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 一九八七年、八月七日。
 今を盛りと鳴き誇る蝉の声の中、葛城は時折汗を拭いながら、船津八幡神社の境内を掃除していた。
 例年通りの、猛暑である。
 「……今日も、暑いな」
 照りつける日差しが、厳しい。
 由来を遠く戦国時代にまでさかのぼる神社の家に生まれた彼は、こうして境内を掃き掃除するのが、物心ついたときからの日課であった。
 そして、もう一人――彼と同じく、境内を掃いている者がいた。
 「早苗さん、暑いですから、休んでいていいですよ」
 緋袴に白い小袖――いわゆる、「巫女装束」に身を包み、額に汗を浮かせている女性に、葛城が声をかける。
 手を止めて、彼女は「でも……」と、戸惑った表情を見せた。
 彼女の名は、松本早苗。アルバイトとしてここで働いている、学生である。
 「……顔色が悪いです。無理は、しないでくださいね」
 連日の猛暑の中、日中の掃き掃除は体力の消耗が激しい。かれこれ二十年近く、くる日もくる日も掃き掃除を続けてきた葛城と同じように仕事をしようというのが、彼女にとってはそもそも無理な話であった。
 しばらく迷って、早苗は箒と塵取を持って、社務所へと引き上げる。
 軽く会釈をした彼女に、手をひらひらとふって、葛城は応える。
 やや、あって。
 「……ふぅん。あれが、お前の想い人か」
 突然後ろから声をかけられて、葛城は慌てて振り返った。
 「なかなか美人じゃないか? お前も、隅に置けたもんじゃないよなぁ」
 見ると、いつの間に現れたのか、三十代も半ばに差し掛かったと思しき男が一人、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。
 「孝さん……いつからそこに?」
 「つい、今しがた来たところさ」
 そう答えて、男は背伸びしながら、早苗が歩いていった方向を見やる。
 「なるほどねぇ。最近様子がおかしいと思ったら、ちゃっかり女を作ってた、ってわけか」
 「なっ、彼女はそんなんじゃありませんよ! アルバイトとして仕事を手伝ってもらってるだけです!」
 うんうん、と一人、納得したようにうなずく男に、葛城はムキになって否定する。
 「照れるなって。俺だって、お前と同じ頃には美春に手をつけていたぞ」
 「孝さんと一緒にしないでください」
 「ほほぅ。この俺にそういった口を利くようになるとは……これはまた、ずいぶんと偉くなったものじゃないか、葛城君?」
 笑いながら、孝は拳を握って見せる。顔は笑っていても、目が笑っていない。
 「ったくもう……旗色が悪くなるとすぐにこれだ」
 「何か言ったかな?」
 「いいえ、何も!」
 「そうか? 何か聞こえたような気がするが」
 「だから、何も言ってませんってば! それより、どうしたんですか? 仕事ですか」
 「ふん……この俺がお前のところに来るってことは、それしかあるまい。それとも何か? いい女でも紹介してほしかったか」
 尋ねられて、孝は真顔になって答える。
 「……それで、今回の依頼は?」
 あえて最後の問いを聞き流して、葛城は尋ねる。彼もまた、いつのまにか真顔になっている。
 「JGBAだ」
 「それは本当に依頼ですか?」
 JGBA、と聞いて、葛城は怪訝な表情を見せる。
 「依頼じゃぁない。正確には、JGBA主導の封印作戦だな」
 「JGBAの主導……それはまた、ずいぶんと大掛かりですね」
 「そうだな。ウチの退魔士も全員に動員がかかった。ここ最近騒ぎになっている城北の櫓をやるらしい」
 「……初耳です。それほど大掛かりなことをやるんだったら、事前に全体で打ち合わせをするのが筋ではないですか?」
 「打ち合わせならやったさ」
 「いつですか?」
 「お前が夏風邪でぶっ倒れてたときにな」
 「……そういうことですか」
 「そういうことさ。じゃぁ、伝えたからな。夕方、もう一度来る」
 「ええ、わかりました」
 「ああ、こいつは今度の作戦概要だ。大掛かりな作戦だからな。きっちり頭に叩き込んどいてくれよ」
 そういうと、孝は持っていた書類の束を投げてよこす。
 「こんなにあるんですか?」
 受け取った書類を見て、葛城が恨めしそうに孝を見やる。
 「夏風邪なんぞひいてたお前が悪い」
 「少しくらい説明してくれたっていいじゃないですか」
 「そうも言ってられん」
 「どうして?」
 「………真が待ってるんだとさ」
 照れくさそうな顔で、孝が答える。
 「真君が? 家にいるんじゃないんですか?」
 「ああ。少しばかり用事があって、美沙の所に預けてきたからな。……まぁ、大方、澪にはたかれでもしてるんだろう」
 「……わかりました。それじゃぁ、早く行ってあげてください」
 「悪いな」
 「いいですよ。真君に泣かれて、俺のせいにでもされたら困ります」
 「……こいつめ」
 ニヤリ、と笑って、孝は境内を後にする。
 「ふぅ……大変なことになりそうだな」
 一人残された葛城は、書類の束を片手に、大きくため息をついた。


 退魔士――あるいは、それと種を同じくする職業が、いったい何時の頃から存在していたのか、葛城は知らない。
 知ろうとも思わないし、また、知ったとしても、別に何か得になるわけでもない。むしろ、人の業の深さにあきれるだけだと、葛城は思っている。
 文字通り、退魔士とは魔を退治する人間の事をさすのだが、その数は年々増えてきているようであった。
 魔――それは主に、人間自身の怨念や、行き過ぎた開発などによって生じた様々な歪みから生じるものだ。人間の経済活動がこれまでにない規模で拡大し続ける今、魔と呼ぶべきものの影響もまた、これまでに類をみないほどに強まっている。人が動けば動くほど、霊害の数も多くなる。終わりの見えないいたちごっこに徒労感を感じることも、少なくない。
 今回の仕事もまた、そういった歪みの中から生じたものだ。
 城北の櫓――氷浦城の北にある、江戸時代中期に建造された物見櫓で、このところ奇妙な事件が相次いでいることは、葛城も耳にしていた。
 最初は首のない侍の霊が出るなどという、他愛のない噂にしか過ぎなかったが、やがてそれは拷問にかけられて死んだ囚人の霊が大挙して現れるとか、あるいは飢饉で餓死した農民の霊が食物を求めてくるなどといった大規模なものになり、遂にはそういった霊に驚いて車の運転を誤り、電柱に衝突して命を落とすという事件までがおきた。さすがに市当局もこれを見過ごすわけには行かず、非公式ながら、退魔士の統括組織であるJGBA――日本退魔士協会に調査の依頼をしてきた、というのが、今回の仕事の前提になっている。
 「そろそろ、かな」
 壁の時計を見て、葛城は日本刀を手に、鳥居の前まで出る。夕方に、船津八幡神社の鳥居の前――それが、「定刻通り」の待ち合わせであった。
 無銘で、その上、刃引の代物である。それでも、下手な拳銃よりはよほど役に立った。もとより、斬るのは人ではないから、刃がついていようがついていまいが、あまり関係はない。
 「あれ、一人ですか?」
 鳥居の前に停まっていた車を覗き込んで、葛城は孝に尋ねた。
 いつもなら、孝の車の助手席には、必ず若い女性が乗っていた。そのまま現場に出て、別に何をするというわけでもなく、ただ、車の助手席から孝を見つめているだけの女性だった。孝が「姫」と呼んでいるのを知っているだけで、その他のことは、葛城は一切、何も知らない。
 「珍しいですね。孝さんが一人で来るというのも」
 「ああ、姫のことか」
 眉根を寄せた、難しそうな表情で、孝は答えた。
 「出る間際になって、『あれに手を出すのはまだ早い』とか何とか言い出してな」
 「まだ早い……?」
 「それで、この期に及んで『絶対に行くな』と言うんだ。結局言い争いになってな。『お前がどうしても行くと言うのなら、私は行かない。一人で行くがいい』と言い捨てて、どこかに行っちまった」
 「………大丈夫なんですか?」
 「今更何言ってんだ」
 相変わらず眉間にしわを寄せて、孝は答える。
 「確かに、これまでにないやばい仕事だっていうことは、俺にもわかるさ。だが、だからといって職場を放棄するわけにも行くまい?」
 何時になく、緊張した声。
 孝もまた、今回の仕事になにがしかの違和感を覚えているのだろう。
 だが――
 「行かにゃならんさ。俺が退魔士である以上は、な」
 そう言って、孝は車の運転席に、身を滑り込ませた。


 耳につけた無線機のレシーバーが、ひっきりなしに撤退命令を叫んでいた。
 「孝さん、撤退命令が出てます! ここは引きましょう!」
 「バカ言え! ここで後ろを見せたら冗談抜きで皆殺しだ! それだけは絶対に避けなきゃならん!」
 退魔士の葛城でさえ、背筋が凍ってしまうかのようなおぞましい化け物が、目の前に迫っていた。
 すでに、一緒に行動していた退魔士たちのほとんどはその場から離脱していた。
 残っているのは、孝と葛城、そして、傷を負って動きが鈍った者。
 いずれにしても、絶体絶命の事態に陥っているのは、間違いのないことだった。
 「で、でも!」
 「デモもストライキもあるか!」
 「この期に及んで何言ってるんです!」
 「馬鹿野郎! 俺はいたって真面目で正気だ! とっとと逃げろ!」
 じりじりと迫ってくる化け物を前に、孝は改めて日本刀を構えなおす。
 拳銃の弾は、とっくの昔に撃ち尽くしていた。
 多めに持ってきていたはずの呪符も、残っているのはわずかに二枚。それも、気休めの障壁を作るだけで、この状況では決定打にはならない。
 「やっぱ、やるしかねぇか……こんなことなら、もう少し真面目に剣の修行をやっときゃよかったぜ」
 一瞬、一人息子の顔が浮かんで、ニィ、と、孝は笑った。
 「……こいつはあの世で美春にどやされるだろうな、きっと」
 顔をしかめながら、孝は残った呪符を取り出す。
 「すまねぇな、真……俺は、父親らしいこと、一つもできそうにねぇや」
 呟くと、呪符を二枚、同時に化け物に向かって投げつける。
 そして――
 「たぁりゃぁぁぁぁぁッ!」
 薄紙のような障壁が周りを覆った瞬間、傍らにいた葛城を突き飛ばし、孝は、跳んだ。


 「……葛城」
 助手席にいる孝が、目一杯にアクセルを踏んで車を飛ばしている葛城に声をかけた。
 「何です?」
 「今更言うのもなんだが、とんだことになっちまったな」
 「ええ」
 短くうなずいて、葛城はチラリ、と、助手席のほうに目をやる。
 シートを倒してその身を横たえた孝は、また一つ、苦しそうな呻き声をあげた。
 「大丈夫ですか?」
 「大丈夫に見えるか?」
 心配そうに声をかけた葛城に、孝は薄く笑いながら答える。
 「いえ」
 正直に、葛城は答えた。
 「なら、聞くな」
 孝もまた、短く返した。
 「もうすぐ、着きます」
 無造作にステアリングをきりながら、声をかける。
 「そうか」
 短くうなずいて、彼は何やら思案顔で天井を見つめる。
 「葛城」
 ややあって、孝は再び声をかけた。
 「何です?」
 「俺が死んでも――JGBAには文句をいうんじゃないぞ」
 「何を言ってるんです!」
 孝の言葉に、葛城は思わず言葉を荒げた。
 「あの場にJGBAが撤退せずに残っていれば、あんなことには……」
 「なってたね。ああなったら最後、手がつけられん。命あっての物だねさ。俺だって同じ立場だったら逃げてるだろうよ。連中を責めたってどうしようもない」
 「しかし……」
 「お前を突き飛ばして、その目の前で、3人やられた。いずれも、即死だ。死体なんて残っちゃいなかった。あの時俺が突き飛ばしてなけりゃ、お前も今ごろはそいつらと一緒に鬼籍に入ってる」
 「………」
 「死んでしまったら雪辱もできやしないさ」
 「……深手を負って死にかけてるあなたに言われてもピンと来ませんね」
 憮然とした表情で、葛城が毒づく。
 「バカ。死にかけてるからこそ言えるんだろ、こういうコトは」
 力なく、孝が笑う。
 笑った拍子に、激しく咳き込む。
 咳き込んだ口から、激しく血を噴いた。
 「孝さん!」
 「今ごろ心配したって遅いんだよ」
 自分の血でむせかえりながら、孝はなおも悪態をつく。
 「あんたって人は……」
 半ば怒ったような口調で、葛城はステアリングを切る。
 交差点を曲がった先、ヘッドライトの光の中に見慣れた鳥居が浮かび上がる。
 「着きますよ」
 「そうか」
 目を閉じたまま、ポツリ、と、孝は答えた。
 「いいか葛城」
 「はい?」
 「その辺に跋扈してる悪霊を封印し、或いは滅ぼすのは三流のやることだ。退魔士とはただ、魔を退け、封印するだけが能じゃないはずだ」
 「………」
 「その退魔士のお前が、ひねくれ者が1人死んだくらいで怒りに身を任せてしまってたら、おさまるものもおさまらなくなる」
 「………孝、さん?」
 「だから、いいか。絶対にJGBAに怒鳴り込んだりするんじゃないぞ。……それから」
 「それから?」
 「真を……頼んだ」
 「……わかりました」


 家の前で、けたたましい音を立てて車が止まったのを、真は感じた。
 「………なんだろう?」
 布団の上にうつぶせになって本を読んでいた真が、小首をかしげる。
 やがて、玄関の引き戸が荒々しく開く音が聞こえた。
 次いで、幾人かの人間が、廊下を走っていく音が聞こえる。
 やや、あって。
 「真君」
 と、神職の瀬田が、ものすごく陰気な表情でふすまの隙間から顔をのぞかせた。
 「真君、おじいちゃんが呼んでる。一緒に来てくれるかな?」
 「おじいちゃんが?」
 まだあどけない真の顔に、怯えと不安の色が、ありありと浮かぶ。
 うなずいた瀬田に、真は仕方なくゆっくりと身を起こした。
 「瀬田さん、遅くまで本を読んでたこと、おじいちゃんに言っちゃやだよ?」
 無言で手を引いていく瀬田に、真は消え入りそうな声で話し掛ける。
 本が好きな真は、布団の中に入っても、脇にともされた明かりで本を読みつづけ、幾度となく祖父の司にこっぴどくしかられている。いつもなら、瀬田は優しく微笑んで、何がしかの言葉をかけてくれた。
 が。
 今日に限って、瀬田は無言のまま、うなずきもしない。
 ただただ、暗い廊下を、真の小さな手を引いて歩いていくだけだ。
 「………」
 子供心に、真は何かが起こったことを感じた。それも、とてもよくない何かが、起こったのだ。
 やがて。
 「真ちゃんッ!」
 居間に入るなり、伯母の美沙が、悲痛な叫び声をあげた。
 「お、伯母さん……?」
 ここまで手を引いてきた瀬田の手を離れ、真は美沙にギュッ、と抱き締められる。
 そして――。
 真は、見た。
 布団に横たえられ、すでに虫の息になっていた父親と、それを陰鬱な表情で見守っている、司。伯母。神職。そして、ボロボロになった服を着た、若い男――葛城。
 「―――胸に、受けてます……」
 葛城の声に、司がゆっくりとうなずく。
 目が合った。
 司の瞳は、悲しみに満ち溢れていた。
 そして。
 それが何を意味していたのか、彼は、ゆっくりと、うなずく。
 うなずいて、司は、目を伏せた。
 それにつられて、真が視線を落とした先には。
 既に息のない、父親の姿があった。
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