「服が、台無しになってしまったな」
あちらこちらが破れ、ただのぼろ布になってしまった服を見ながら、咲夜は憮然とした表情で呟いた。
「……お気に入りだったのに」
もはや衣服としての用を為さなくなったそれを手に、咲夜は閉じられたドアのほうを見やる。
お気に入りの服――それは、自分の趣味に合うとか、よく似合うとか、そういった意味でのお気に入りでは、なかった。
その服は、真が買ってくれた服だった。
値段はどのくらいだったか――詳しい数字は忘れたが、真にとっても、決して安い買い物とはいえない値段だったはずだ。
それを、台無しにされた。
自分でも一瞬「やりすぎた」と思ったほどの傷をあの男に負わせた理由は、ただ、それに尽きる。
思うに。
真がなにがしかのプレゼント、という形で物を買うのは、皆無に近い。
それは、澪に対しても同じことだ。
先日、銀でできた十字架のペンダントを誕生日のプレゼントとして購入していたようだが――それは、単なる例外に過ぎない。
それにも関わらず、である。
単なる冗談のつもりで咲夜がねだった服を、真は大真面目な顔で買ってくれたのである。
「……何か、間違っているような気がするが……」
服にあけられた大きな穴を見つめながら、咲夜は呟く。
真が、他の女に服を買った。
澪がこの事を知ったら――ただでは済まされまい。それこそ、言うに忍びない事態を招くことになりかねない。
「まったく、しようのない奴だ……」
今更ながら、咲夜は真が抱いている感情の危うさに、軽い眩暈を覚えた。
恐らく。
真は、自分と澪とを、まったく同じポジションに置いている。
他の女と同じ扱いをされる――自分は、別にそれでもかまわなかった。
もともと、人ではない身の上である。
邪険に扱われることだって珍しいことではないし、事実、彼女の記憶の中で、自分を真と同じように、大切に扱ってくれた例は極めて少ない。
(そう言えば昔、「氷雨」などと呼んでくれた男もいたな……)
はからずとも思い出してしまった苦い記憶に、咲夜は一瞬、顔をしかめる。
「……だが、澪もそうだとは言い切れないぞ、真?」
自分の姿を映した鏡に、咲夜はそっと手を触れる。
「悪女、という奴か……」
ポツリ、と呟く。
悪女――それは、彼女が人であったなら、そう呼ばれたかもしれない。
「……仕方がないか。もとはといえば、私がまいた種だからな」
一度、大きなため息をつくと、咲夜は手にしていた服を放り投げる。
「すまないな、真……」
面と向かって言ったならば、間違いなく耳まで真っ赤に染め上げてしまうに違いない――そんな、真の顔を思い浮かべてみて、咲夜は口元をほころばせつつ。
浴室の戸を、あけた。
「一体、俺が何したってんだよ」
同じ頃、台所。
憮然とした表情で、澄馬は冷えた麦茶を一気に飲み干した。
「……災難でしたね」
フライパンで冷ご飯を炒めていた真が、声をかける。
「だろ? まったく、自転車は壊れちまうし、わけのわからんおっさんにはラチされるしさぁ」
「でも、見ず知らずの人にのこのこついていった澄馬君も、悪いといえば悪いですよ」
一度ご飯をさらに移し、フライパンの上に卵を割り入れながら、真が釘をさす。
「これにこりて、知らない人にはついていかないことですね」
「まるっきり、ガキ扱いされてるな」
「いくら人見知りしない性格だといっても、限度があるでしょう?」
「そりゃぁ、そうだけどさぁ……」
痛いところを突かれて、澄馬は頬を膨らませる。
「とにかく。相手の目的が何なのか、まだわからないですからね。用心するに越したことはないですよ」
もう一度釘をさしながら、真はフライパンの中に刻んであった具を放り込む。
「さぁ、もうすぐできますから、向こうで待っててください」
「……分かったよ」
真に言われて、澄馬は相変わらず憮然とした表情のまま、茶の間へと歩いていった。
「起きていたか」
まだ微かに髪をぬらしたまま、咲夜は茶の間にいた澄馬に声をかけた。
「……一体何なんだよ、あのおっさん。あんたの知り合いか?」
尋ねた澄馬に、咲夜はゆっくりと首を振る。
「少なくとも、こちらから知り合いになった覚えはない」
「じゃぁ、やっぱりそうじゃんか」
「まさか、ここまで早くに手を出してくるとは思わなかったものでな。……しかも少年、お前に、だ」
こたえながら、咲夜は手にしていた紐で無造作に髪の毛を結う。
「……その年でポニーテールもないと思うぜ」
「そうか? 大体お前、私のことをいくつだと思っている?」
薄笑いを浮かべて尋ねた咲夜を、澄馬はじっと見つめる。
「……なぁ」
「何だ?」
「人間のふりをしてて、何か楽しいことでもあるのか?」
「……どういう意味だ」
澄馬の言葉に、それまで浮かんでいた笑みが、咲夜の顔から消える。
「そのまんまだよ。あんた、人間じゃないんだろ? そんなあんたがさ、服を選んだり、メシを食ったりしてて、楽しいのか?」
「いつ、気づいた?」
「ついさっきさ。あんた、甘木山から俺を運んできたんだろ? 並みの女にできる芸当じゃないだろ」
「どうかな? タクシーを呼べば、そのくらいのことは訳はないぞ」
「よく言うよ……携帯も財布も持ってなかったくせに。真が、そう言ってたぞ」
「ふん……それは、うかつだったな」
ニィ、と、咲夜が笑みを浮かべる。
「き、気色の悪い笑い方するんじゃねーよ……」
咲夜が浮かべた冷たい笑みに、澄馬は一瞬、たじろぐ。
「……それで」
「それで?」
「あんた、何者なんだ?」
「……真の守護神だ、と名乗ったとしたら?」
「はぁ?」
咲夜の口をついて出た答えに、澄馬は頓狂な声をあげる。
「私が真の守護神だ、と名乗ったとして、お前は信じられる口か?」
つい何時間か前にアミアに言ったのとまったく同じ事を、咲夜は尋ねる。
澄馬は
「うーん……」
と大真面目な表情でしばらく考えた後、
「……ずいぶんとひねくれた神サマだな。あいつにぴったりだ」
と答えて一人、何度もうなずく。
「プッ……ククク………ハハハハハハハ………」
「な、なんだよ。そんなにおかしかったか?」
澄馬が答えた途端に噴出し、しまいにはこらえきれない、といった風に笑い始めた咲夜に、澄馬は憮然とした表情でにらみつける。
「いや……そうか、私は真にぴったりの神サマか……。お前には、そう見えるんだな」
うなずく、澄馬。
「最初は恋人同士かな、なーんてこと思ったりしてたけどさ。どう考えても、そんな感じしないもんな」
「ふむ……やはり、そう思うか?」
澄馬の「正直な感想」に、咲夜はまだ笑をこらえながら、興味津々、といった風に尋ねる。
「だってそうだろ? お互い、妙によそよそしいところがあるしさ。それで付き合ってます、何て言ってたら、ただの末期症状じゃん」
「そうか。では少年。具体的にどこがどうよそよそしいと感じた?」
意地の悪い笑みを浮かべながら、咲夜が尋ねる。
「え……? そ、それは……」
赤面する、澄馬。
「フフ。まぁ、そこまでは追求しないでおこう……」
意地の悪い笑みはそのままに、咲夜はポン、と澄馬の頭を叩く。
「ったく、どいつもこいつもガキ扱いだもんなぁ……」
と、澄馬が頬を膨らませたところへ。
「誰がガキ扱いしてるんですか、澄馬君?」
真が夕食を乗せたトレイを持って、茶の間に現れる。
「えっ? い、いや、別に……なんでもねーよ」
「そうですか?」
急に黙りこくった澄馬に首をかしげて、真は二人分の夕食をテーブルに並べる。
「ところでさっき、何をあんなに笑っていたんですか?」
「ん……? ああ、あのことか」
真から夕食が乗った皿を受け取りながら、咲夜が答える。
「お前にはひねくれものの神サマがお似合いなんだそうだぞ、真」
「………は?」
余りに話を要約しすぎている咲夜に、真は間の抜けた声をあげる。
「フフ……気にするな。なぁ、少年?」
「え? あ、あぁ……そうだな。気にすることないって」
いきなり水を向けられて、澄馬はそう言って、笑いながらごまかす。
「…………やっぱり、晩御飯は抜き、ということで」
ムッ、とした表情で、真は並べかけた夕食をトレイに戻し始める。
「むぅ。それはかなり痛いな。痛すぎる。それだけは勘弁してくれないか?」
「神サマでも腹が減るのかよ?」
慌てて真の手を抑える咲夜に、澄馬が茶々を入れる。。
「うるさい! 真の手料理を逃すのは痛恨の極みだぞ、少年。ここはなんとしても守り抜かねばならん」
「な、何を言ってるんですか、もう……」
赤面した真が思わず手を緩めた瞬間。
咲夜は、すばやく真の手から皿を奪い取る。
「………分かりましたよ。どうぞ、食べてください」
これを食わせてくれないのならお前を食うぞ、とでも言わんばかりににらみつけられて、真は苦笑いを浮かべながら夕食を食卓に戻す。
「と、いうわけだ、少年。ありがたくいただくことにしよう」
「………なんだかなぁ」
嬉々とした表情でスプーンを握った咲夜に、ただただ当てられてため息をつくしかない、澄馬。
「食べないのなら、下げますよ?」
「いや、食う」
即答して、澄馬は皿に盛られた炒飯を口に運ぶ。
しばしの、沈黙。
そして、その後。
「………………美味い」
一言。
たった一言呟いて、澄馬は勢いよく炒飯をかきこみ始める。
「むぅ。お前、カレーライスの他に、炒飯も得意だったのか?」
心底意外だった、という表情の咲夜。
「……何か複雑な物言いですね」
「気にするな、いつものことだ」
咲夜はそう言って、後は無言で食を進める。
ちなみに今回のメニューは、織姫真謹製炒飯とインスタントのカップスープコンソメ味、レタスとトマトのサラダ。町のラーメン屋で言う、「餃子抜き炒飯セット」といったところだろうか。
「確かに、これを逃したら痛恨の極みだったな」
心底納得、といった表情でうなずく、澄馬。
「あ、そうだ、澄馬君」
「んあ?」
ちょうど炒飯を頬張ったところで声をかけられて、澄馬は間の抜けた返事をする。
「一息ついたら、ドライブにでも行きませんか」
「……………………いいけど?」
口の中のものを全部飲み込んでから、澄馬はうなずく。
「俺はいいけど、こいつはいいのか?」
「どういう意味だ、少年」
「いや、別に……」
「いらん気を使うな。お前がにらんだとおり、真の恋人は別にいる」
「へぇ……やっぱ、そうなんだ」
「な、何を言ってるんですか!」
やっぱりねぇ、とでも言わんばかりの目で見やる澄馬。
「と、とにかく。準備かできたら、言ってくださいね」
「分かったよ」
澄馬がうなずくと、真は座を立ち、自室のほうへと歩いていく。
「……なぁ」
真の姿が見えなくなってから、澄馬は黙々と炒飯を口に運ぶ咲夜に、遠慮がちに話し掛ける。
「何だ?」
「もう一度、聞くけどさ。人間と付き合ってて、楽しい?」
尋ねた澄馬に、咲夜は「何だ、そんなことか」とでも言いたげな顔つきでうなずく。
「特に、真とは、な」
「何だ、結局ラブラブじゃん。ひょっとして泥沼の三角関係、って奴?」
「………かも、しれないな」
軽くため息をついた咲夜を、澄馬はギョッ、とした顔で見つめる。
「………命がいくつあっても足りねーよな………」
「何か言ったか、少年?」
「いーや、何も。冷めないうちに食っちまおうぜ」
「同感だ」
二人はうなずくと、それからしばらく、無言で織姫真謹製炒飯を平らげにかかった。
それから、約一時間の後。
真と澄馬を乗せたHONDA・S2000は、星診市南東部に位置する古社――星診神宮の駐車場に、その姿をあらわした。
「なぁ、何で、ここなんだ?」
「さぁ……私も、なんとなくハンドルを切ったものですから」
「おいおい、危ねーなぁ……」
笑いながら、澄馬は車を降りる。
すでに、時計は10時を回っていた。頻繁に観光客が訪れるような所ではないから、日が暮れれば、あたりは闇に包まれることになる。
今も――駐車場の脇に立っている電柱に申し訳程度につけられた街灯以外には、あたりを照らすものは何もない。
「まぁ、いいじゃないですか。夜参りは意外とおもしろいですよ。昼と夜では、雰囲気も全然違うはずですし」
とはいえ――気軽に夜参り、としゃれ込むわけには行かないのも確かではある。
古びた石の鳥居から伸びる参道の脇には木々が生い茂り、時折吹き抜ける風に、ざわざわと音を立てる。昼間であれば、日差しを遮る木陰とあいまって、きっと心地よい音であったに違いないが――あたりが闇に沈んでいる今となっては、ただただ不気味である、としか言いようがない。
「なぁ……やっぱり、やめとこうぜ」
「怖いですか?」
「あったりまえだろ!」
「うーん……確かに、ちょっと変な感じはしますけどねェ……」
「お、おどかすなよ……」
真の言葉に、澄馬はおっかなびっくり、といった風に鳥居を見上げる。
もし、ここに立っているのが真ではなく、夢人であったならば――彼はきっと、顔をしかめて鳥居を見上げていただろう。
事情を知らない真にもはっきりと分かるほど、そこは雰囲気が悪かった。実際問題として、『ちょっと』どころではない。夢人なら、「去年より悪くなってるような……?」と首をかしげるところだろう。
「……やっぱり、やめてきおきましょうか」
しばらく鳥居を見上げて、真は回れ右をした。
「どうしたんだよ、お前も怖くなったのか?」
慌てて真の後を追いながら、澄馬は尋ねる。
「……この神社、何か変な感じがしませんか?」
「変……って?」
「うーん、なんというか……」
逆に尋ねられて、真は考え込む。
一瞬ではあるが、真は鳥居をくぐることを拒否されたような、そんな気がした。
誰に、というわけでもない。
しいて言えば、神社そのものに、とでも言おうか?
古来からこの神社を守護していた霊――地霊から、余所者として遠ざけられたのか。
そうも考えたが、真はすぐに、それを否定した。
余所者、というだけでは説明のつかない、敵意にも似たモノを、彼は感じたからである。
訳がわからず、真は首をひねった。
「……俺、何度かここにきたことあるんだけどさ。この鳥居、くぐったことないんだよな」
そんな真の横で、澄馬がボソリ、と呟く。
「父さんもじっちゃんも、さ。ここには絶対、来たがらないんだ」
「何故ですか?」
「さぁ? 血筋がどうのこうの、って言ってたのを聞いたことがあるけどな」
「血筋……ですか」
なんとなく釈然としないものを感じながら、真は振り返り、もう一度、鳥居を見上げる。
「……あの、さ」
「何ですか?」
「咲夜、っていうんだっけ、あの女……」
「はぁ……咲夜さんが、どうかしましたか?」
「あいつ……人間じゃないんだろ?」
一瞬、真の顔がこわばる。
「……どうして、それを?」
「さっき。お前が晩御飯を作ってる間に、そういう話になったんだ」
「それで?」
「あんた、人間じゃないんだろ、って言ったら、あっさり認めたぞ」
「そう、ですか……」
軽い、ため息。
「いつ、どこで知り合ったんだ?」
「聞きたい、ですか?」
「話したくないのなら、いい」
「いいですよ。別に隠さなければならないわけでもありませんからね」
そう言うと、真はぽつぽつと、語り始めた。
今から、10年前――1990年の、ある暑い夏の夜。
決して狭くはない糺宮神社の境内の中を、一人、真が物珍しそうにあたりを見回しながら、歩いていた。
物珍しそうに、というのには、事情がある。
さらにさかのぼること、3年前。
真は、父親である孝を亡くした。
死因は、胸部に負った深い裂傷による失血死。殉職であった。
それより先、真は生まれてすぐに、母親を亡くしている。
祖父の司は、幼くして両親を亡くした真を不憫に思ったのか、彼を娘夫婦に預け、週一回、司のもとで将来退魔士になるため訓練を受けさせることにした。
よって、真は普段の生活を叔母夫婦の家――遠野家で送っていた。そこで、真は従姉妹にあたる深雪・澪の二人と、実の姉弟同然に育てられたわけだ。
そういうわけであるから、実家とはいえ、当時の真には、物珍しさが先にたった。
こっそり部屋を抜け出して、夜の散歩に出たのも、そういった、実家に対する好奇心がそのまま行動に現れただけのことだ。
しかし――いくら好奇心旺盛とは言え、闇に沈んだ境内が怖いのか、真は恐る恐る、歩を進める。
何しろ、ただでさえ夜の神社は暗い。
加えて、生い茂る木々の枝葉が月の光をほとんど遮ってしまっているから、周囲の闇の濃さは尋常ではない。
と。
ふと、真は足をとめた。
「……………」
女が、いた。
「……………」
昼間にやっておいた「事前調査」によれば、現在地は「姫桜神」という女神を祀る社の前にいるはずだった。
その、社の前に。
一人の女が、いたのである。
何かを祈っているのか、女は天を仰いだまま軽く目を閉じ、胸の前で手を組み合わせていた。
あたりを覆う闇の中――どうして、その女の姿がはっきりと見えたのか、分からない。
やや、あって。
女は目をあけると、ゆっくりと、こちらを向いた。
「こんな時間にこんな所をうろつくのは、あまり感心できないな」
余り、抑揚のない声だった。
「…………」
恐怖によるものか、あるいはまた、別の何かによるものか――真は、その場に固まったきり、動けなかった。
そんな真に、女はわずかに首をかしげる。
「……名前は?」
すぐ側まで歩み寄り、真と同じ目線になるようにしゃがみこんで、女は尋ねた。
「織姫…真……」
「織姫……?」
再び、女はわずかばかり、首をかしげる。
「お前、孝の息子か?」
尋ねられて、真は微かにうなずいた。
「そうか。もう、こんなに大きくなったのか」
そう言って、女は微笑むと、真の頭をなでる。
「………誰?」
「私か?」
うなずいた真に、女は少し困ったような表情を見せた。
「私は……そうだな。お前の父親は、姫、と呼んでいた」
「ひめ?」
「そう。姫だ」
うなずいた女を、真は怪訝な表情で見つめた。
「そんなことより、お前、何故この家にいる。引っ越したのではなかったのか?」
「今日は、お稽古があったの」
「稽古?」
尋ねた女に、真はうなずく。
「何の?」
「お父さんと同じお仕事をするための」
「……なるほど」
得心がいった、とでもいう風に、女はうなずいた。
「稽古は、うまくいっているのか?」
尋ねた女に、真はゆっくりと首を振った。
事実である。
まだ小学校2年生の子供に退魔士としての訓練を施すほうが間違っているといえばそうなのだが――真の能力は、司の期待通りには花開いてはいなかった。
「そうか。じゃぁ、私が稽古をつけてやろうか?」
「上手になれる?」
切々とした瞳で尋ねた真に、咲夜はにっこりと、微笑む。
「安心しろ」
それからというもの。
司から訓練を受けた後、真はこっそりと姫桜神社の前まで通うようになった。
真夜中の、退魔士修行――その効果は着実に現れ、程なくして、真は「天才少年」として、JGBAの目にとまることになる。
「じゃぁ何か? やっぱりあの女、神サマだったのか?」
「さぁ?」
「さぁ、って……お前、気にならないのか?」
「別に」
シャラッとした表情で答えた真に、澄馬は大きなため息をつく。
「何だかなぁ……」
「別に、いいじゃないですか。神サマか、それとも化生か、変化の類か……そんな存在が、私のような人間の側にいてくれる。拒む理由は、ないと思いますけど」
「そういうもんなのか?」
「そういうものですよ」
「そうなのかなぁ……」
首をひねって考え込む、澄馬。
と。
不意に、真が厳しい表情で、あたりを見回した。
「どうした?」
怪訝な表情で尋ねる澄馬に、真は「静かにしてください」とばかりに、唇に人差し指を当ててみせる。
「……囲まれています」
「か、囲まれている、って……」
「安心してください。相手は人間ですから」
「お、おいおい」
こんな物騒な状況で「安心してください」もないものだが。
「まぁ、化け物に囲まれてないだけ、ましってことか」
「そういうことです」
「それで、どうするよ?」
「さて……どうやら向こうは、このまま無事に帰してくれそうな雰囲気でもありませんし」
「じゃぁ、やるのか?」
うなずく、真。
「澄馬君、何か得意な武器はありますか?」
「と、得意って……一応、護身のための剣術くらいなら、研修所で習ってるけど」
「そうですか。では、これを」
そう言うと、真は持っていた短めの刀――小太刀を、澄馬に渡す。
「い、いつの間に?」
ずっしりとした小太刀の重みに、澄馬は戸惑いの色を隠せない。
「これくらいは、いつも持ち歩いていますよ。刃は潰してありますから、思いっきり殴っていいですよ」
「物騒だな。お前は、どうするんだよ?」
「手裏剣がありますから、それで」
「……お前、いつもそういうのを持ち歩いてんのか?」
「そういう立場にいるものですから」
「…………何だかなぁ」
軽い眩暈を覚えて、澄馬は頭を抱える。
「……行きますよ。二手に分かれましょう。どの道、向こうの狙いは私でしょうから」
「わ、分かった」
うなずく、澄馬。ここは、覚悟を決める他に、道はなさそうだった。
「Ready……」
真の言葉に、澄馬は鞘を払う。
「Go!」
「おわっ!?」
ギィン、という耳障りの音を立てて、金属同士がぶつかり合う。
「ク、ク……ッ」
相手の一撃目を何とか鍔元で受け止めたものの、そのまま力勝負のつばぜり合いに持ち込まれた澄馬は、顔をゆがめながら、それでも何とか持ちこたえようと、必死で小太刀を押し上げる。
と。
明らかに剣呑な気配が背後に回るのを、澄馬は感じた。
(ヤバ……ッ!)
後ろを振り向かずとも、別の相手が背後に回ったのがわかる。
これこそ、絶体絶命のピンチというやつだ。
(やっぱり、人間相手っていうのは厳しかったよなぁ……)
研修所で剣術を習っているとはいえ――もともと、退魔士は前提となっている相手が違う。人間ではなく、あくまで化け物が相手になるから、勢い、戦闘技術も符の使い方とか、拳銃の扱い方とか、そういったモノが中心になる。剣術を含め、白兵戦に使えるような技術は、「最後の最後」に使うものとして、あまり重要視はされていない。
それに対して。
澄馬と刃を交わらせている連中は、どうやら人間相手の白兵戦に相当通じているようだった。
澄馬が持っている小太刀同様、向こうの持っている武器も刃を潰してあることから考えると、相手の目的はあくまで捕縛にあるらしい。
だが――刃引きとはいえ、鉄の棒を振り回しているのには変わりない。まともにあたれば、ただではすまないのだ。
と。
「ぐぁっ!?」
後ろで、悲鳴が聞こえた。
次いで、小太刀にかかっていた体重が消える。
「え?」
思わず目を閉じていた澄馬は、呆然、といった風にあたりを見回す。
ポン。
おっかなびっくりで頭をめぐらしていた澄馬の肩に、後ろから手が置かれる。
「うわっ!?」
慌てて振り返る。
そこには。
「ご苦労なことだな、少年」
小枝を手にして笑っている、咲夜の姿があった。
同じ頃、真は。
思いのほか敵の数が多かったと見え、手持ちの手裏剣を全て打ち尽くし、今は倒した敵の手から奪った刀で応戦していた。
「あくまで抵抗するつもりか」
「当たり前でしょう。私は氷浦二課から襲撃されるいわれなどありませんよ」
「貴様、どうしてそれを!」
「少し考えたら分かることですよ。母親の故郷という以外、何の関係もない星診で襲われるんですからね」
「クッ、このまま抵抗をしても、立場が悪くなるだけだぞ」
「お得意の脅迫ですか? 監視対象にされるだけで、十分立場的には厳しいと思いますけどね。これ以上厳しくなったとしても、別に同ということはありませんよ」
「フン、お前はそうだとしても、その周りにいる人間はどうかな?」
「なッ!?」
不覚にも、一瞬、真の動きが、止まった。
その隙を見逃さず、背後から忍び寄った男が、したたかに真を殴りつける。
「クッ」
「私のみならず、私の周りにいる人間にまで累が及ぶ、とでも?」
ユラリ、と立ち上がって、真は相手をにらみつける。
「当然だ」
ニヤリ、と笑う、男。
(………澪………)
脳裏を、澪の姿がよぎった。
あの夜、人目もはばからずに泣き崩れた、澪。
そして、あたかも真を呪詛するかのように繰り返された、「来ないで」という、その言葉。
悲鳴。
澪の悲鳴。
真は、自分の中で何かがはじけるのを、感じた――。
それは、一瞬の出来事だった。
真がなにがしかの言葉を口走ったと見るや、その前にいた男が、突然鋭利な刃物で切り裂かれたかのように、鮮血を噴出し、倒れ伏す。
「な……ッ!?」
驚愕の声をあげた澄馬の視界を、咲夜が遮る。
「何すんだよ!?」
気色ばんだ澄馬に、咲夜は有無を言わさぬ口調で応じる。
「私の蔭にいろ。でなければ、命の保障はできん」
今まで余裕の笑みを浮かべていた咲夜が、緊張しきった表情で、真を見つめる。
「それしか、お前が言霊から逃れる術はない」
少し離れていたところで、事の首尾を見守っていた退魔士――某県支部監査部氷浦二課所属・七瀬恭一郎は、突然降って沸いた事態に、その身を凍らせていた。
事前に読んでいた、報告書どおり――真の言霊によって、一度に二、三人の男が、鮮血を噴出しながら倒れ伏したのである。
「こ、これは……」
事態の悪化を、彼はすぐに察知した。
すぐに応援を呼ぶか、それとも、自分一人で、この場を離れるべきか?
彼は逡巡した。
「何なんだよ、あれ……」
咲夜の蔭で、澄馬はうめくように呟いた。
「少年」
「な、何だ?」
「お前は退魔士になって、何をしようと思っている?」
「何、って……退魔士は、文字通り、魔を退けるんだろ?」
「では聞くが、その「魔」とは何者をさしている?」
「何者、って……「魔」は「魔」だろう?」
「ふむ。それでは、その「魔」というモノについて、だ。何を誰が「魔」と判じるのか、考えたことはあるか?」
「誰が……?」
「そう。誰が、だ」
「誰が、って、そりゃぁ、退魔士に決まってんだろ」
何を当たり前のことを、といわんばかりに、澄馬は答える。
「違うな。JGBAだ」
「JGBA?」
うなずく、咲夜。
「所詮、退魔士もJGBAの支配下にある。JGBAが発行するライセンスを持たないと退魔士を名乗れないのは、退魔士がJGBAの支配下にあるからだ。となれば、退魔士はJGBAが「魔」と判断したモノを屠っていることになる」
「……何がいいたいんだよ」
怪訝な表情で尋ねる、澄馬。
「フフ、分からないか? つまりそれは、化け物でなくとも、JGBAが「魔」と判断すれば、退魔士から命を狙われることになる、ということだ」
咲夜の言葉に、ハッとした表情で、澄馬は真を見やる。
「なっ、そ、それじゃぁ!?」
「「魔」とは、何も闇に跋扈する化け物だけを指して言うのではない……むしろ、人間自身の怨念や思い込み――そういったモノが、なんでもないものを「魔」に仕立て上げてしまう。そう言った男が、昔、いた」
心なしか哀しそうな笑みを浮かべて、咲夜は続ける。
「真の、父親だ」
「………それじゃぁ、退魔士は……JGBAは、一体何のためにあるってんだよ!」
「さぁ、な」
サラリ、と、咲夜は澄馬の問いを受け流した。
「ただ、分かっているのは……時代の流れととともに、退魔士自身がJGBAという存在を欲し、作り上げた、ということだ。そしてその組織の中で、真は生きている。そして」
言葉を切って、咲夜はふりかえる。
「少年。お前もだ」
解放による快感、とでも言おうか。
ある種の爽快感を持って、真は目の前にいた男が血まみれになりながら倒れ伏すのを見つめていた。
そういえば、あの夜も同じだった。
咲夜から退魔士としての手ほどきを受けてから、すでに10年。
真は、着実に自分の持てる力――霊力が成長していくのを感じると同時に、なんとも形容のしがたい、鬱屈したモノもまた、感じるようになっていた。
それが、何なのか。
長い間、真には分からなかった。
分からなかったが、薄々は感付いていたのも、また事実だ。
自分自身につけられた、リミッターとでも言おうか。
生来、もって生まれた力が強力すぎるが故に、彼の身体がとった、無意識の自衛の策だった。
そして、あの夜。
真は生まれて初めて、リミッターの制御を離れて霊力を放った。
それと同時に、彼は長年にわたって溜まり続けていたストレスを一気に解き放ち――そして、その爽快感に、酔った。
「そのくらいにしておいたらどうだ。今に、お前の身体が壊れるぞ?」
ポン、と肩を叩かれて、真は我に帰った。
「咲夜……さん?」
「どうしてこんなところに?」という言葉を言外に含めて、真は咲夜を見やる。
「胸騒ぎがした。それで来て見たら、この有様だ」
言われて、真はあたりを見回す。
血にまみれた屈強な男たちが、あちらこちらに倒れ伏している。
あの忌まわしい夜に劣らぬ、大惨事だった。
「気にするな」
無茶を承知で、咲夜は言った。
「いささか過剰だが、まぁ正当な防衛行動だ」
「JGBAはそうは思いませんよ」
「あたりまえだ。奴らはもとから、こういったことは計算済みだろうからな」
「……………」
無言で、真は持っていた刀を悔しそうに地面に突き刺した。
「……やはり、あの女のいったとおりになったか」
そんな真を見ながら、ポツリ、と咲夜が呟く。
「誰の事です?」
「アミアだ」
「アミアさんが……?」
意外な人物の名前に、真は首をかしげる。
「あの女、遅かれ早かれこうなるだろう、と読んでいたぞ。まるで、自分がJGBAの中枢にいるかのような口ぶりだったな」
「それは、アミアさんがそういう情報を握っていた、ということですか?」
「おそらく」
「でも、どうして?」
「……………」
尋ねた真に、咲夜は口をつぐんだ。
「……咲夜さん?」
「……まだ早いと思っていたが、こうなったからには、仕方がないか」
誰にともなく、呟く。
「何のことです」
尋ねた真を、咲夜は、じっと見据えた。
「お前に、イギリス出向の打診がきている」
「イギリス……ですか?」
いきなり突拍子もないことを言われて、真は目をしばたたかせる。
「あの女がお前を訪ねてきたのは、そのことについてだ」
「でも、どうして……」
「詳しい話は、本人から聞いたほうがいい。私も、立ち入った話は何一つ、聞いていない」
それは、嘘でしょう?
真はそう言いたげな目で、咲夜を見つめた。
「………とりあえず、家に戻ろう。新手が来れば、また面倒なことになるぞ」
「咲夜さん!」
目をそらした彼女に食い下がる、真。
だが。
彼女はあらぬ方向を指差しただけだった。
「少年を放っておくわけにも行くまい?」
そう言われて、振り向いた先には。
「……澄馬、君……」
呆然とした表情でこちらを見つめる、澄馬の姿が、あった。 |