今から2年前、1998年8月某日。
その日は記録的な猛暑。
外に出るのはまさに自殺行為のようなものであったが、反して夜は風が吹きとても涼しいものであった。
またその日は、星診市内の外れにある広大な公園に出店が並び、大掛かりな花火大会が行われる日でもあった。
白神真理も高校最後の夏のイベントを誰かと大いに楽しみたかったが、友人はみな恋人が居るから邪魔はしたくなかったし、かといってやはり一人で行くのも気がひけた。
そこで、幸いにも休暇を取ることが出来た義兄といくことになったのである。
だが。
「市街で暴力沙汰があったらしい。だから真理、済まないが…」
義兄宛ての一本の電話でその計画も白紙に戻された。
若くして星診警察署の警部になったぶん、周囲に頼られている彼はとにかく忙しい人だった。
そして、責任感がひどく強い人だった。
休暇のドライブと称しては、市内を巡回しているのをマリはよく知っている。
だからマリは精一杯の笑顔で義兄を見送った。
しかし彼が出掛けた玄関を閉める表情からは、やはり落胆の色は隠せなかった。
「一人でみるのも、たまには良いかもしれませんね」
そう自分に言い聞かせるように、母の形見である浴衣の着付けを行う。
淡いブルーに優しく艶やかなピンクの帯。
幼いころに父と母は事故でなくなった。
それからはずっと遠縁の叔父・叔母、そして義理の兄と暮らしているが、血の繋がりなど気にならないほど幸せな生活を送っている。
義理だろうが何だろうが、マリとっては大切な父と母、そして兄であった。
「では、行って来ますね」
丁度呼んでおいたタクシーも来たらしい。
叔父と叔母は旅行中、誰も居なくなった家だからこそマリは笑顔で語りかけた。
「よくお似合いですよ」
門を閉め外に出ると愛想のいい運転手が挨拶してくれた。
微笑んで会釈したマリは座席に座り、運転手は発車しようとクラッチを切る。
ドアが閉まる瞬間、もしかしたら義兄が不意に帰ってくるような気がして振り向いたが、やはりそれは叶わぬことらしかった。
「花火大会ですよね?」
運転手がそう尋ねた、マリが頷いた、その時だった。
鈍い音とともに車体がゆれた。
タクシーのフロントガラスになにか、黒い何かがへばりついている。
「な!?」
言葉とは呼べないくらいの短いものであったが、運転手にとってはそれが人生最後に発した声だった。
「ヒ、ヒャヒャヒヒャァ、ヒヒャッァ!」
悲鳴。
だがそれはマリのではない、マリのそれを打ち消すその黒いモノによる絶叫。
そして奇声、そう表現するのが十二分なほどの、耳をふさぎたくなるような音だった。
「っ!」
マリは咄嗟に我に返り、ロックをはずし外へと飛び出す。
「ガ、逃ゲルニゲル!」
「えっ!?」
その不気味な黒いモノが人の言葉を喋ったのには、マリは驚いた。
そうよく見れば確かに人ではあるようだった。
が、やはり人らしくは無い動きと声をしている。
だが人ならば。
「な、何か御用ですか!」
マリは踵を返し、しっかりと足を地に付けてそう言った。
人ならば話せる、人ならば。
自分に冷静に言い聞かせながらゆっくりと後ずさり、袖をまくる。
昔から理不尽なものは許せない性格だ。
だからつい勇み足になることもある。
追い詰められたことを直に肌で感じるこの状況でありながら、これも正義感の強い叔父と義兄さんのせいね、とマリは微笑んでいた。
「死ねシネ死ネ死!」
「やっ!」
持っていた巾着で向かってきた相手のこめかみを打ち抜く。
「ヒャヒヒヒャッヒャ!」
獣のように捕らえようの無い動きで向かってきたそれは、特に効いているふうでもなく歩み寄ってくる。
「効いてない!?」
何度も左右から巾着で殴りつける。
中には硬いものだって入っているはずなのに、相手は平然としている。
「来ないでっ!」
自分はこんなに大きな声を出せるのだと、状況を冷静に見つめる自分が感心している。
ここは住居が立ち並んでいるから、誰かが気づいてくれるかもしれない。
そしてその誰かが通報さえしてくれれば、きっと義兄がすぐに駆けつけてくれる。
きっと、きっと。
「っ」
腕をつかまれた、でもすぐに義兄が来てくれる。
「死ネ」
首が締めつけられている、でもすぐに義兄が来てくれる。
「ううっ」
苦しい、息が出来ない……死にたくない。
「……助け……」
「蒼空の龍よ我が右腕に降れ、汝の力我の前に示せ」
「ギギっギギャッ!?」
黒い者は急に手を離し、向こうへと吹き飛んでいく。
「!?」
そしてマリは地面に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
涙目を見開けば、黒い者との間に見慣れぬ男性が立っていた。
「……誰、ですか?」
落ち着いたマリは尋ねる。
敵対心も懐疑心も無く、ただ純粋に。
「俺か?」
マリは頷く。
「詩狼」
だが振り向いた男の眼は、マリの心に恐怖を刷り込むほど仰々しかった。
「キシャッァ!」
「だ、駄目、逃げて!」
黒い者の雄叫びを聞いて、不思議とすぐにマリの口からその言葉が出た。
彼はその台詞を聞いて何故か表情が強張ったが、その気は無いらしく猛然と得体の知れぬものの方に歩み寄っていく。
「ググガ死グア死ぐア!」
黒い何者もゆっくりと彼に向かっていく。
「ふん」
だが前者の方が手を出すのは早かった。
相手の頭部を鷲掴みにし、タクシーの側面へと叩き付ける。
「ガアっ!」
奇声を上げはしたが、やはり効いているふうでもない。
「はぁぁぁっ!」
彼の声とともに、マリの身体が熱く火照る。
それは今まで味わったことのない、一時の快楽のようでもあり永遠の苦痛のようでもあった。
「阿呆が」
そう言った彼の右手はほのかに輝き出す。
振り下ろし、再度振り上げるその軌道が、マリの目に残像を映し出した。
そしてマリは、闇夜に煌き弧を描くその右手を、美しい、と感じた。
「ギャガやがギャギャぁっ!」
「死はお前に譲ってやる」
その台詞とともに彼の右手は黒い何かに触れ、それは音も無く姿を消したのであった。
「マリ、マリ!」
自分を揺さぶる振動に、藤丸真理はふっと目が覚めた。
「ここは……?」
氷浦駅で新幹線に乗車したのは夕方だったから、星診に到着するのは深夜零時になるはずだった。
だが時計を見ても、既に30分は過ぎている。
どうやら博多から乗り継いだJR鹿児島本線の特急・有明55号は、彼らの目的直前にして足留めを食っているらしい。
車掌の説明によれば純粋に事故とのことだが、詳しくはまだ知らされてはいない。
「ネェ、シバラクってドノくらイ動かナいの?」
「そうですね……多分もう少しかかるということですよ」
「ヨし!」
そう言って元気よく席を飛び出していったレイファだったが、行方はいざ知らず、そしてマリはふっと欠伸をした。
今日、正確には昨日は27日……5月最後の土曜日だった。
6月になれば祝祭日は無いし、今年の雨季は早く長いものらしい。
だからこの土日が、しばらく訪れぬ「まともな休日」になったのだろう。
そしてほとんどの乗客がそれをしっかり認識している。
自分を取り巻く空気がなおさら重苦しく感じるのはそのせいかしら、と寝起きの頭でマリは思った。
「暫くご迷惑をおかけします。只今JR渡瀬駅付近で人身事故があり――――」
車内アナウンスをよそに、周囲では乗客たちが事故の当事者に対する苛立ちをあらわにしている。
そしてさらに追い討ち。
「雨が振ってきましたね……」
これが乗客の火に油を注いでしまったようであり、暴動が起きるのも時間の問題かもしれなかった。
それが大げさ過ぎる表現だとしても、的を射ている気はする。
「……詩狼さま?」
不安そうにしながら、藤丸真理は通路側の席で瞑想状態にある男の名を呼ぶ。
今時分、電車というものは無駄に揺れなくはなったであろう。
とはいえ車内で過ごすこと2時間、数回に及ぶ駅への停車と発車、そして数十分の停滞を体感している。
だが……隣に座るその男からは、マリは微塵の挙動も感じとることができなかった。
もともと、いつどこにいてもマリは彼の傍に居ながら、彼の気配を感じ取ることが出来ないでいた。
だが最近はそうでもないらしい。
身動きひとつしない詩狼の身体からは、硬さではなくむしろ取り囲むもの全てをさらりと流すような柔らかさを感じる。
そしてそんな彼を、なんとも不思議かつ異様な雰囲気を漂わせる男だとマリは思う。
しかし一般の人々では全くもって気にならないらしいから、そう感じるマリはそれなりのレベルには成長しているらしかった。
「ふむ」
彼が、珍しく笑顔で振り向く。
それでもその場の雰囲気は解消されないから、今更ながらこの手痛い気分は事故のせいなのだなと確信する。
「お尋ねしたいことがあるのですが」
話でもすれば気分は紛れるだろう、そうマリは信じようと思った。
「……何だ?」
だが藤丸詩狼は、隣に座るこの妻が塞ぎこんでいる理由を把握するに至ってはいなかった。
「詩狼さまは、梅雨はお好きですか?」
「……そういえばもう梅雨に入ったといっていたな」
「はい……でもきっと先ほどまでは晴れていました」
マリは少々虚ろな目になって顔を伏せる。
本当に尋ねたいことはそんなことではない、もっとほかにある気がする。
そんなことは自分で大いに承知していたが、マリはこのようなことしか話せなかった。
またそう言ったマリの表情が彼女らしくないものであったから、詩狼もあえて沈黙を保っているようだった。
マリは窓の外にまた視線を戻す。
「知らん」
詩狼は突き放すような台詞を吐く、がマリを強引に振り向かせそっと抱き寄せた。
「もうすぐ星診だな……不安か?」
図星だった。
マリは久々に心を見透かされたような、そしてそれが恥ずかしいような感覚を覚えた。
「私が、ですか?」
「ああ」
詩狼はこくと頷く。
「何が、ですか?」
「……色々、だ」
そんなことは、と言いかけてマリは口を閉ざした。
いや、詩狼の手によって閉ざされたのだ。
彼の両目があの時のように鋭くなっている。
「……外道か?」
殺気立ったセリフよりも含め、そのことにマリは怯えた。
それは無論マリに対するものではなかった。
詩狼がほかの何か……或いはほかの何者かに対する敵意を剥き出しにしているときの眼。
「……行った、か……」
詩狼がつぶやき、そうしてマリをまた抱き寄せる。
それから20分後に3人は無事に星診駅へと降り立ち、一夜を明かすためマリの実家へと向かった。
温めずして久しい自分の布団についたとき、長旅の疲れが出たのか、マリの意識はすぐに遠ざかっていった。
ああ。
そういえば、私があの眼を見たのは、これが三度目だった。
一度は今日、電車の中で。
一度はあの日、彼とともに星診を出ることを決意したあの時。 |