「はぁ…………」
深夜。
仕事を終えて家に戻ってきた真は、自室で深い、ため息をついた。
「疲れた……」
ポツリと呟いて、真はふと、時計に目をやった。
すでに、2時を回っている。
道理で、疲れているはずだ――畳の上に寝転がって、真は妙に、納得した。
土曜日で学校が早く終わったため、会社に顔を出したのが昼の2時。それから5時まで電話番をして、その後は澪と氷浦駅前で待ち合わせ、のはずだった。
が。
JGBAから緊急招集がかかったのが、4時半。
家に帰っていた他の社員に緊急招集をかけ、澪に電話で平謝りをして、JGBAでのブリーフィングにぎりぎり間に合ったのが6時過ぎ。それから装備の確認をして、社外の退魔士と役割分担の確認をして、現場に向かって――全てが終わったのが、午前1時過ぎ。それから会社に戻っていろいろな事務手続きをして、家に帰ってきたのがついさっき、ということになる。
よくあることとはいえ、イレギュラーな出動は、本当に疲れる。
「……………」
じっと天井を見詰める、真。
眠いことは眠い。だが、このまま眠ってしまうのは、何か、はばかられるように感じた。
脳裏には、未だに、先ほどまで対峙していた異形の姿が焼きついている。
怖かったのだ。
目を閉じれば、その異形の姿が、瞼の裏側に浮かび上がってくるような――そんな、気がしたから。
「……つらいか?」
不意に声がして、飛び起きる。
「つらいのなら、立ち止まればいい。横道にそれてもいい。……それがお前の選んだ道なら、な」
部屋の、片隅。
唯一、何も置かれていない角を、真は見つめる。
若い女性の姿が、浮かび上がる。
真は微かに、笑みを漏らす。
「いいえ」
「そうか?」
首を振った真に、女は首をかしげる。
「つらいけれど、苦にはなりません……酷く、矛盾しているような気がしますが」
答えた真に、女は軽く、笑みをつくった。
それはまるで、無茶を言う子供に、母親が仕方なしに向けるような笑みでもあり。
同時に、まるで、真を馬鹿にしたような――そんな、笑みでもあった。
「ただ……迷っているのは、確かです」
「……そうか」
ゆっくりと首を振る、女。
「奴も、お前と同じように迷っていた。よく、似ている」
「……似ている?」
「ああ。やはり、血は、争えん」
寂しそうに、女は笑みを浮かべる。
「迷うことそのものは、別に悪いことではない。ただ……迷いすぎて、しくじるなよ」
一言、そう言うと。
頷く真の前で、女は、姿を消した。
「…………………」
ゆっくりと目を閉じて、真は二度、三度、軽く首を振った。
真がこの仕事についてから、ちょうど1年になる。
歪んでいる。
そう、真は思った。
何が、という言い方は出来ない。
退魔士として出動するたびに感じる、歪み。
街が。
人が。
空気が。
何もかもが、歪んでいるように思えた。
その歪みの原因を、真はまだ、知らない。
しばらくそのままでいて、真はふと、思い出したように机の引き出しを開けた。
ペン。
電卓。
鉛筆。
キーホルダー。
雑多なモノには目もくれずに、真は、一通の封筒を取り出す。
宛名は、ない。
裏には、ただ一文字、「孝」と書かれているのみだ。
中身は、一枚の便箋。
今からちょうど1年前、真が退魔士ライセンスを交付されたときに、祖父の司から渡されたものだ。
ほとんど記憶のない、父・孝からの手紙。
それには、あまり綺麗とは言えない字で、真への思いが、綴られている。
幾度となく、読んだ。
暗誦だって出来る。
それでも、読むのだ。
真へ。
この手紙がいつ君の手に渡るのか、そして、俺が俺自身の手で君の手に渡すことが出来るのかは、なにもわからな
い。ひょっとしたら、その時、俺はもうこの世にいないのかもしれない。あるいは運良く、そしてしぶとく生き残っているか
もしれない。所詮、退魔士とはそんなものなんだと、俺は思う。
もちろん、退魔士になったことを後悔はしていない。
迷いがある。
奇妙な政治がある。
軋轢がある。
しがらみがある。
混沌がある。
でも、
やりがいがある。
希望がある。
他にはない使命感がある。
そして何より、
君がいる。
退魔士にならなければ、俺は君に会うことはなかったろう。
真。
俺は、君に君なりの真実を見つけてもらいたくて、この名を贈った。
世の中には、たった一つの真実がある。だがそれは、同時にいくつもの側面がある。
ある者にとっては理にかなった、素晴らしい答えであるだろうし、またある者にとっては、この上なく不条理なモノであ
るかもしれない。何の関心を示さない者だって、いるかもしれない。もちろん、君なりの受け止め方だってあるだろう。
俺は、その「君なりの受け止め方」を大切にして欲しいと思う。
そうでなければ、退魔士なんてやる意味がない。
退魔士には、普通の人々にはまったく見えない「何か」が見える。
その「何か」を目の当たりにしてもなお揺ぎ無い、君なりの真実を見つけて欲しい。
健闘を祈る。
昭和58年 11月12日 君の母親がいなくなった日に
織姫 孝
遠くで、携帯の呼び出し音が聞こえた。
次第に近づいてくる、音。
それは、やがて耳元へと、やってくる。
「起きろ!」
そう、誰かに言われたような気がした。
飛び起きた。
時計を見る。
5時。
いつのまにか、床の上で眠っていたらしい。
思いのほか冷え込んだ部屋の空気に、身体が震える。
携帯のディスプレイに点滅しているのは、会社の番号だ。
何かが、起きた。
そう、直感して、真は慌てて携帯を耳にあてる。
「はい、織姫です」
「休んでたところ、ゴメン! 緊急招集! 詳しくは会社で!!」
電話の相手が、一方的に言いつける。
ガチャン、という派手な音を立てて切れた電話に、真は苦笑いを浮かべた。
脱ぎ捨てていた上着を羽織り、真は床に落ちていた便箋を、封筒の中へと収める。
「………行ってきます」
一言囁いて机の引き出しにしまいこむと、真は車のキーを取った。
それから、あまり間をおかず。
織姫家のガレージから、一台の車が明け方の街へと走り出た。
ステアを握る真の表情には、迷いも、疲れも見えない。
つらいけれど、苦にはならない。
それは、ほとんど思い出のない父親に、少しでも近づけるような――そんな気が、するから。
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