梅雨空幻燈
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22
 国家公務員の定時は、概ね午後の5時である。
 だが、この年にもなってまだ家庭の団欒というものが「妻と子供」…ではなく自宅の両親(温厚だが)だ。
 そんな国家公務員の高嶋慎一にとって、アフターファイブの時間というものは、いうなれば唯一の大人の遊びを嗜める時間でもある。
 「気にいらん…」
 そしてグイ、と彼はやや大きめのグラスに注がれたビールを飲み干していた。駅近くの居酒屋で。
 酒はそれほど強い方でもない。
 が、飲めないことはない。
 だがいまの慎一にとっては、酒を嗜むというものではない。
 どちらかというとその場の雰囲気で気を紛らわすのが目的であった。


 今回の詩狼とマリ…


 ひいての結末となったと思われる「甘木山・山頂の事件」に関して。
 じつは慎一も事件関係者ということもあり事情徴収を行われるはめになった。
 無論、それはかまわない。
 このままでは真実はどうあっても見えて来ぬ所にあるようだったし、彼自身はそれを知りたいと望んでいたからだ。
 だが、如何せん大事なことを忘れていた。
 過去、星診市警察署でのX-ファイルとして有名な数々の事件…
 それに関わっていると思われる戸籍なし・身元不明の男「藤丸詩狼(自称)」。
 ところが慎一は彼の身柄を確保するどころか、共に行動し尚且つ実家に匿っていたとみなされ、現在の事情徴収へと至っているのだ。
 それに加えて今度は収容されていた病院からの詩狼が「脱走」している(警察側からすれば、だが)。
 ということで彼を逃がしたのが慎一ではなかろうかという疑惑まで、署の同僚達からのぼってくる現在。
 しかしなにげに普段の素行がいい分、今回は親切にも捜査の第一線から外されてしまっただけで済んだのだが。


 まぁ此処まで来れば、その処置も当然と言えば当然だろう。
 むしろ軽すぎると言えば軽い。詩狼の存在からすれば。
 が、やはり納得しろと言われて納得できるものでもない。
 本人から言えば詩狼を匿うなどもっての他であるし、思えば詩狼には、出会ったころから散々な目に会わされている。
 むしろ、とっつかまえて留置場送りにしたいところだ。


 義理の妹であったにせよ…
 並々ならぬ情愛を注いできたマリを、いともあっさりと奪われ。
 その上、数年前には戸籍もない人間であるのに夫婦の祝言まであげている。
 その後は定職らしい定職にもつかずしばらく実家にいすわり、なにやら深夜になればかならずといっていいほど怪しい行動を繰り返し。
 あげくのはてに平気で朝帰りするわりに、マリの拵えた朝食だけはしっかりと食って、寝ていた。
 だいたいたまに生活費に、とマリに懐から差し出していた「インゴット」も碌に気に入らなかった。
 なにをどうやったら深夜に出掛けて朝帰りして、慎一のひと月分の労働報酬をいとも簡単に越えるくらいの金の延べ棒が懐から出せるのか。
 先物取引でも夜中にやっているとは思えぬが、それ以前に換金して来い。
 ではなく、星診市のどこでそのインゴットを手に入れているかすら不明瞭だ。
 あいつはいったいどうやってあんな…
 「キリがない」
 ビールをまたも飲み干す。店員に追加注文。好物の焼き鳥(塩)も忘れずに。
 ああ、そういえばこの前は実家の「松」の枝を躊躇なく切られてしまったなぁ。
 そして現在はといえば、詩狼と「何か」の甘木山乱闘事件の捜査から外されただけでなく、いらぬ嫌疑をかけられ普段の信用まで失墜しつつある(思っているほど失墜はしてないのだが)。
 「ああ、キリがないな」
 慎一はまたもビールを一気のみする。


 店員から観ればおおよそ慎一は国家警察機構の一員にもみえなければ、さしずめ女に振られて愚痴っている青年だった。
 だが普段から無口で冷静沈着なタイプの彼では、当り散らすと言うよりは静かにブツブツと呟くのが精一杯だ。
 …それがそれで何かしら店員の恐怖心を煽る姿ではあるのだが。
 普段の彼はフォーマルをビシっと着こなす風であるだけに、乱れたいまの彼の姿をみたら高嶋家の長男・慎一にとっては、まったく藤丸詩狼という男は、疫病神以外の何者でもない、と。
 やや私怨も含まれている気はしないでもないが。


 ただ、慎一が詩狼や今回のことについて、気に入らないのはもっと他にあった。
 実は詩狼が病院を去ったあと、慎一が彼の実家の書斎で発見した資料がいまも手元にある。


 呼称は「オリヒメ・ファイル」


 ついいましがたまで知人の情報屋というものに保管を依頼していたのだが。
 「これがバレたら、クビか左遷か…」
 その内容が、さらに慎一の不快感というよりか、焦燥感というか…
 何やら普遍的な事象からはとても考えられないほど、彼の心を掻き乱す内容であったのだ。


 気に入らない。
 謎をさらに深めていく詩狼の素行も。
 あの甘木山の事件の真相を調べられないのも。
 自分を疑う、同僚や上司も。
 そしてここでコソコソしている、なにやら好奇心旺盛な自分も。
 「…気にいらんよ」
 慎一は少し冷たい汗をかいて、呟いた。
 彼にとっては、もはや何もかも気に入らないことだった。


 同刻。
 学校から戻ってきた澄馬を待っていたのは、あまり多くはない荷物をまとめている真と咲夜の姿だった。
 「……何、やってんだよ」
 「見れば分かる」
 かすれ声で尋ねる澄馬に、咲夜は短く答える。
 「帰郷の準備だ」
 「帰郷って……。まだ、来たばっかりじゃねぇかよ」
 「そうだな。氷浦を出て、もうすぐ2週間か。そろそろ真の進級が危うくなる頃だ」
 「進級って……」
 「まぁ、私も高校生ですからね、一応は」
 苦笑いを浮かべる、真。
 「仕事がらみで休んだのなら、ある程度の融通は利きますけど。今回は、そうではありませんから」
 「……………」
 釈然としない。納得がいかない。
 そんな表情で見つめる澄馬に、真は軽く、ため息をつく。
 「咲夜さん、少し、いいですか?」
 「ああ。もう、あらかた片付いたからな」
 頷く咲夜に、真はゆっくりと、立ち上がる。
 「………少し、その辺を歩きましょうか」


 梅雨が、近い。
 日が沈んでもなお、幾分か蒸し暑さの残る空気は、そのことを如実に示していた。
 「……氷浦とは、だいぶ違いますね」
 「違うに、決まってるだろ。氷浦と違って、星診はもう、終わってんだ」
 「……終わって、いますか」
 「ああ」
 うつむいたまま、澄馬は短く頷く。
 「養成所にいる連中だって、誰も星診に残ろうなんて思ってるのはいないよ」
 苦笑いする、真。
 「星が見えます」
 「夜だから見えるに決まってんだろ」
 「夜でも見えないところはありますよ」
 立ち止まる、真。
 「氷浦では、ほとんど見えません。見えるのなら、それに越したことはないですよ」
 やや、あって。
 澄馬が、遠慮がちに声をかける。
 「なぁ………」
 「……何ですか?」
 「もう一度、聞くけどさ。お前、どうして退魔士になったんだ?」
 「………………」
 澄馬の言葉に、天を仰いでいた真が、軽く、ため息をつく。
 「何だよ」
 「……澄馬君は、どうして退魔士になろうと思っているんですか?」
 「こないだ、言っただろ」
 「……かっこいいから、ですか?」
 頷く、澄馬。
 「それは、一昨日のような事があっても変わらないですか?」
 「それは………」
 変わらない――そう答えようとして、澄馬は口ごもった。
 じっとこちらを見つめる、真。
 澄んだ瞳、というには、あまりにも冷ややかすぎる。こちらの心の奥底までを見透かされそうなその瞳に、澄馬は目をそらし、うつむく。
 正直な所――昨日の一件の後、澄馬は大きな不安を抱いていた。
 退魔士が、退魔士を襲撃する。
 もちろん、そう滅多にある事ではないものの。教習所では決して語られることのない現実に直面して、不安を抱かないわけがない。
 だが――その不安と、退魔士への憧れは、不思議とリンクすることはなく。
 「変わらない……と、思う」
 ためらいがちに顔を上げると、澄馬は搾り出すように、そう答える。
 その瞬間。
 澄馬には、真が、一瞬だけではあるが、微笑んだように思えた。
 「……少し、昔の話をしましょうか」
 そう言うと、真はぽつぽつと、自分がまだ、幼かった頃のことを話し始めた。


 幼くして両親を無くし、叔母夫婦の手で育てられた真ではあるが、養父母の不安に反して、どこにでもいるような、いわゆる「普通の子」として育っていた。性格は、どちらかといえば、おとなしいほう。同い年の従姉妹・澪とケンカになっても、澪が圧倒的な勝利を収める事が多かったという。
 だが。
 その一方で、今の真につながる「普通ではない」一面も、すでにこの頃から覗かせていた。
 「見えていたんですよ、その頃から」
 異形を見る能力――退魔士として、最も基本的、且つ重要な能力が、すでにその頃には開花していたのだ。
 叔母夫婦の家――遠野家にいる分には、まだ、なんとかなった。
 叔母や5つ年の離れた従姉・深雪には見えていたし、澪にしても、見えないまでもその気配を感じることは出来ていた。自身にはその手の能力はまったくない叔父にしても、家族が家族であるから、真がそういう能力を持っていたとしても、何の分け隔てもなく受け入れてくれたわけだ。
 だが。
 一歩、遠野家の外に出ると、そうはいかない。
 実家が地元では名の知れた糺宮神社であること、両親を亡くして、親類の家に預けられていること、そして何より、常人には見えないモノが見えるということ――それらは、幼い真にとっては、すべてマイナスに働いた。
 「幼稚園の頃から、手ひどいいじめを受けましてね。その度に澪がかばってくれたんですが。……それが、どうしようもなく悔しかったんですよ」
 「……そっか」
 「その頃からですかね。父のようになりたい、と思ったのは。……正直な話、思い出って、そんなにないんですよ。知っての通り、退魔士という仕事は不規則な生活を強いられます。だから、遊んでもらった記憶も、ほとんどない。……でも」
 「でも?」
 「かっこいいと、思っていたんでしょうね。きっと」
 「…………」
 「でも、実際にはいじめられるわけですよ。だから、余計に父のようになりたいと思ったんです。父のようになれば、いじめられることもない。だから、父と同じ仕事につきたい――実際、同じ仕事についたらついたで、ああいう風になってしまったんですが」
 ふぅ、と、真は大きくため息をつく。
 「……なぁ」
 「何ですか?」
 「後悔、してないのか? 退魔士になんか、ならなきゃよかった、って」
 「……そうですね。これでよかったんだろうか、と思うことはあります。でも、ならなければよかった、とは思っていません。まだ、結論を出すには早いと思っていますけど」
 「……そっか。そうだよな」
 何度も頷く、澄馬。
 「さて、そろそろ戻りましょうか」
 「……うん」


 翌日、早朝。
 車のトランクに荷物を積み終えた真は、祖父母、そして澄馬から見送りを受けていた。
 「道中、気をつけてな」
 「ええ。いろいろと、ご迷惑をおかけしました」
 すこしはにかんだ笑みを浮かべる真に、義澄は目を細める。
 「真……あの、さ」
 「……?」
 「俺、絶対に、退魔士になるよ。そう、決めた」
 「……がんばって、くださいね」
 頷く、澄馬。
 「それでは、これで……」
 振り向きかけた真に、静が、封筒を差し出す。
 「……これは?」
 「美春の写真です。向こうには、ほとんど残っていないと聞いたから……」
 「……ありがとう、ございます」
 封筒を受け取り、深々と頭を下げる、真。
 「落ち着いたら、また着ます」
 「ええ。いつでも、いらっしゃい」
 涙ぐむ、静。
 しばし、その顔を見つめ、やがて、振り返り。
 真は、車の運転席に身を滑り込ませた。
 「本当に、ありがとうございました!」
 エンジンをかけ、窓を開けて一声、叫ぶと、真は車を発進させる。
 一路、氷浦へ。
this page: written by Tanba Rin, Hikawa Ryou.
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