「よっこらせっと……」
細々とした物を詰めてしまうと結構な大きさになったボストンバックをベッドの上から 床に下ろす。辺りは夜の闇である、明かりは僅かに大きな窓から星の光が差し込んでいる位か……。部屋の中には空になったベッドとサイドテーブルがある。全くと言って良いほど生活感の無い部屋だ。きれいに折りたたまれた薄い布団の上に黄色い封筒が無ければ全く人の体温が感じられないだろう。
「ん、これで良いかな」
ほう、と息を吐くと男はそっとその部屋を抜け出し青白い廊下に消えて行った。
それより数刻前。
ゆかりと別れた刃は聖の事務所の前に立っていた。
「やっぱ出る前には一応言っとかないとな」
フルフェイスヘルメットを脱ぎぽりぽりと髪を掻きながら裏路地にある事務所に入っていこうとすると、後ろから忍び寄る気配に気付いた刃が降り返る。
「……なんだ綾香か。何やってんだよ」
そこには聖の妹で聖と一緒に情報屋をやっている綾香が立っていた。刃を脅かそうとしたのか不安定な格好で、
「うっ、相変わらず鋭いわね。今日はどうしたの? また兄さんに?」
「ああ、そうだけど」
「じゃあ、とりあえず中に入ろ」
そう云うと綾香は周りに視線を巡らすと、するりとビルの中に入っていく。刃も後ろについていきながら、
「でも、綾香がこんな時間に事務所に来るの珍しくないか? 何かあったのか?」
「うーん、まあそうかなぁ」
そう話ながら聖の事務所に入ったものの、
「あれぇ、居ないじゃない。連絡つかないしウチに帰ってこずに仕事してるのかと思ったらどこ行ってんのかしら」
「ああ、俺が頼んだ件調べてくれてるんじゃないのか?」
「うーん、それもあるかもしれないけど」
「他に心当たりでも有るのか?」
「何か昔の友達って人と会いに行ってから連絡ないのよ」
「携帯は? 繋がるんじゃないのか?」
「一応携帯からのメールは打ってるんだけどね……」
「まあ、聖さんだったら多少の事なら大丈夫だろ?」
「まあね、そう思うけど帰ってきたら問い詰めなきゃ」
『こりゃあ、聖さん恋人出来ても大変だな』そう刃が心の中で苦笑していると、
「そう言えば兄さんに用だったんでしょ?どうする?」
「ああ、じゃあ伝言頼むわ。実はさ―――」
と刃が口を開きかけた所で鼻歌を歌いながら聖が入り口から入って来た。ふっと二人に気付くと、
「邪魔したな……」
そう一言いってまた外に出ていこうとする。その聖の上着を掴んで引きとめ(引き寄せ?)ると綾香が、
「兄さん今までどこほっつき歩いてたの!連絡はよこさないし、メールぐらい返してよね」
と、激しい剣幕で迫る。それに聖は、
「仕事だ仕事……」
そう言って刃に目配せをする。刃は『やれやれ』と思いつつも自分の用事を済ますべく口を開いて、
「綾香、ちょっと良いか?俺聖さんに用があるんで問い詰めるの後にしてくれ、これでも急いでるんだ」
「そうなの? まあ、良いわ」
そう言うと事務所の奥に歩いて行く、程なく水を出す音が聞こえてきたので珈琲でも入れるつもりだろうか。
「すまんな、刃。いつも騒がしくて」
笑顔を浮かべながら聖がそう漏らすと
「もう慣れましたよ、年中やってるじゃないですか。まあ、今回のはいつものよりも激しいみたいですけどね」
そう言って苦笑いを浮かべる刃。その言葉にハハと笑いを返し、一転して真面目な顔つきになった聖が、
「それで? 今日は何の用だったんだ?」
「ああ。それなんですが、今日、明日中にも星診の方に行こうと思ってますんで」
その言葉に聖は軽く頷くと、
「お前が顔を出したのでそうだろうとは思ってた。顔出さずに行くかも知れんとも思っていたんだが」
聖がそう言ってニヤリと笑う。笑いながら刃が、
「冗談じゃ無いっすよ、それで向こうに着いたくらいに仕事があるとか言われて貸し作る事になるの嫌ですから」
そう答えると聖はさも残念そうに、
「最近綾香だけじゃなく刃にも行動読まれるようになってきたな……」
と一人ごちる。
「そう云うわけなんで、俺が戻ってくるまで俺には仕事は入れないで下さいね」
そう笑いながら言う刃の顔を聖は苦笑しながら見ていると、ふと思い出した事を口に出した。
「そう言えば、星診で思い出したがあの青年……梓瞳とかいったか?」
「はぁ、梓瞳さんがどうかしたんですか?」
刃はなぜ夢人の名前が出てきたのか不思議で首をかしげていると、
「どうやら彼、星診出身らしいぞ」
「そうなんすか? 知らなかったですよ」
「ああ、2年前に氷浦に来たようだな。特別話す事もなかったから言ってなかったんだろうな」
「そうすね、まだ真が星診にいるかもしれないって事伝えて無いっすからね」
「まあ、伝えておいた方が良いんじゃないか? もし都合が合えば一緒に行けば良いんだろうから」
「でも今梓瞳さん、病院なんですよ」
「ああ、それも聞いては居るがもう退院しても平気なくらいだそうじゃないか」
「そうすね、どこが悪いんだって感じですからね。本人も早く出たがってますよ」
「俺が聞いた話では異常に回復が早かったから主治医が大事を取っているらしいと聞いたが」
「そんなトコでしょうね」
刃は頷きながら答える。その様子を見て奥から話を聞いていたらしい綾香が、
「じゃあ刃いつから氷浦を出るつもりなの?」
と顔を出す。それに刃は、
「うーん、一旦梓瞳さんに電話入れたら今夜のうちに出ようと思ってる」
と返し、
「聖さん、ちょっと電話かけるんで良いすか?」
「ああ、携帯は通じないだろう使うといい」
そう言って聖が刃に電話を渡す。夢人の携帯に掛けるとすぐに本人が出た。
「ハイ、梓瞳ですけど」
「あ、梓瞳さんですか?俺です榊です」
「ああ、刃君かどうしたんだい?」
「えぇっと、真の居場所の見当がついたんで連絡しとこうと思って」
「真君、見つかったのかい?」
「いえ、まだ分からないんですけど。恐らくそこにいるんじゃないかと」
「うん? それでどこなんだい?」
「九州の星診です」
「えぇっ? なんで……えーっとそんなトコに?」
「ああ、詳しい事はメールで送りますけど、真のお袋さんが星診出身なんですよ」
「なるほど、そうか。それで刃君はコレからどうするんだい?」
「今晩、今から出ようと思ってます」
「そうか、俺もどうにかするわ。今日は無理でも明日の夜くらいには氷浦を出れると思う」
「そうですか? それじゃあ、星診に着いたらメールか電話下さい。俺も星診に着いたらメールしますんで」
「オッケ、わかった。それじゃあ、気をつけてね」
「はい、それじゃあ」
電話を切ると目の前に綾香が入れた珈琲が揺ら揺らとした湯気をたてている。聖に電話を渡しながら刃は、
「ありがとうございます、そんじゃ今から出ますんで」
それを聞くと聖は一枚の名刺を出すと、
「だったらあっちで何かゴタゴタに巻きこまれたり情報集める時はココに連絡してみろ……一応俺の知りあいだ」
刃はその名刺を受け取ると、
「はい、じゃあ遠慮無く。……女の人っすね」
その言葉に『ふん』と頷く聖。
「まあ、兎に角気をつけろよ」
そう言うと綾香が入れたばかりの珈琲を飲む。刃も綾香が目の前に置いた珈琲を飲み干すと、
「それじゃあ、ちょっくら行って来ます」
そう言って事務所を出ると、更けて行く夜を切り裂くかのように、西へバイクのハンドルを向けた。
翌朝、下の名前で呼んで下さいよと言っても『望月さん』としか言わない夢人に、今日こそは名前の「ちゆりさん(ちゃん?)」と言わせようと色々な事を考えながら、ちゆりは仕事前に夢人の部屋に挨拶に向かっていた。
先日初めて会ったにもかかわらず研修期間中のちゆりにとって自分に気を遣わせまいとして気を使ってくれる夢人の心遣いは嬉しかったのだ。それが看護婦としてはまだまだ半人前なのかな、そう思う点は悔しくもあったけれど夢人に自分に頼らせよう。看護婦として気を使わせないように頑張ろうという思いを心に秘めて夢人が居る病室に昨日のように顔を出すと、
「え! あれ?」
一瞬部屋を間違えたのかと表の表札を見る……間違ってなど居ない。部屋の中を見まわすとベッドの上にきれいに畳んだ布団があるくらいで、あとはサイドテーブルにも何も無くがらんとした空間になっている。一瞬不吉な事を想像してしまいナースセンターに駆け出そうとした時、布団の上に置いてある封筒に気がついた。
中には2通の手紙が入っており1通は「ちゆり」宛てで1通は病院宛てになっていた。突然病院から姿を消した事を謝る文面と、どうしても行かなければならない用事が出来た事。短い間ではあったけれど「ちゆり」によって救われている部分があったと言う事、そして夢人の連絡先。
病院宛ての方にも突然病院から姿を消した事を謝罪する文面。そして大学の学生証と保険証が付けてあり、支払いの事、連絡先が書いてあるようであった。
ちゆりはとりあえず自分宛ての手紙をポケットにしまうと先輩に報告するためにナースステーションに向かった。今日の研修が終わったら一度電話しようと思いながら。
翌朝同じ頃――葛城は、起きるとベッドの端にメモが貼ってあるのに気付いた。そのメモ用紙には、
『急用が出来たため、急遽退院します。連絡先の方だけお教えしておきます。梓瞳夢人』
とある。葛城は状況が動き出したのを感じながら、病院に縛られている自らを歯痒く感じていた。 |