12月の日 記

2003年12月09日
今日は朝からしんどかったのでと言うよりは、頭痛、発熱のため学校休んじゃいました。と言っても体育(ハンドボール)と情報基礎演習だけだったの「まーいいか」と言う気も少しはありましたが・・・・・。もうすぐ冬休みですね。そしてもうすぐ新年ですね。特にそれがどうしたと言うこともないですが、ではでは最近長い文ばっかで読んでいる人も大変だろうから今日はこのくらいにしときます。
2003年12月08日
日記の内容が難しいという批判をいただきました。けれど僕は、それを変える気はありません。申し訳ありません。なぜなら、僕たちはもっと真剣にこういうの問題について考え議論すべきではないでしょうか。「愛国心教育」に関して政府(文科省)は学習指導要綱に盛り込むみたいな事を言ってましたね。ということは、僕たちはそのような教育は受けていない。また戦争という歴史もある一点のみ(つまりは教科書)の内容で語られ、それ以上、何もない。僕は、物事はあらゆる観点から観察しないといけないと思います。極端な例で言えば、「A君とB君とで喧嘩をして理由をA君からしか聞かずB君が何も悪くないのに罰せられ、喧嘩の一部始終を見ていたC君も排除される」みたいな感じではないでしょうか。(ちょっと違うような気もするけど・・・・・・・)とりあえず、サッカーばっかりやてないで、(for紀ノ川サッカークラブ)もっと真剣に考える必要があるのではないでしょうか。
2003年12月07日
昨日、予告したとおり今日は国家の捉えかたについて僕の持論を述べさせてもらいます。
まず、国家とは、当たり前ではあるけれど国民によって形成される一つの集団である。それは、原則として独立しているべきものである。次に国家を形成する国民はどうあるべきか。日本で言えばそれは我々、日本人である。けれど我々日本人は国家というものを考えたことがあるだろうか。過去においては聖徳太子が「日出づる処の天子、日没する処の天子に致す」中国の皇帝に文を出した。これに対し隋朝皇帝 煬帝が怒った理由としてしよく、「日出づる処」=「倭国(日本)」、「日没する処」=「隋朝」というふうに言われているが、これは誤りで、実はどちらともが「天子(皇帝を意味する)」であるからだ。すなわち「国家」として「対等」に付き合うようにという意が含まれていたからである。当時、中国は冊封体制をとっており中国が頂点に立ち他の国はその属国であるというものであった。少し話し外れたが、この時代ですら「日本」という国家認識があった。が、しかし、二次大戦後、GHQ占領統治下の日本では、このような考えがすべて取り除かれてしまったのだ。二次大戦時の天皇神格化の否定とともに行われたのである。これは日本にとって大きな痛手となる。なぜなら、やはりその土地に住む以上、その土地を愛し、その伝統や文化またその地をを守り続けねばならないからだと思う。そのときやはりその地を大切に思うことができなければそう簡単にできることではないと思う。なんだか、すごい内容を省略して書いているので変な文章であるし最後まで述べたわけでもないがお許し願いたい。再度、何回かに分けてこれに関して、日記を書きたいと思う。(もしくは特集を組みます。)
2003年12月06日
大使(参事官より昇進)と井ノ上一等書記官(三等書記官より昇進)の葬儀が今日午前、東京・南青山の青山葬儀所で両家と外務省の合同葬として営まれた。外務省葬は過去には日本史でもよく知られる陸奥宗光氏ら要人を含め、5回しか前例がなく、このお二人の死がどれほどのものかをものがたっていると思う。小泉首相は「お二人ともご家族の誇りであると同時に、日本国、日本国民の誇りでもあります。遺志を受け継ぎイラク復興に取り組んでいく」と哀悼の意を表した。
真、その通りである。奥大使のイラク便りを読まれた方がどれほどいるかはわかりませんが、また井ノ上書記官が小学5年生のときに書かれた日記が新聞に掲載されていましたがそれを読まれた方もどれほどおられるかわかりませんが、このお二人がどれほどイラク(世界)の平和を願っていたのかがよくわかります。またお二人はCPA(連合軍暫定当局)において日本の顔として米軍やイラクの市民の間でどれほどの信頼を得ていたか、書面で読んだだけですがひしひしと伝わってきました。僕は本当に、お二人のことを誇りに思います。そして、このような方が日本におられたことを知らずにいた僕を恥ずかしく思います。といっても仕方のないことですが・・・・。でも、僕はこのお二人に到底及ぶ事はありませんが、考え方は同じです。国際社会の中での「日本」という立場を明示し、自国(日本国)のために命を懸けてでも任務を全うする。また世界のために尽くす。この精神が大切だと思います。明日の日記では国家というものの捉え方などについて触れたいと思います。

ちなみに今日でこのページを初めて1ヶ月です!!!
2003年12月05日
多分大丈夫っぽいけどファミリーパソコンじゃなくてマイパソコンがウィルスに感染した疑い・・・・。あまり触りたくないので使ってません。ファミリーパソコンのほうはウィルスバスターを入れているのでチェックできたんやけど自分のパソのほうには入れてなくて、たまたま携帯からのアドレスで知ってる人じゃなかったから消そうと思って選択して「Delete」押すつもりが「Enter」押してしまって開いてしまったんです。今までそんなこと気にしたことなかったけどこれからは気をつけないといけないなと思いました。皆さんも気をつけてください。
2003年12月04日
昨日書くの忘れてました。というよりも書けませんでした。なぜならしんどかったので18時くらいにちょっと寝て飯時に起きようと思っていたのに、次に起きたのが6時でした。飯も食わずに寝続けてしまいました・・・・・。風邪気味でずっとしんどかったからいい休養になったものの自分でもちょと信じれない気分でいっぱいです。みなさんはどう思いますか??しんどいときにはおもっきり他の事も忘れて休養をとって一気に治す派か、しんどいながらもしなければいけないことをこなしながらじっくりと治す派か。意見まってます。
それから、日記の壁紙を季節感あふれるクリスマスツリーにしたのですが見にくいとのご意見が多々寄せられているので元に戻します。日記を読んでいただいてる皆様にご迷惑をおかけいたしました。今後ともよろしくお願いします。
2003年12月02日
昨日、日記を書いて後に、奥参事官の活動記録「イラク便り」読みました。まだちょっとしか読んではいないけれども、奥参事官がORHA(復興人道支援機構・米国防総省の組織)での活動において、どれほどイラクの人々がフセインからの解放をどれだけ喜んでいるかということ、またイラクの人々が自らの手で自由な国造りをしたいと望んでいるかということに触れ、またそのためにもORHAの活動を通じてできるだけ早くそうなるように努力したいというような趣旨の内容がありました。奥参事官は本当にイラクが自立した国として再出発できるように望んでいたのだと思います。また、新聞の記事によると、「イラク国内には何カ国の部隊が駐留しているでしょうか」と述べていたそうで自衛隊の姿がそこにないことに対し”さびしさ”を表しているとあった。本当にその通りではないだろうか?また、安全のため防弾チョッキの着用に対しては「防弾チョッキを着ることは、イラク人にすれば自分たちを信用していないと見えるだろうから着ない。」と述べていたそうです。自らの命よりも復興を切に望むイラク人との信頼関係のほうに重きを置き活動されたという点にもすごい人だなと思いました。
今、我々日本人はもう一度あらゆることについて考え生きてゆくべきではないでしょうか。奥参事官らの死を無駄にしてはならないのだと痛感しました。また、一日でも早いイラクの復興と、そのための、自衛隊派遣による復興支援ができるだけ早くに実現してほしいものです。

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