梅雨空幻燈
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12
 それは、血の雨が降ったと形容するにふさわしい光景だった。
 ただ一言、「斬」とだけ呟いた真の目の前で、屈強な男たちが次々と鮮血を噴出し、為す術もなく倒れていく。
 そんな中に残された、一人の少女。
 つい今しがた間で、真の助けを待ちわびていたその瞳が、見る間に恐怖に彩られる。
 小刻みに震える、唇。
 その口から発せられたのは、紛れもない――。


 「………ふぅ」
 ため息をついて、咲夜は胸に手を当てた。
 客間から眺める庭は、入梅した曇り空のせいもあってか、重苦しい雰囲気に包まれていた。
 「やはり、な……」
 あの夜のことを反芻するたびに感じる、胸の痛み。
 それはまるで、胸に鋭利な刃物を突き立てられ、さらに、それで何かを抉り取られたかのような、そんな、激しい痛みだ。
 あの夜、澪が悲鳴をあげた、その瞬間。
 咲夜はその痛みを、確かに感じた。
 同時に、悲しいとも、悔しいとも思った。できることなら、自分で自分を呪い殺してしまいたい――そんな、深い後悔の念に満ち満ちた感情が、入り込んできたのだ。
 「同調、か………」
 おそらく――いや、間違いなく、あのときの感情は、真が持っていた感情そのもの。そしてそれ以来、あの夜のことを思い出すと、咲夜は決まって、胸に激しい痛みを覚える。そして、それはおそらくは真も同じなのだろう。
 自分以外の人間の感情が、突如として自分の中に入り込んでくる――それ自体は、咲夜はそれまでにも経験していた。そして、それは決まって、あの夜の真と同じような、どうしようもない、激しい痛みを伴う感情だった。
 最後に経験したのは、13年前の夏。
 蒸し暑い、寝苦しい夜に、突如として入り込んできた感情は、どうしようもない、無念の叫び。そして、幼くして親を失わなければならなくなった、息子への思い。
 耳をふさいでうずくまってもなお、それは途切れることなく――耐えかねた咲夜が物理的な、そして精神的な、あらゆる接触を遮断してしまうまで、続いた。


 「何があろうと、行かにゃならんさ。俺が退魔士である以上はな」
 「何があっても、行かなければならないでしょう? 私が退魔士である限りは」


 13年前にあの男――真の父親が自分に言った言葉と、あの夜、真が自分に言った言葉。
 口調の違いこそあれ、それが奇妙なまでに一致しているのは、ただの偶然だっただろうか?


 「宮……私は、どうすればいい?」
 ほのかに色づき始めた紫陽花を見つめながら、咲夜は一人、そう呟いた。


 ふすまの開く音がして、咲夜ははっと我に帰った。
 「ただいま、戻りました」
 少し疲れたような表情で戻ってきた真に、咲夜はホッとしたような表情で尋ねた。
 「……何も、なかったようだな」
 「ええ、一応は」
 「……一応は?」
 冴えのない表情で答える真に、咲夜がピクリ、と眉を動かす。
 「……JGBAの職員がパトロールに出ているみたいですね」
 「見つかったのか?」
 「いえ」と短く首を振って、真は続ける。
 「コンビニの駐車場で見かけたんですよ、JGBAの車両を。店の中で買い物をしていたみたいで、誰も乗っていなかったんですが。さすがに、少し気が張りました」
 ホゥ、と、真は軽いため息をつく。
 「まぁ、すぐにそれと分かる車で出歩いている連中ならば、気にすることはない」
 咲夜はコトリ、と湯飲みを置くと、「それにしても」と続ける。
 「そろそろ、感付いた者が出てきている」
 「何か、ありましたか?」
 眉根を寄せて、尋ねる真。
 「……名前を何と言ったか。よく、お前とつるんでいる少年がいたな」
 「……刃の、ことですか?」
 「そう、それだ。その少年が、少し前にここを尋ねてきた」
 「それで?」
 「今はいないと言ったら、あっさりと引き下がった。直接話したい、と言っていたな」
 「直接話したい……ですか」
 「ああ。携帯をもっていると言うから、お前が帰り次第、電話をさせるとは言っておいたが」
 「そうですか……それなら、電話をしてみたほうがいいでしょうね」
 うなずく、咲夜。
 「……ああ、それから」
 「それから?」
 座を立ちかけた真に、咲夜が思案顔で続ける。
 「アミアという女が、尋ねてきた」
 「……アミアさんが?」
 「ああ。葛城の名代として来たといっていた」
 「それで、どうしたんですか?」
 「ふむ。また来るといっていたな」
 「そう、ですか」
 何か釈然としないものを感じたのか、真は咲夜をじっと見つめる。
 「……何か、ついているか?」
 不思議そうに尋ねる彼女。
 「いえ……それでは、電話をしてきます」
 「ああ。そうするといい」


 「ん? 電話か……」
 緋月家を辞した後、行く当てもないままコンビニに入っていた刃は、突然鳴り出した自分の携帯を取り出し、慌てて外に出た。
 「誰だ、これ……」
 身に覚えのない電話番号に首を傾げつつ、刃は携帯を耳に当てる。
 「もしもし?」
 『もしもし、刃ですか?』
 「真か!?」
 『ええ、そうです。帰ったら、あなたが会いに来た、と聞いたものですから』
 「そうか……」
 『今、どこにいるんですか?』
 「俺か? 俺は……えーと……どこだ、ここは」
 あたりを見回す、刃。
 「緋月さん……だったか? お前の祖父さんの家の近くのコンビニにいるんだけどな」
 『はぁ……? そんな所にいるんですか?』
 「仕方ないだろ。こっからだと、バスが1時間に1本しかないんだからよ」
 『分かりました。今からそちらに向かいます』
 「お前が来るのか?」
 『大方、道に迷っていたんでしょう? 戻ってこれますか?』
 「う……分かった」


 「……やっぱり、お前が乗っていたのか」
 赤のS2000に乗って現れた真に、刃はため息を漏らす。
 「やっぱり……ですか?」
 刃の言葉に、真は首をかしげる。
 「お前、昼前に星診駅の前を通っただろ」
 「ええ……では、やっぱり」
 「何だ、お前も気づいてたのか」
 「ええ……でも、まさかあなたがいるとは思わなかったものですから」
 「そりゃぁ俺だって同じだぜ。まさか、目当ての人間が車で目の前を通り過ぎていったなんて思いも寄らないさ」
 「……まぁ、いいでしょう。乗りませんか」
 そう言うと、真は運転席のドアを開ける。
 「どこか行くのか?」
 「星診駅のあたりまで戻るんでしょう? 送りますよ」
 「悪いな」
 「いつものことじゃないですか」
 言われた刃は苦笑いを浮かべて、助手席に乗り込む。
 「………あの、な。皆、心配してたぞ」
 車が走り出してしばらくしてから、刃は遠慮がちに話を切り出した。
 「………そう、ですか。そうでしょうね」
 ため息交じりに答える、真。
 「悪かったとは、思っていますよ。誰にも話さずに、家を出てきましたからね」
 「ああ。家に携帯を置いて、ご丁寧にも車まで替えてな」
 「…………」
 射るような目で見た刃に、真は無言で応える。
 「一つ、聞いてもいいか」
 「どうぞ」
 「あの夜……お前、言霊って奴を使ったんだろう?」
 「そういうことになりますね」
 「これはゆかりさんの受け売りだけどな。その言霊って奴、有効範囲にいたら、敵味方関係無しに影響を受けるんだろ?」
 「……よほどのことがない限りは」
 淡々と答える、真。
 「…………それじゃぁ、聞くけどな。あの夜、お前は……澪まで、巻き添えにするつもりだったのか?」
 「ええ、そうです」
 何のためらいもなく、即答した、真。
 その瞬間、刃はグッ、と拳を握り締める。
 「……そんなに私と心中したいですか? 別に私はかまいませんよ?」
 チラリ、と刃を見やって、真は視線を戻す。
 「……別に、何も言う気はありませんよ。第一、何を言ってもあなたは信じないでしょうから」
 ものすごい表情でこちらをにらみつけている刃と目を合わせようともせず、真は淡々と続ける。
 「……何、ふざけたこと言ってんだよ……澪をあんな目にあわせておいて、星診にまで逃げてきた挙句、『何も言う気はない』だと!?」
 「……………」
 「何とか言えよ! これじゃぁ、澪があまりにも可哀想だろ……記憶をなくしてまで、あいつはお前を必要としてたんだぞ!?」
 一方的にまくし立てる刃に何も答えず、真は車を左に寄せ、路肩に停める。
 「何やってんだよ、お前は………いつまでも、うじうじ逃げまわってんじゃねぇ!!」
 「……言いたいことは、それだけですか?」
 「何!?」
 冷ややかな目で見つめた真の胸倉を、刃がつかむ。
 「言いたいことはそれだけですか、と聞いているんですよ」
 「っの野郎!」
 逆上した刃の手を振り解くと、真は逆に刃の胸倉をつかみ返す。
 「刃、あなたは邪魔です」
 「何?」
 「邪魔だと言っているんです。私が何故ここに来たのか……それをあなたがどう理解しているかは知りませんし、知ろうとも思いません。ただ、私は星診でやりたいことがある。そして、これ以上、その邪魔をしようというのなら……今すぐ、あなたを相田と同じ目に合わせて差し上げますよ」
 「………………」
 真は、本気だった。
 少なくとも、刃には、そう見えた。
 そして、恐怖を覚えた。
 まったく感情の見えない、冷たい瞳。
 そんな瞳は何度も見てきたはずなのに、今回ばかりは、気圧されてしまって、何もできないのだ。
 どれくらい、そうしていただろうか。
 「……ふぅ………」
 真は刃から手を放すと、運転席のシートにもたれかかり、大きくため息をつく。
 「……とりあえず、駅までは送りますよ」
 そう言うと、真は車を発進させた。


 「……着いたな」
 同じ頃。
 車を降りた藤丸詩狼は、一人、緋月家の門前に立っていた。
 事前に入手しておいた情報によれば、この家に、真がいるはずだった。
 日曜日ということもあってか、家の中からは、数人の人の気配を感じた。
 そしてそれらは、おそらく、緋月家の面々。
 だが退魔士――彼から見れば、能力者特有の「何か」が、そこからは感じられない。
 「……ここではないのか?」
 呟いて、彼はもう一度、緋月家の邸宅を見上げた。
 つい先ほどまで、真はいた――そういうふうに、彼は感じた。
 そこに存在していた形跡、とでも言おうか。
 そういったものを、彼は感じたのだ。
 (……ならば、出直すか)
 いかにも「つい今しがた出て行ったばかり」といったような感覚に、彼はそう、判断した。
 在所がつかめただけでも、よしとしよう。
 そう割り切って車のドアに手をかけたその時――不意に、緋月家の玄関が、開いた。
 「……………」
 中から現れたのは、妙齢の、若い女性。
 少なくとも最初はそう見えた。
 だが。
 「……なんだ、あれは……」
 あれ――そう、「あれ」と、詩狼は感じた。
 別に何か話し掛けてくるでもなく、じっとこちらを見つめている、女。
 (……この気圧される感覚……人間では、ない)
 そう、詩狼は判じた。
 外道かとも思ったが、そうではなさそうだった。第一、外道を身辺に置いている退魔士など、聞いたことがない。
 では――あれはいったい、何者なのか?


 「……あんた、そんなところで何やってんだ?」
 玄関を開け放ったまま、じっと外を見ている咲夜に、澄馬はあきれたような顔でそう尋ねた。
 「………いや、何でもない」
 フッ、と微かに笑って、咲夜はゆっくりと、玄関の引き戸を閉める。
 「誰か、いたのか?」
 「誰か、か……そうだな。誰か、いたようだな」
 「………?」
 謎めいた返事に、澄馬は首をかしげる。
 「少年……」
 「何だ?」
 「これからも真と付き合うつもりなら……少しは、用心することだ」
 「何だよ、それ」
 「そのままの意味だ。真の周りには、いろいろな人間がいる。お前も含めて、な」
 「はぁ?」
 いまいち意味がつかめずにいる澄馬に、咲夜は笑みを見せる。
 「……そのうち、いやでも分かるときが来るかもしれない。そうならないことを祈るが、な」
 そう言うと、咲夜は客間へと戻っていく。
 「……何だってんだよ、一体……」
 残された澄馬は、憮然とした表情で自分の部屋へと戻るしか、なかった。


 「……計算違い……いや、計算外、だな」
 誤ってびっくり箱を開けてしまった時のような、とでも言おうか。
 詩狼は予想だにしなかった女の存在に、戸惑いを抑えきれないでいた。
 「……何にせよ、やはり出直すしかあるまい」
 あれは、必ず大きな障害になる。
 そう判断した彼は、一旦真理の実家へ戻るべく、車を発進させる。
 蒸し暑い。
 梅雨に入った空はどんよりとした、厚い雲に覆われていた。
this page: written by Hikawa Ryou, Tanba Rin.
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