アクロポリスの坂道の大理石が歩いたあとですり減っている。

ヘロディス・アティクスの音楽堂

11.6(月) 丘を半分ぐらいまで登ったところに入り口の入場券をチェックするところがあった。


苦労して道路を渡り、このアクロポリスへの坂道を上りはじめると、道は大理石の石畳になっていた。
これがいかにも歴史を経たふるみのある石畳で、大理石が人間が歩いたあとですり減っているのである。
このすり減っているところの感覚は何とも伝わってくるものが柔らかくていかにも歴史の重みを感じる。
前方の上の方向にアクロポリスの丘にあるパルテノン神殿がかすかに見えてきている。
丘を半分ぐらいまで登ったところに入り口の入場券をチェックするところがあった。
面白いことにここでは入場券を売っておらず、少し下に下がったところで入場券を買ってきてくれと言って、ほとんどの人は下の方に降りていってまた入場券を買わされていた。
自動販売機でもそばに置いておけばいいもの、何ともギリシャらしいやり方である。
入場券は6人でDR12000であった。

かなりたくさんの人が観光に来ていることがよくわかった。


われわれに相前後して外人客が観光に登ってきており、それとは反対にパルテノン神殿を見学した人は上から降りてくる行列にも、かなりたくさんの人が観光に来ていることがよくわかった。
ギリシャのアクロポリスの丘は世界遺産にも指定されており、2,500年もの歴史を越した歴史的な遺産である。
残念ながらこのパルテノン神殿の破風や彫刻など大半のものがイギリス大英博物館にもっていかれており、大英博物館ではこれをエルギン・マーブルコレクションと呼んで非常に大事にしている。
入場券ををチェックするところを過ぎると、坂はいよいよきつくなり階段を登るような感じで、上に続いていた。
これは、車いすの方はとても見物しにこれないなと思った。2/3ぐらい登ったところでしたを見ると視界も開けてきて、最初に見えてきたのが音楽堂の遺跡で、これをヘロディス・アティクスの音楽堂と呼んでおり、現在でも7月から8月にかけてアテネの音楽フェスティバルがここで行われているようであった。
下の方に昔のアテネの中心市街地である古代アゴラの遺跡が見えてきていた。

大理石の石段も年を経て中央が凹んで、いかにも古びて、歴史の重みが一歩一歩足の裏から伝わってきた。


またその隣には劇場が見えてきており、ディオニソス劇場といわれるものであった。
ここでギリシャ悲劇が上映されていたことであろう。
観客席は17,000人を収容するということであった。
音楽堂は紀元161年にアテネの大富豪であるヘロディス・アティクスによって寄贈されたということであった。
遺跡の保存状態はかなりよく、今でも舞台のホールの枠組みが保存状態よく残っていた。
この劇場をの向こうがわきには、アテネの市街がだんだんと、はるか向こうまで視界が見えてきた。
これにつれてした、下の方に昔のアテネの中心市街地である古代アゴラの遺跡が見えてきていた。
みると神殿跡や図書館あと等が小高い丘の上に遺跡が点在しているようであったが、ここにもたくさんの観光客がのぼっているようであった

古代のアクロポリスの丘を復元したは図面の看板が飾られていた。


ちょうど対岸の小高い丘にあるというふうな位置関係にあった。しばらく行くと古代のアクロポリスの丘を復元したは図面の看板が飾られていた。
これでみると、かなりにがちりした石の要塞みたいなお城であったことが読みとれた。
このアクロポリスの丘に行く途中にはこのような音楽堂とか劇場等が配置されていたということである。
いよいよ最後の頂上への登り口にさしかかった。
みるとアクロポリスの頂上の門が見えてきており、大きな柱は何本も天に向かって延びていた。
そこに向かって大理石の階段が上の方に続いていた。
この大理石の石段も年を経て中央が凹んで、いかにも古びて、歴史の重みが一歩一歩足の裏から伝わってきた。
ここら辺まで登ってくると、さらにアテネの市街の見通しが良くなっていた。
まさに絶景である。
古代のアクロポリスの丘を復元したは図面の看板
頂上入り口に見える巨大な列柱が大理石で

アクロポリスの頂上の門が見えてきており、大きな柱は何本も天に向かって延びていた。


この頂上入り口に見える巨大な列柱が大理石でできており、ひとつ触ってみようと思って近づいてこの中の一本の柱に手を添えると、監視している人が触ってはいけないと注意された。

このギリシャのアテネが全盛期を迎えたのは紀元前の5世紀ごろである。
現在のトルコ、ペルシャに戦争で勝利を得て、アテネの全盛期が始まったわけである。
ちょうどペリクレスの統治時代にあたっており、このペリクレスによってアクロポリスの丘に、この白亜の神殿パルテノン神殿が建設されたわけである。
このギリシャは、現在の政治の原点ともいえる民主主義体制のアテネという都市国家と、軍事独裁体制のスパルタという都市国家の2つの国家がこの時代に興っており、この2つの都市国家が覇権を争ってギリシャという国がその後消耗して行くわけである。
結局、このアテネとスパルタがギリシャの覇権を争うことによって、何十年もの戦争を経て、アテネがスパルタに屈して、それとともにギリシャそのものが疲弊していくわけであるが

神殿跡や図書館あと等が小高い丘の上に遺跡が点在している昔のアテネの中心市街地である古代アゴラの遺跡が見えてきていた


面白いことにアテネの全盛期を築いた統治者ペリクレスによってアテネの崩壊が始まったということである。
すなわち、無益なスパルタとの戦争にこの統治者であるペリクレスが踏み切り、その後ペロポネソス戦争、そして戦争中のアテネの都市国家内部におけるペストの蔓延などで、アテネの都市国家が自滅していくわけである。
統治者ペリクレスそのものもこのベストにかかりなくなってしまう。まことに皮肉なことである。
このベストの蔓延そのものも直接的にはスパルタとの無益な戦争がもたらしたもので、都市国家という城塞にたくさんな兵士をを囲い込んだために生じたものであった。
このようにして、疲弊したギリシャに変わって覇権を握ったのがマケドニアに起こったアレキサンダー大王であった。
ただ現代でも引き継がれている政治体制、民主主義国家と軍事独裁体制の両政治的なシステムがやはりこのギリシャの都市国家で起こったということは非常に興味あることである。
昔のアテネの中心市街地古代アゴラの遺跡が見えてきていた。

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