「まぁ、条件としては悪い話ではないと思うけど」
そういって、アミアは書類をスッ、っと前に差し出した。
詩狼とレイファが、病院から姿を消したのと、ほぼ同じ頃――2000年5月30日の、夕方。
家族連れがちらほらと姿を見せ始めたファミレスの一角で、真は、アミアと夕食を取っていた。
同行者は、いない。
昨日一日眠り込んだ後、真が最初にとった行動が、アミアに連絡をとることだった。
やらなければならないことはたくさんあるが、一昨日の夜、咲夜の口をついて出た、イギリスへの出向の話。
その詳細を握るアミアとの会見は、できれば、星診を出る前にやっておきたいことだった。
氷浦に戻れば、いくらも考える時間は残されていない。
あのようなことをしてしまった以上、JGBAがさらなる強硬手段に出ることは目に見えている。自分の身の振りを考えるのは、氷浦に帰ってからでは遅い。だからこそ、アミアとは今、会う必要がある――そう言ったのは咲夜だし、事情を聞いた義澄も同じ考えだった。
もちろん、真もその必要を感じた。
感じたからこそ、今、こうしてアミアと夕食を取っているのだ。
「……………」
無言で、真は契約の概要が記された書類を手に取った。
現在真が所属している桜坂総合警備とは、去年から来年までの3年間の契約をしているから、EGCへは桜坂総合警備からのレンタル移籍、という形になる。
契約期間は、6月から12月までの半年間。契約金は日本円にして約750万円、年俸は半年分の約1500万円――とてもではないが、一退魔士に払う額では、ない。葛城クラスの一流退魔士がJGBAと一年間の専属契約を結んだとしても、その年俸は900万円から1000万円が相場である。当然、その下のクラスや、まだ退魔士になったばかりの若手ともなれば、半分以下にまで、その値は下がる。まして、桜坂総合警備や船津八幡神社のような、ほぼ個人事務所のような形態を取っている所では、JGBAとの契約の半分も出ない場合がほとんどだ。
「……確かに、条件は悪くないですが。仮に一年間契約したとして、年俸は3000万円ですか? この値段は、私を高く買いすぎでは?」
「そうかしら」
「そうかしら、って……」
「……まぁ、確かに私もちょっと高いかな、とは思ったんだけどね。ただ、それだけのお金を払っても、EGCは真君にきてほしい……そう、思っているの。それは、わかるわね?」
「ええ……でも、それなら私ではなくて、葛城さん、という選択肢もあったと思いますが?」
私よりも経験は豊富ですし、と、真が付け加える。
「……あなたと彼とでは、置かれている立場が違うわ。あなたと違って、彼には部下もいるし、家族もいるでしょ?」
「はぁ………」
いまいち釈然としない表情のまま、真は再び紙面に目を戻す。
「……この、オプション権、というのは?」
「ああ……それは、EGCが残り1年間の契約を買い取ることができる、という付加条件よ。もちろん、EGCと桜坂、それにあなたの合意が必要だけど」
「……なるほど」
他にも、さまざまな契約条件が、その書類には記されていた。
例えば、イギリス滞在中はパートナーとしてアミアをつけること、短期ライセンスの発行、住居、車などを用意することなど――かなりの優遇措置が、取られていた。
「……この件、考えさせてもらえますか」
「もちろんよ。今ここで答えを出せ、とは言わないし、言えないわ。……ただ、覚えておいて。あなたに残されている時間は、もう、あまりないわ」
「ええ……わかっています」
「あまり、思わしくない状況のようだな」
桜坂総合警備のオフィスで、葛城は書類を手に、難しい表情でそう、呟いた。
「EGCとJGBAとの間では、すでに話がついているようだな」
「ええ――後は、ウチとEGCとの問題、ということのようですね」
ため息をついて、早島里美――桜坂総合警備の社長だ――が、うなずく。
「……それで、どうするんだい?」
尋ねた葛城に、里美は困ったような表情で答える。
「それが……彼――真君とウチとの契約上、真君がこの件に同意すれば、EGCへの移籍は何の問題もないんです」
「……何だって?」
「つまり……契約期間中であっても、移籍先と真君が同意すれば、完全移籍、もしくはレンタル移籍ができる――そういう内容になっているんです」
「それでは、あとは真君の決断次第、ということに?」
「ええ……」
「なるほど……道理で、連中がいきなり真君に接触するわけだ」
眉間にしわを寄せる、葛城。
「ただ……理由はどうあれ、今回のオファーには、前向きに考えたいと思っています。もちろん、真君が同意すれば、の話ですけど」
「……それは、どういう意味だい?」
「前に、聞いたことがあるんです。どうして、退魔士になったのか、って。確かに、真君のお父さん……孝さんは、いまや伝説にさえなっている人です。……ただ、だからといって、それは真君が退魔士になる理由にはならない。第一、ただ、退魔士になりたいのなら、それはまだ、後にしても問題はないはずです」
「……それは、俺も感じていた。彼はまだ、退魔士として生きていくには、早過ぎる」
「あたしには、退魔士というモノに、執着とでも言えるようなモノを抱いているのを、彼から感じました。だから、聞いたんです。何故、退魔士になったのか」
「……それで?」
「彼は……真君は、『自分が生きている証が欲しい』と。『自分を受け入れてくれるところが欲しい』と、そう、言ったんです」
「……自分が生きている証、か……」
うなずく、里美。
「けれど、今の日本で、真君がそれを見つけることができるかというと、とても……。それならば、まだ、真君を必要だとしているところに行かせたほうがいい……そう、思うんです。それが例え、その場しのぎにしかならなかったとしても」
「……………………」
考え込む、葛城。
「……そんなに難しい顔をしなくても、大丈夫でしょう」
傍らで話を聞いていた瀬名が、声をかける。
「俺は、そう思います」
「瀬名君……?」
「別に、何の根拠もありませんがね。ただ、俺はそう思うんです。心配要りませんよ、あいつなら」
「………それも、そう、だな」
うなずく、葛城。
「ただ、それでもなお、俺はイギリスには、やりたくない。できれば、真君が断ってくれればいい……そう、思っているよ」
「話は、ついたのか?」
緋月家に戻るなり尋ねた咲夜に、真はゆっくりと、首を振った。
「今日は、最初から話を聞くだけだと、決めていましたから」
「……そうか」
どこかほっとしたような表情で、咲夜はうなずく。
「それで、どうするつもりだ」
「……まだ、わかりません。アミアさんの言うとおり、今の日本には、私がいる場所はないかもしれない。ただ、だからといって、イギリスに行けば、それが解決するのかどうか……。時間がないというのは、わかっているのですが」
「……それだけわかっているのなら、いい。確かに考える時間は必要だが、それが長ければいい、というものでもないからな」
「………?」
首を傾げた真に、咲夜は微笑む。
「正しかろうと間違っていようと、お前はお前が信じた道を行けばいい。誰が見放そうと、私がお前を見守っていてやる」
「……見守る、だけですか?」
咲夜の言葉に、真が、悲しそうな笑みを浮かべる。
「……本当に、見守るだけなんですか?」
見つめる真の瞳が、いつもより少し、潤んだ輝きを見せる。
そんな真を、咲夜はぎゅぅ、と抱きしめ。
「………………………馬鹿。泣く奴が、どこにいる」
「……泣いてません……」
消え入りそうな声で答える、真。
「……泣いて、いいぞ」
「泣いてません…………泣きません。絶対」
「そう、か………」
かすかにため息をつく、咲夜。
「咲夜さん」
「何だ?」
「……しばらく、こうしていて、ください……」
「……わかった」
咲夜の腕に、力がこもる。
「……咲夜さん」
「……?」
「明日、ここを出ます」
消え入りそうな、真の声に。
咲夜は、うなずくことしか、できなかった。
それから、しばらく後。
真は、義澄と静に、明日の朝、星診を発つと、告げた。
「そうか、いくか……」
「ええ。いろいろと、ご迷惑をおかけしました」
「いや、迷惑などとは……なぁ、母さん?」
「ええ………」
振り向いた義澄に、静は何度もうなずく。
「澄馬君には、私から伝えます。いろいろ、二人で話すこともありますし」
「そうか……その方が、よかろう」
「それでは、準備もありますので」
席を立つ、真。
「ああ、真君」
「……?」
「事が落ち着いたら、また来なさい」
「…………はい」
うなずく、真。
「……必ず、来ます」 |