辛亥革命史料3
辛亥革命史料3・蔡鍔「雲南光復紀要」(1913)部分。今後順次追加

目次
 光復起源篇(pp.528-532)
 建設篇 1−3(pp.533-569)
 yi南篇 (pp.569-572)
 援蜀篇 (pp.573-607)
 援黔篇 (pp.607-613)
 征西篇 (pp.614-634)→この一編が、チベット軍迎撃の記録

雲南光復紀要

光復起源篇


 四方の野蛮人(四夷)が中国を侵すことはいつの時代にもあったが、しかし数年もしくは十数年で破滅し、中夏に入って統治者となったものは無かった。崖山の役で宋の陸秀夫が衛王テンを背負って海に飛び込んでから、元の世祖が帝位について華夏を奄有した。これが黄帝の子孫が国を失った第一回目(「第一次失国」)である。李自成が京師を陥落させ、壮烈帝が煤山に殉死し、清の世祖が入って国祚を継いだのは、黄帝の子孫が国を失った第二回目(「第二次失国」)である。この二王朝が滅ぶ際、士大夫は節操を固持して屈服せず、殺されて累々とよこたわった。とりわけ明が滅ぶ際に国に殉じたさまは最も酷く悲惨なのである。ああ、[野蛮人と「黄帝の子孫」という]種族の区分は、本質的にこのようなものなのである。
[本日(99.05.03)はここまで。以下、明朝の残党のうち最も後まで抵抗した永歴帝の一党が雲南を舞台として1660年に壊滅するまでの経緯についての記述が続く。反満を唱える共和主義者たちは、この年を完全な祖国滅亡の起点と位置づけ、1902年、亡命先の日本・横浜で 「支那亡国二百四十二年紀念会」 を開催しようとした。]

 ※ 崖山の役 (1279) 1276年に南宋の首都杭州が無血開城した後、皇子を擁して抵抗をつづけていた南宋の残党が最終的に壊滅した。
 ※ 壮烈帝  毅宗(1610-44)。明朝最後の皇帝。李自成の反乱軍が北京を攻略した際に自殺。清朝の世祖(順治帝)は李自成軍を破って北京に入城し、李自成 軍、明朝残党を破りながら中国への支配を拡大した。

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