ホテルをチェックアウトして、迎えの市内観光バスヘ


この市内観光バスの予約はホテルのフロントで簡単にすることができた。

この市内観光バスの予約はホテルのフロントで簡単にすることができた。


前の晩ホテルのフロントにイスタンブールの市内観光バスに予約をしたいんだけどもお願いできるかと尋ねると、すぐにOKという返事であった。
ただし、日本語の解説の市内観光バスはないということで、すべて英語で説明があるということであった。
大変フロントの席客係りは手際よく予約の処理をしてくれた。
明日の朝はこのホテルの前までバスが迎えに来るのでその時間帯にこのフロントに下りて待っていてくれということであった。
昨日われわれがこのホテルに到着したときに、受け付け手続きを処理をしたホテルの女性は日本語が話すことができたが、その他のフロント係りは日本語話すことができなかった。
このためすべて英語の会話で話をしなければならなかった。
ちょうど夕方の宿泊手続きの時のみ、この日本語を話せる女性を重点的に配置しているらしい。
われわれ以外にも日本人が何人かこのホテルに泊まっていた。
比較的五つ星ホテルにしては料金が安いためによく日本人が利用するホテルであろう。

市内観光バスにはすでに30人ぐらいの外国人観光客が

市内観光バスにはすでに30人ぐらいの外国人観光客が乗っていた。


きっと解説はすべて英語でやる。
さすがにわれわれがこの観光バスでホテルを出発したころの時間帯になると、通勤時間となっていたために道路は早朝のがらんとした風景とは打って変わって人と車でごった返していた。
まことに中国で見られるような混とんとした東洋の世界さながらの姿がそこに現出していたと。
われわれは乗った市内観光バスはこのような混とんとした人と車の中を縫うように混雑した道路の中に旧市街を走りながら目的の観光地に出発をしていったが、何様混雑しているために遅々として進まない。
当然バスの運転手やガイドはこのようなことは織り込み済みのことなので一向に慌てる風もない。
われわれが宿泊していたイスタンブールの旧市街はとにかく宮殿から始まって、アヤソフィア寺院といわれるトルコの世界遺産といわれる名所旧跡が集積している場所であったが、このようなありさまで目的の遺跡に着くまでに優に1時間はたっぷりかかっていた。
徒歩で歩くわけではないので足下が心もとなくなっていた西田さんは非常に快適な様子で車の中で座って窓の景色を楽しんでいた。

日本のJRの駅で見られるような週刊誌や飲み物などを売っている、ちょっとした小店

日本のJRの駅で見られるような週刊誌や飲み物などを売っている、ちょっとした小店


トルコのイスタンブールにも、日本のJRの駅で見られるような週刊誌や飲み物などを売っている、ちょっとした小店が街の中に随所に店を広げていた。
こういうお店にはよく人が集まって買い物をしていたようである。
これはギリシャのアテネでも同じでこのようなこぢんまりした道路上の店がいたるところたくさん出ていたのが特徴であった。
そこには、日本のJRの駅で販売している店などよりもはるかに品数が豊富で日常品以外でなく観光の土産物まで並べて販売していた。
そのとき、われわれが橋の下のトンネルに車がさしかかったときに急に大きなサイレンが鳴った。
空襲警報みたいな非常に大きな音のサイレンであった。
するとわれわれの乗っていたバスが急にスピードを落とし始めてゆっくりと走り始めた。
窓から外を見ると反対車線の車も同じようにスピードを落とすか、あるいはその間に車を止めるか、よく見ると歩いている人までが立ち止まって、歩くのを止めていた。
どうやらこのサイレンのせいのようであった。
そのうちにわれわれが乗っている市内観光バスも完全に停車して動かなくなった。
車の前後行列ができているためにすべての車が止まってしまった。
歩道を歩いている人も立ち止まって動かない。

すべての車が止まってしまった。歩道を歩いている人も立ち止まって動かない。

すべての車が止まってしまった。
歩道を歩いている人も立ち止まって動かない。


いったい何事が起こったのかと、バスの中に乗っている外人の観光客やわれわれはいぶかったが、あとでわかったことであるが1種の軍事警戒警報の発令のサイレンであって、国民に戦時体制の意識を忘れさせないようにするためのものであるらしい。
昔からギリシャとトルコは非常に仲が悪く、現在も島の領土権のことでギリシャともめ事をおこしているお国柄である。
思想ということがあるのかもしれないし、第二次大戦後アタチュルコによって、歴史的な革命がなされたその時の偉業を忘れないために、いつまでも緊張感を保っておくためにこのようなことが日常行われているのかもしれない。
ちょうど日本の隣の国の韓国がこれとまったくおんなじことをやっているのを思い出した。
5分ほどであったろうか、あるいは10分ほどであったろうか、静まり返った静の世界がしばらく続いた後、やっと解除になり、のそのそと車が動き始めた。
そういえば先日も島の領土権益のことで、軍艦が出動し一触即発の状況になってたという新聞記事を読んだことが。
まことにギリシャとトルコは古代の昔から、トロイ戦争、アレキサンダー大王による征服、オスマントルコによるコンスタンチノープルの陥落、東ローマ帝国の滅亡等々・・・・・・、
この2つの国は絶え間ない戦いの歴史を繰り返してきた国柄であった。

建築好きなローマ人たちが巨大な建築構造物を-水道橋-

建築好きなローマ人たちが巨大な建築構造物を-水道橋-


われわれがトルコのカッパドキアで見たキリスト教の修道士たちの洞くつ生活も、ひとえにイスラム教をからの迫害を逃れるためにキリスト教徒がそこに隠れて細々と信仰生活を続けたものであり、これが現在は世界遺産にも指定されるほどの観光の名所となって、トルコ国民にその恩恵をもたらしていることを見ると、歴史の大きな皮肉を感じざるをええない。
このイスタンブールの旧市街には東ローマ帝国の遺跡が随所に残っている。
建築好きなローマ人たちが巨大な建築構造物を随所に作り上げて残してきており、それが町の通りのいたるところで頻繁に見られる。
やがてわれわれのバスの前方に、このようなローマ人の作った遺跡の1つとして水道橋が見えてきた。
2階建ての巨大な橋で現在もその下をバスやトラックが悠々と走っている。
風呂好きのローマ人たちが金に糸目もつけずに随所にこの様な水道橋をつくり水を引っ張ってきたという。
そのような遺跡の下をわれわれはバスで通り抜けていった。
誰も何も言わない。
あまりにも遺跡がありすぎてこのような水道橋を立ち止まって、見物する人もそんなに認められなかった。
その他にも素晴らしい遺跡が数々あるので・・・・・・。ローマ人の作った水道橋は非常に大きな構造物である。
バスの大きさとこの2階建ての水道橋の大きさを比較してみれば分かるように、よくもまあ、これだけ巨大な水道橋を延々と作って水をイスタンブールの町まで運んできたものだと感心させられた。
この石造りの水道橋は非常にガッチリリしたもので、現在でもしっかりと健康な構造物を保っているようであった。

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