あの女……「さくや」といったか?
十数年前、素人退魔師をやっていた親父とお袋……
そしてミコトの命を奪ったあいつに、動きがとても似ていた。
だいたい木の枝ひとふりで、あの公園の分厚いベンチをも真っ二つにするなどと……
いくら剣を扱う者で達人の域に達していたとしても、そこらで拾える腐ったか風にやられたかの枝だ。
それを用いてならば、人間に、あのような芸当は出来はしまい。
つまりは「枝」ではなく、他の何かによって切られたということか……
或いはやはり人外の者であるということか?
たしかに以前、師匠から聞いたことがある。
この世には、己が気をあたかも金剛の刃の如く振るえる人間も存在する、と。
だが俺の体についたあの深い裂傷は……
そして不甲斐なく確認するまでに気を失ってしまったが、あの女から受けた痛覚。
この俺がろくに触れることすら出来なかった、あの身のこなし……
あれはやはりそこらの暗殺者風情や「人間」などによるものではなかった。
ならば織姫は「外道」を……
もしくは式、操り人形をもつかえるということか?
だが不可解なことが残る。
仮にそうだとしても。
何故、あの「さくや」とやらは織姫の命令に準じようとはしない?
何故、それでいて奴は自由に存在していることが出来る?
かの「役小角」が式したとさえ言われている「鬼」ですら、法によって御されたのだぞ?
感覚的にはなるが、織姫真という小僧にはそのような力はなかったはず。
あいつが、式などでもないとしたなら……
あのバケモノの正体は、いったいなんだと言うのだ……
良く考えろ詩狼。
あの「さくや」とは一体、何奴だ?
詩狼が入院にして、3日が経った。
今日もまた、星診S病院の個室にはやや傾いた夕日が顔を出していた。
だがもはやそのベッドには既に患者だった本人の姿は無い。
代わりにその患者の妻である若年の女性…
つまりは藤丸詩狼の妻である真理、旧姓・白神真理がずっと横たわっているのであった。
「……シロウ」
自身の身元引受人である目の前の男を、先ほどからただじっとみつめている、レイファ。
先ほどから、といっても既に4、5時間は経過しているが、彼はマリの眠るベッドの傍らから離れようとはしない。
「少し休ンデ、私ガ看るカラ」
だいたい目の前に居る人間自体が、瀕死の重傷で病院に担ぎ込まれた男である。
しかしレイファの言葉に僅かに振り向きもしない藤丸詩狼本人は、ただ頭をうな垂れさせて目を閉じているだけだ。
「シロウ」
「……要らん」
何を言ってもその一言が返ってくる。逆を言えば、その一言以外は返ってこない。
だからレイファも同じ言葉以上の言葉を掛けられそうも無かったのである。
だがその頃詩狼は瞑想状態にあったのである、無理はない。
だがあの動き……やはり見覚えがある。
あいつがもし、親父達とミコトを殺した奴と同一だったとしたら……
そうだ、俺は限りなく追い求めていた「機会」を得ることになる。
或いは変化であったとして。
或いはその他であったとして、何かしらの理由に基づき織姫と同行しているとしたとしても。
それに連なる眷属が仇討ちの相手ということさえ判明すれば、次の行動にも移りやすかろう。
そうだ、あの「さくや」という奴の存在は俺にとっては未知なるものだ。
幾度となく対峙しようが、その経験すらも、プラスになってもマイナスになることはなかろう。
ならば俺の今なすべきことはひとつ……
しかし……
「マリ……」
あ……誰かの声が聞こえる……
でもみなさんはいったいどこに居るのでしょう?
とても真っ暗で、何も見えませんね。
でもここはきっと、何らかの形で存在し得る世界ではあるのでしょうね。
とても暗くて、とてもこわい世界だけれど。
自分だけはハッキリしているのに、何もなくて不安になります。
ああ、恐怖という感情を覚えさせる理由としては、これで十分なのかもしれませんね。
もしもこれが夢であったとしたら…
きっとここは自分の中にある抽象的な世界でしょうね。
たとえこれが現実だったとしても…
きっとここはどこかにある筈の具体的な世界。
どちらにせよ少なくとも自分の肉体と自分という精神はある。
そして藤丸真理という存在は失われてはいない筈です。
だからゆっくりと気持ちを落ちつけましょう。
この状況に置かれた自分に浮かんだ究極の解答を否定しましょう。
まだ藤丸真理の意識はここにある。
マリという人間はまだ存在するということを認識しなおせます。
暗闇の中、マリは両手を前に差し出しす。
古い記憶がふつと蘇って来た。
思念を強く抱け、全ての意識を集中させろ。
これは最愛の男から学んだ、護身法。
マリは慣れない仕草でくんだ印を、しっかりと自分の胸に際立たせる。
詩狼が、詩狼が見えてくる。
「詩狼さま……?」
だが果たしてよいのか、マリをこのままにしておいて。
あの「さくや」というのは問題はなさそうか?
が、本物の「奴」が現れたときは……
そしてもし俺が、しくじるような事があれば……
「詩狼さま……?」
誰がこいつを、マリを護る事が出来る?
「詩狼さま、どうぞ私などお気に為さらずに」
……マリ、マリか!?
詩狼は目を見開き、刹那に立ち上がった。
「ど、どシタ、シロウ?」
当然のようにレイファは驚く。
「起きたのか?」
「えッ?」
「マリの目が醒めたのかと聞いているッ!!」
レイファはいつにない詩狼の殺気を感じ、怯えながら首を横に振る。
「ああ……」
詩狼はマリの寝顔を見る。
「そうか……すまない」
「…………」
「……そうか」
彼は、詩狼はそう言ってまたベッドの傍らにある来客用の椅子に、力なく座り込む。
「俺の意識を見つけたか」
「……マリが、居ルの?」
「ああ。ここに、居るらしい」
詩狼は自分の頭を指差す。それを見たレイファは咄嗟に掛け寄る。
そして詩狼の体に手を回し、しっかりと抱き締めた。
「見えるか、レイファ?」
「……ウン」
そこには、いつものマリがいた。
「いらっしゃい」
和服を綺麗に着こなし、束ねた黒髪に朱色の櫛を輝かせ、しとやかに笑っている。
あいも変わらず詩狼のほうは、全身黒い服に身を包み仏頂面をしている。
だがここはもうマリにとっては暗闇ではない、意識が溶け合ったあたたかい世界。
「お前、いつの間にこんな芸が出来るようになった?」
「うふふ、いつでしょう?」
「まぁいい……その……すまんな」
マリは微笑む。
「詩狼さまが、助けてくださるのでしょう?」
「ダヨネ?」
「……『降ろし』に必要な物を揃えて来る……信じて待て」
突然マリがよろめく。
そろそろ意識を持つのが限界らしい。
気付かずに意識の接触をやっていたということに、詩狼は驚きつつも何も出来はしない。
「詩狼……さ…ま…」
「……なんだ」
「信じ………ま……」
自分が重傷を負ったせいで、そしてそれを癒した為に眠る女が。いま自分の意識の中に居る。
恐らくあのとき詩狼自身が受けていた傷が落ちつくくらいまでのあいだは、現代医学的には意識不明の状態のままであろう。
刻が訪れるまで、そっと咲く花のように、息を静めて眠りつづけるのだ。
だから詩狼は、またしばしの眠りにつくであろう妻を、意識の中で強く抱きしめた。
「ああ、ほんの少しの辛抱だ」
詩狼は目を開けて呟く。
目にはうっすらと輝くものがあったが、レイファは気付こうとしなかった。
そして彼は、妻の頬を流れたしずくをふき取るため、また立ち上がる。
彼も目が覚めてまだ半日、傷は塞がったとはいえ、まだ体が悲鳴を上げているには違いは無い筈だ。
レイファが咄嗟に立ち上がって詩狼を支える。
「すまん」
今度もまた相変わらず淡々とした口調だった。
がレイファの申し出を受けたのだ、詩狼が。
彼はそうして、病室から出ていこうとする。
「行くぞ、レイファ」
今日はレイファにとっても星診市滞在の最後の夕べの筈だった。
思い返せば、どうしてこうなったのだろう。
わずかばかりでもマリの養家で、明るい家庭というもの、家族団欒というものを久方ぶりに味わえたのに。
レイファは横たわったままのマリを見ると、下唇を少し噛む。
「敵討ち?」
「……そのうちな」
詩狼は微笑む。
15分ほど後、マリの義兄・慎一が姿を現した。
しかしそのときには、置手紙のそばで眠りつづける義妹の藤丸真理とその主治医以外、発見することは出来なかった。
そしてS病院のこの一室に残された手紙を最後に、藤丸詩狼はしばし姿を消す。
慎一が聞いた話では、レイファはなんでも氷浦駅前のパン屋で翌日の昼間、制服姿でカレーパンを食べている姿を発見されたらしい。
だが学校に居るべき時間だったため、問答無用で補導されたらしい。
それで慎一のもとにも連絡が来たのだが。 |