梅雨空幻燈
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17
 「………と、いうわけだ」
 朝。
 病室のベッドの上で、詩狼は慎一から、自分が倒れてからの状況の説明を受けていた。
 まだ断片的にしか分からないこともあるが、彼の話を時系列順につなげていくと、おおよそ次のような話になる――


 詩狼と咲夜の争いに偶然居合わせた市民の通報で、すぐさま救急車とパトカーがそれぞれの署より出立した。
 星診市の交通の要、星診駅前を通る国道208号線。
 それに沿って急速に北上すれば、約10分で甘木山頂には辿り着けた。
 だが彼らが着いた時には、もうそこには通報した本人と野次馬的な付近のホテル従業員くらいしかいなかった。
 取り敢えず即座に応援を頼んだ警官2人組が、後続がくるまで行った捜査で発見したものといえば……
 まず一つ目。
 少し寂れた公園内のいくつかの木の側面において見られる、まるでスプーンで抉り取ったかのような奇妙かつ巨大な変形。
 一体どういう器具を使ったならば、果たしてこうも綺麗な所作が出来得るものか。
 そんなことは彼らにはとうてい解りそうもなかった。
 次に2つ目。
 映画・十戒でかのモーゼが海を割るシーン。
 それを彷彿とさせる如く、中央から美しく両断されてしまった展望所の木製ベンチとテーブル、そして転落防止の柵。
 これまたチーェンソーやらで斬った様な木屑などは全く残っていない。
 だがもしこれが一撃のもとに出来たものだとしたら、これまた一体どういう器具を使ったらできるものなのだろうか。
 目撃者の話をまとめれば、争っていたと思われる人物のうち一人は、その場に倒れていた子供を抱えていつのまにか消えてしまったらしい。
 またもう片方は男性でどうやら一方的に負傷していたらしく、相手が居なくなった数分後に、知り合いと思われる3人の男女によって車でどこかへ連れていかれたらしい。
 事件の当事者もいない。
 そして人と人が争ったといえるような確たる証拠、また凶器らしいものも全く残ってはない。
 結局、それらしい確証がもてるものといえば、展望所と駐車場の隅でコンクリートをしっとりと覆っていた液体。
 まだやや温かい、ライトに照らすと赤い色をしていて、鉄のにおいがするもの。
 そのくらいだった。
 
 
 一方、救急車出動の知らせがS病院に届き、当直の医師が負傷者の受け入れ準備を開始していたころ、当の詩狼は慎一の運転する車でこの総合病院へと運び込まれてきた。
 詩狼から流出した血液は、どうやら命を失うことも決しておかしくない量だったらしい。
 当直だった若い医師は詩狼の容態を診つつ、先ほど連絡のあった、これから救急車でも搬送されてくる負傷者のことを考慮して、看護師にすぐさま他の医師へと連絡を取らせようとした。
 が、それに替わるように現場に向かった救急隊から連絡が入ったのだ。
 「周辺を確認するも、負傷者は発見できず。どうやら負傷者は既に搬送された模様。警察官の指示に基づき、本部へと帰還します」
 それを聞いた彼はスタッフに声を荒げ、詩狼の緊急手術開始を指示した。
 だがマリによって、冷静にそれを拒否されてしまったのである。
 それだけではない。マリは看護師に無理やり個室を用意させると、そこにはレイファのみを入れ、その医師の入室すらも拒否したのだ。
 むろんこの若い医師は狼狽し、彼女に罵声を浴びせた。
 そして落ち着いた後に、じっくりと考えた。
 
 
 甘木山頂に残されたおびただしい血痕。
 3人の男女に連れ去られたという、発見できなかった負傷者。
 そして時同じくしてここに運び込まれた、重傷を負ったあの男。
 それに付き添ってきた男1人と女2人。
 また、頑なに手術を拒むという不可解な態度を取る、付き添いの女性。
 
 
 そこから導き出された結論は、言うまでもない。
 それに突き動かされた彼は、即座に警察に連絡を入れようと思ったが、付き添いだったマリの義兄・慎一がまさにそれでもあった。
 加えて慎一の役職は、世間的にも申し分なかったのだ。
 その慎一が警察の方には自身で連絡を入れることを申し出ているし、進んで自分が勤める病院が騒動に巻き込まれるのを善しと考える医師もそうそう居まい。
 結局、この若い医師の独断ではあるが、このままの状態を維持するしかなかったのである。
 しかし彼も医師である限りは、やはりただ黙っているわけにもいかない。
 あれから3時間ほどが過ぎた。
 そして慎一が病院から出て、携帯で実家の高嶋家にも連絡を入れている隙をみて、彼らは詩狼のいる部屋へ忍び込んでいったのだ。
 「大丈夫……みんな、寝静まってるよ」
 当直だった、手術を拒まれ面子を保てなかったあの若い医師が、ゆっくりと詩狼の居る部屋へと入り込む。
 「……ねぇ先生? 私らがこんなことしてもいいんですかねぇ?」
 非常出勤までして付き添っているのは、勤続22年になるベテランの婦長。
 「あんな重傷の人間を放って置くことができますか?」
 医師は真摯な眼差しで彼女に振り返る
 「それにあの出血量では、もう……」
 「そんなに、ひどかったんですか?」
 「……ここに着いた時点で生きてるのが、むしろ不思議なくらい……っと」
 小声で会話を続けていた医師は、思わず躓きそうになる。
 入ってすぐの床には、大の字になって眠るレイファがいたのだ。
 「危ないなぁ……もう」
 日付が変わりつつある時間であるにもかかわらず、電灯はついていない。
 またカーテンすら完全に閉めたままのこの部屋だ、まだなかなか視界ははっきりしないのである。
 とにかく彼は落ち着いて体勢を立て直すと、レイファの周りをゆっくりと迂回し、一歩一歩また詩狼の居るベッドへと近づいていった。
 「……あっ」
 そしてその若い医師は驚いた。
 元は純白だったはずのシーツが、見る限り濃淡のある紅に染め上げられている。
 (これはもしかすると……やはりあの重傷を負っていた男の血なのだろうか? だとしたら、彼は……)
 傷だらけの身体を晒したその本人が、その赤い布の上で死んだように静かに横たわっている。
 そして、それに綺麗に重なるように。
 若い女性が、一糸纏わぬ姿でうつ伏せになって、これも静かに眠っているのだ。
 (こ、これは……)
 彼女の寝息を聞きながら。
 三流の官能小説の如き情景に若い彼は、しばらく見とれてしまった。
 そういえばよく足元を見渡してみれば彼女が着ていた和服が、あちらこちらに乱れ咲いているではないか。
 「……ンセイ……ねぇ、先生?」
 「あれ……婦長? ……あ? ……あ、ああ、そうだ。えぇっと……そうだったね」
 この場に婦長が居たせいで、すぐに視線を逸らすのが精一杯な医師だった。
 だが彼女に小突かれたのもあって、出来るだけマリの方は気にしない素振りをしつつ、そっと詩狼の触診をしてみることにしたのだ。
 「ン…………」
 しばし沈黙している若い彼に、婦長は不安げながら、また自身の声量にも気を使いながらに問うてみる。
 「どうですか?」
 「……そ、そんな」
 「え?」
 「……塞がってる?」
 「何がです?」
 「き、傷口が…塞がってる?」
 医師は立ち上がり自分の腕時計を見る。部屋にある時計と何度見比べても、ずれたりはしていない。
 そう、あれからまだ三時間しか経ってはいないのだ
 「どうして? なんで? 一体どうやったらこんな……!」
 刹那、ちくり、と二人の首筋に痛みが走った。
 そして二人は自分の喉元を見た。
 彼らの喉元にあったのは、頚動脈に突きつけられた最後の警告。
 それは光る金属。
 それは鋭利な刃物ともいった。
 それは凶器とも呼ばれる……それはナイフというものだった。
 「なっ……」
 「オマエ、ソれ以上、シロウに触ルナ」
 それを自分達に突きつけているのは……先程まで入り口近くの床で眠っていたはずの少女、日本名・呉麗華。
 彼女は、そっと医師の耳元に囁く。
 「……ま、待ってくれ!私は」
 「ウルサイ、黙レ」
 レイファは医師の喉元にさらに1ミリ、刃を深く突き刺す。
 「ひっ……!」
 「私、『シロウに触ルナ』云ッテる」
 いまの彼女から感じ取れるものは、圧倒的な殺意。
 いまの自分が感じ取っているものは、それに対する恐怖。
 これは人を救うという彼自身の仕事場では滅多に感じる事はない、「負」の感情というものだった。
 「せ、先生ッ!」
 「オマエモ、黙レ」
 レイファは婦長の横腹に素早く蹴りを入れる。
 「ふぐぅっ!」
 婦長は衝撃で壁まで飛ばされ、そのまま動かなくなってしまった。
 「ふ、婦長っ……!」
 医師は声を絞り上げる。
 「……シロウ邪魔すルと、殺ス」
 「な、何を……」
 「……死ネ」
 「そこまでだ!」
 レイファが両手のナイフを振り上げた瞬間、背後で病室のスライド・ドアが開くと同時、戻ってきた慎一の声が上がった。
 手に構えたリボルバー・M-19には全て実弾が装填してある。
 そしてもう、撃鉄も上がっている。
 「……シンイチ?」
 「麗華……その物騒な物を早く仕舞いなさい」
 彼の目にもそして言葉にも、殺気などは微塵も込もっていなかった。
 しかしその行動が決して脅しではない事が、彼の普段の性格からして、レイファにはよくわかった。
 「シンイチ、邪魔すルの?」
 「その人は違う、敵なんかじゃないんだよ」
 「デモ……コイツ、シロウに」
 「その人は本物の医生(イーション)なんだ。この医院(イーユアン)の人だよ」
 レイファが医師の方を振り返ると、彼は必死の形相で何度も頷いている。
 「……真的? ……ホントニ?」
 「俺が、保障する」
 しばしの沈黙はあったが、慎一のその言葉を信じてレイファは素直に暗器をしまう。
 「良い子だ……ほら、2人にきちんと謝りなさい」
 「ウン」
 そして緊張感の解けた慎一の言葉に頷いた後、レイファはゆっくりと床に伏した。
 「対不起……ゴメンナサイ……ゴメンナサイ」
 「わ、解ってくれればい、いいよ……あは、あはは」
 腰を抜かし床に座り込んだ医師だったが、このような軽口が叩けるなら、と慎一は内心ホッとした。
 「ゴメンナサイ、悪イ人思っタネ。ねぇ、痛イ? 痛イ?」
 だらにレイファは、先ほど蹴りを打ち込んだ婦長に必死に謝る。
 「ん……だ、大丈夫、OK……OKね。あイタタ……」
 多少はダメージを受けているようだが、どうやら彼女も平気そうだ。
 恐らくレイファは或る程度の加減をしていたのだろう。
 「結局、具合はどうなんです?」
 だから慎一は唐突ではあるが、この若い医師に尋ねてみたのだ。
 「な、何が?」
 「ああ、詩狼……『こいつ』の具合ですよ」
 「あ……ああ、具合ね」
 医師は着ていた白衣を軽くはたいて立ち上がる。
 そしてまだ起き上がれないらしい婦長と座したままのレイファを少し見遣った後、慎一の質問にできるだけ冷静を装って応えた。
 「その前に、彼は一体『何者』ですか?」
 「……どういう、意味です?」
 慎一は上がったままになっていた撃鉄を、静かに戻す。
 その後にやや不機嫌そうな顔をして、医師に尋ね返した。
 「いえ、他意はないんです! ……た、ただ」
 「ただ、何ですか?」
 「あれだけの出血を伴う傷を負っていた彼が、わずか三時間で……そ、それに私は驚いているだけで」
 医師は少々戸惑いながらも、話を続けていく。
 「だいたい、あれ程の血液を失っていたんですよ? ……それも輸血を受ける事も無く、いまこうして生きている。そのこと自体大いに不思議ですし……っと、何を言ってるんだ、私は」
 「不思議、ですか?」
 「あ、いえ……むしろ『興味が沸いた』と言うか……いや、この方が患者を前にした医師としては、全然駄目ですね」
 その言葉に、先ほどまで難しい顔をしていたはずの慎一は少し吹き出してしまった。
 「え? な、何か可笑しい事でも言いましたかね?」
 「……いやいや、あなたは良い医者だ。少なくともこうやって生きてるこいつを恐がるどころか、それに対して喜んでる」
 そう言って慎一は、彼と婦長を部屋の外に出るよう視線でも促す。
 「取り敢えずここじゃあ何だ、外で話をしませんか? ……また麗華に怒られないうちに」
 先ほどから随分大人しくして、眠る詩狼とマリを見つづけているレイファ。
 彼女と目線を合わせた直後、医師は素早く頷いた。
 それからまだふらついている婦長の手を取って立ち上がらせる。
 そして、彼女に肩を貸すようにして静かに部屋を後にしていった。
 
 
 「レイファ……居るか?」
 詩狼が目覚めたのはそれからさらに2時間後のことだった。
 「詩狼!」
 また眠りかけていたレイファが、詩狼に飛び寄る。
 「大丈夫? もう、大丈夫?」
 「ああ」
 彼は身体に感じる温もりと重みに気がつく。
 「どうやら……マリが『癒魂の儀』をしてくれたようだな」
 「……うん、上手くいったみたいだね」
 二人は、詩狼の上で静かに眠るマリを見る。
 「俺は……よほどひどくやられたのか?」
 「……そうみたい、だね」
 「うむ、まだ身体が自由に動かん……」
 詩狼は少し目を細める。
 「こんなのは大陸から帰って以来……久しぶりだな」
 レイファは押し黙るようにして何も言わない。
 だが詩狼は辛そうに首をひねって、どうやら涙を浮かべているらしいレイファを見る。
 「どうしたんだ?」
 「……バカ」
 「ん?」
 「詩狼のバカ」
 「……ああ、すまない」
 彼は右手の甲で、そっとレイファの頬を撫でる。
 「……心配したんだよ?」
 彼女はまた新しい傷が刻まれてしまったその手を取って、強く握り締める。
 「痛むだろうが……それに、喋り方が戻ってるぞ……」
 「いいんだよ。私に、こんなにたくさん私に心配させたんだから」
 レイファは詩狼の手に涙を拭き取らせると、にっこりと微笑む。
 「……今日だけだぞ」
 「うん」
 そう返事したレイファは、マリを左脇に抱えて寝る詩狼のベッドの、反対側にすっと入り込む。
 そして彼に寄り添うように横になると、彼女もゆっくりと目を閉じた。
 「目的は、達成できたの?」
 「……半分はな」
 「ねぇ、詩狼……前にもあったね、こんな風なの」
 「……ん?」
 「マリと私、今は逆になっちゃったけど」
 詩狼はあえて何も言わなかった。
 「……マリ、いつ目が覚めるのかな?」
 「解らん」
 詩狼は動く範囲でゆっくりと首を振る。
 「一週間か、一ヵ月後か……或いは一年後か。『癒魂の儀』の反動は、依女の素質其々だからな」
 「……そっか……そうだったね」
 彼の言葉にうっすらと目を開けたレイファだったが、またゆっくりと目を閉じて、詩狼に少し近づいた。
 「ねぇ、詩狼」
 「……なんだ?」
 「マリ……早く目覚めるといいね」
 「……そうだな」
 自分がこの夜で最後に発した言葉を、詩狼はゆっくりと肯定する。
 それを聞き届け、彼女は今度こそ深い眠りについた。
 口に出した事全てが、自身の心の真実であるとは断言できなかった。
 しかしそれを望んでいることはまた、事実でもあった。
 そして彼女が詩狼の腕の中で眠るのは、実に1年半ぶりのことでもあった。
 
 
 翌朝になって詩狼は慎一に状況を尋ねた。
 この晩は特にS病院を慌しくさせる出来事も無く、あの件を嗅ぎ付けた様子もないらしい。
 新聞記事でも慎一の尽力によって、小さな記事になっただけのようだった。
 「道理で、医師らしい青年とお前が、しきりに俺の部屋に様子を伺いに来ていたのだろう」
 と詩狼が彼に告げたら、
 「い、いや、まぁ……そ、そういうことだな」
 と慎一は、変にどもりながらその医師と顔を見合わせていた。
 詩狼にはそれがなぜだかよくは解っていないようだったが、それに対してレイファは、これからはしばらく静かに眠ったままであろうマリに寝衣を着せ終えると、まだ部屋の前に居たその2人組に舌を出しながらこう言ったらしい。
 「……ヤレヤレ。男ッテ、皆『すけベい』ネ」
this page: written by Tanba Rin.
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