目の前にはアテネの栄光を象徴するパルテノン神殿が

アテネの栄光を象徴するパルテノン神殿が見事な姿を現していた

目の前にはアテネの栄光を象徴するパルテノン神殿が見事な姿を現していた。


非常にズシリとした風格の建物で、非常に重そうな感じを醸し出していた。
近づくにつれてわかったことであるが、この建物は二重構造になっていた。
すなわち内側にも建物の柱が立っているのである。
ちょうどわれわれが行ったときには、このうちがわきの建物を修理をしていた。
この内側の建物の中に、アテナの女神が祭られていたといわれている。
高さ12メートルにも達する巨大な女神像であったということである。
このパルテノン神殿の女神については逸話があって、アテナとポセイドンがどちらがこの神殿に祭られるかということて、争いになり、この結果アテナが勝ってこのパルテノン神殿に祭られることになったということであった

外側の建物の柱はドーリア式の石柱になっており


外側の建物の柱はすべて縦に溝が刻まれており、構造上もこの溝を刻むことによってかなりしっかりしたものになっているということであった。
この柱はドーリア式の石柱になっており、大理石を重ねあわせて作られていた。
すなわち大理石を継ぎ足し継ぎ足して、柱が作られているのである。
遠くから見る限りこの大理石を重ね合わせて加工して作られたということは全く分からない。
最初から1本の大理石を切り出して作ったように見られるが、近づいてみると大理石を重ね合わせて加工して、1本1本の柱を築いていったことがわかる。
このパルテノン神殿の大きさは縦が70メーター、横が31メーター、そして柱の高さが10メートルの巨大なもので、完成するのに15年の月日を費やしている。
このパルテノン神殿を支えている周囲の柱の数は全部で46本の柱にになっている。
二重構造になっているうちがわきの建物の大理石の枠組みはかなり重厚な石組みで組み込まれて建てられていた。
外側の建物の柱はドーリア式の石柱になっており
パルテノン神殿の正面の出口は東がわきにかまえられていた。

パルテノン神殿の正面はそれとは全く反対の東がわきに正面の出口がかまえられていた。


われわれが登ってきたのは西側登山口であったが、このパルテノン神殿の正面はそれとは全く反対の東がわきに正面の出口がかまえられていた。
天井破風の部分には古代の歴史や神話に基づいている彫刻がされていたことが推察できるが、パルテノン神殿の現在の建物にはほとんどその彫刻の姿は見られないのが残念である。
このパルテノン神殿は紀元前の438年に完成している。
パルテノン神殿が非常に美しく見える、その秘密はどうやらこの柱や建物の曲線美にあるということらしい。
この柱はすべて中央部分が膨らみ曲線の柱となっており、柱の立て方も垂直ではなく、内がわきに傾かされた形となっていいる。
このパルテノン神殿の破風などを飾っている彫刻物については、このアクロポリスにある博物館に展示されているとのことであった。
私はこのパルテノン神殿にできるだけ近づいて周りを歩いてみることにした。
近づくにつれて、大きな石が無造作に散乱され、散らばっており、なかなか歩くのに苦労した。

パルテノン神殿の周囲をゆっくりと散策して回って


ここら辺は整理ができていないらしい。
建物の中にはロープが張ってあり、このパルテノン神殿の中に入ってはいけないというふうな形になっていた。
この重層な建物を外から眺めながら、周囲をゆっくりと散策して回ってみると、空間のスペースに比べて、かなり石が使われていたことが想像できる。
内がわきにある建物の部分には、大理石のブロックが積み重ねるような形で塀が構成されていた。
これでは中に入ると光が届かず、暗い闇になってしまうのではないかと思ったが、
このアクロポリスの丘には、このパルテノン神殿を中心にして、いろいろな有用な建物をが配置されていたようである。
現在形がよく残っているものにはエレクティオンの建築物と、西がわきの登り口にあった門の建物と合わせ、アテナのニケの神殿であった。
アテネの都市国家で有名な人にソクラテスがいるが、彼はまさにこのパルテノン神殿が作られた黄金期を過ぎたころに、このアテネの街に生存していたモットとも頭脳明晰な哲学者であった。
しかしながら、時の統率者であるペリクレスがベストによりなくなり、何十年という無益なスパルタとの戦争に駆り出されていたアテネの市民は、都市国家そのものは病気に病んでいたということであろう。
このアテネの都市国家で唯一の明晰な頭脳を持っていた常識人であるソクラテスを、この都市国家の人々は殺してしまうのである。
繁栄の絶頂期を過ぎて、アテネの市民が精神的にも病んでいたということであろうか、
パルテノン神殿の周囲をゆっくりと散策して回って
アクロポリスの丘からリカピトスの丘を展望する。

アテネ市民はソクラテスに死を与える判決を


ソクラテスが町の中に出ていって、アテネの市民にこのことを語りかけたことが、よほどアテネ市民の神経に触ったと言ういうことであろうか、
裁判でアテネ市民はソクラテスに死を与える判決を下してしまったわけである。
一方、ソクラテスもまたアテネの都市国家の外に出ていくという事はしないで、その判決を自ら静かに受け入れたわけである。
優秀な統率者であるペリクレスをなくしたアテネ市民には、その後適切な統率者が現れることなく、破滅への道を転がり落ちていったということであろうか、
まさにソクラテスの出来事はこのことを象徴していた。
アテネ市民は戦争でもこう着状態に陥っていたスパルタとの戦争に、わざわざ自滅するような戦いを挑んで、この戦いで還付無きまでにうち任されてしまったわけである。
一方の都市国家の雄であるスパルタは早くからこの戦争の和議をアテネに申し込んでいた。
この戦争の和議に応じなかったのは、むしろアテネの市民であった。まことに皮肉なことである。

6人の乙女像の柱カリアティードのエレクティオン


民主主義という優れた政治体制を作り上げたギリシャのアテネの市民は、その市民自身の精神的な堕落の下に反映の絶頂期に破滅への坂を転がり落ちることになったわけであった。
これを最も象徴する出来事がソクラテスの死であった。
民主主義政治体制のアテネの都市国家が、軍事独裁体制のスパルタの都市国家に滅ぼされるというまことに皮肉な運命をたどることになるのである。
パルテノン神殿のきたがわきにあるエレクティオンという建物には有名な6人の乙女像の柱が見えていた。
乙女が柱となってこの建物を支えているのであるあった。
この優れた6人の乙女像の柱でこの建築物が特に有名である。この建物はイオニア式の建物で、紀元前408年に建築されている。
パルテノン神殿の30年後に作られたということである。
従ってパルテノン神殿はドーリア式、このエレクティオン神殿はイオニア式と言って新しい様式が用いられている。
6人の乙女像の柱カリアティードのエレクティオン

このエレクティオン神殿はアテネの守護神アテナを祭るために作られた神殿である。


有名な話であるが、アテネの守護神の座をめぐって神々の間で争いが起こり、戦いの馬をもたらした海の神ポセイドンとオリーブの木をもたらしたゼウスの子アテナとの間で争われ、軍配がアテナに上がったものである。
このエレクティオン神殿で最も有名なものは女性の姿をとった大理石の柱で屋根を支えているカリアティードである。
6体のを女性像の柱からなっている非常に優雅な彫刻である。
非常に優れた彫刻で、このうち五体がアクロポリス博物館に、残りの一体はイギリスのを大英博物館に展示されている。
この神殿内部にはいたるところにオリーブの木を植えられていたということであった。

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