでに察しがついていた。
それは昨日、真について何か知らないのか、と尋ねたときの伊藤の反応からでもおおよその見当がつく。刃のほうも、何かぎこちない反応を示した。
加えて、ふとしたことで聞いてしまった、父親の電話。
おそらく、職場――氷浦警察署広域特務課の同僚か何かと話していたのだろう。
「織姫真については、JGBAが監視対象に指定したそうです」
声をひそめて、そう話していたのを、聞いてしまったのだ。
JGBAという聞きなれない組織と、監視対象という物騒な言葉。
ごく普通の高校生ならばまず縁のない事態に、真が巻き込まれている――そう直感して、唯はこれまで抱いていた疑問の答えが、おぼろげながら姿をあらわしたような気がした。
けれど、それはそれ。
真に対する想いは、変わらない――そう、唯は信じていた。 |