はてしなく青い空 後編
そして、2月14日がやってきた。
朝一番で二人の女友達から義理チョコを貰った僕は、昼に先輩たちと顔を合わせた。学食で空腹を満たした後、皆して二階ラウンジ奥の席へ移動する。
「結局、学内で貰うもんは全部『義理』やな」
腰を下ろすなりそう言って、望月が鞄の中から小さな四角い箱を取り出した。どこかで見たことのある包み紙だ。それが近所のコンビニの棚に並んでいたものだと気づくのに然程時間はかからなかった。
「一応、ラッピングされてるだけ、まだええやんか」
そう言って織田が見せたのは冬季限定発売チョコスナックの箱へ リボンシールが貼られただけのもの。環境に優しい簡易包装と言えなくもないが、これぞ『義理』と云わんばかりの代物である。江神さんや僕が貰った分も二人と大差なく、瞬く間にテーブルの上へ各々宛の『義理』が披露された。
似たり寄ったりの義理チョコを開封し、思い思いに手を伸ばした。チョコレートを頬張りながら、話題は昨今のミステリに対する苦言へ移っていった。
エラリー・クイーンズマガジンで掲載中の連続シリーズ物へケチをつけ始めた望月に対し、織田が「いちいち小煩いわ」と一喝した。江神さんは言葉少なに、
「そないに牽強付会なこと言うても、しょうがないやろう」
と釘をさしただけだったが、僕はここぞとばかり突っ込ませてもらう。望月がこちらを軽く睨んだ。
「ほんまに可愛げのない後輩やなぁ、お前は」
「モチさんに言われたないです」
他の話題ならまだしも、ミステリ関連となれば別だ。己の意見をけなされて引けるものか。侃侃諤諤と自説を譲らない二人を前にして、呆れ顔のハードボイルドファンと基本的に争いを好まぬ心穏やかな部長は見物を決め込んだようだ。いつもとそう変わりない昼休みが過ぎてゆく。
「あかん、そろそろ行くわ。後はみんなでつまんでくれ」
まだ大分残っているチョコレート類を見ながら、江神さんが言った。
そういえば貰った義理チョコは江神さん宛のものが一番多かった筈なのに、本人はあまり食べていなかったような気がする。
「それじゃ、責任持って片付けさしてもらいます」
おどけた口調で織田が受けた。
三講目があるのは部長だけである。それぞれ、四講目に講義を残している後輩三人は、ラウンジを出て行く江神さんの後姿を見送った。
引き続き居座って、空き時間を潰すことにした。時々チョコレートを食べつつ、四方山話に花を咲かせる。さっきまで熱く語っていたミステリ談義への熱意もとうに冷め、一般的な噂話が口の端にのぼった。
気がつくとテーブル上のチョコレートはもう無い。最後の一欠片を手にした望月がそれを勢いよく口の中へ放り込んだ。
殊更ゆっくりと咀嚼しながら、
「けど、チョコレートってのは、つくづく腹に溜まらんもんやな」
と言う男に、良き相方が同意する。
「そうやな。食った気がせえへん」
「同じチョコレートでもクッキーとかやったら、もう少し腹持ちも違うんやろうけど」
「だから手作りクッキーとか手作りチョコレートケーキとか、欲しかったんやけどなぁ。女子の後輩がおったら、きっと・・・」
織田がぶつぶつ言い出した。やれやれ、諦めの悪いこと甚だしい。
だが、口々に物足りないとボヤく二人の様子が気になった。もしかして、まだ腹が減っているとか? まさかね。
それでも一応、
「あの・・・今日の学食のカレー、量、少なかったみたいでしたけど?」
と、訊ねてみた。先輩二人はいったん顔を見合わせた後、揃って頷いた。
「そうなんや、飯もカレーも普段の7割くらいやった」
「アリスだけA定食にしたやろ? あれは正解やったな」
そう、僕以外の三人はカレーだった。ということは―――
「信長さん、モチさん、ちょっと荷物見ていてもらえますか?」
先輩たちの返事を待たずに席を立ち、僕は早歩きで室内を横切った。階段を駆け下りて学生会館から飛び出す。目指すは、すぐ近くにあるドーナツショップである。
自動扉が開くのももどかしく、店内へ急いだ。
「いらっしゃいませ―――」
晴れやかな声が響いた。にっこり笑った女性へ向かい、軽く手を上げて挨拶した。
「そっか、この時間、空きなんだ」
彼女が囁く。僕はドーナツを物色しながら、訊ねた。
「有馬は四限、出ないんか?」
「今日はね。出席足りてるし、ノートも頼んであるから大丈夫でしょ」
ぺろりと舌を出したアルバイターはすぐに姿勢を正して、
「店内でお召し上がりですか?」
と訊いてきた。
「あ、いや・・・持ち帰りで頼むわ」
そう答えてから、次々に品物を注文してゆく。一種につき1個づつ、合計12種類を選んだ。
トレイの上に積み上げられたドーナツの数を確認し終えた彼女が僕の顔を覗き込む。
「それにしても、沢山ねぇ―――代表で、おつかいに来たの?」
数からすれば何人かの分をまとめて買いにきたというふうに映るだろう。しかし僕は、「まぁ、な」と答えるだけに留めた。彼女も特に返事を聞きたかった訳ではないらしく、すぐにドーナツを詰め込む作業へとりかかった。
横長の紙箱が目の前へ置かれる。会計時に先日貰ったばかりの30%割引券を出すと、
「ちゃっかりしてる。やっぱり大阪人だ」
半ば呆れたような口調で言われた。
しっかり割り引いてもらった後、僕は遠慮がちに切り出した。
「・・・悪いんやけど、ドーナツ3つか4つ入る紙袋、別に貰えへんか?」
ちょっと待って、と言って屈んだ彼女はレジの下をごそごそやった後に何のへんてつもない茶色い紙袋を取り出した。
「今、お店の名前入ってる紙袋が切れてて、これしかないんだけど・・・」
心持ち申し訳なさそうな顔をされたが、こちらは別袋を貰えれば何だって構わないのだ。
「ありがとう、助かった」
受け取ったものを畳んで胸ポケットへ入れると、店を後にした。
急いで学生会館へ戻ったが、真っ直ぐラウンジへは行かなかった。一階食堂の扉を押して、中に入る。さすがにこの時間にもなると、たむろしている学生の姿もほとんど見当たらない。ざっと見渡し周囲にひと気のないことを確認してから、一番手前のテーブルで箱を開けた。
12個の中から4個を貰った紙袋へ移す。箱に残ったドーナツの間隔をおおまかに均した。これで、いかにも「抜き取りました」という感が幾分払拭された。
区分けを済ませた僕は、きちんと封をし直して学食を出た。そのままエントランスを突き抜け、階段を昇った。
先輩二人が待つ我が部の指定席と化したテーブルの上に、ドーナツ屋の名前入りパッケージを置いた。
「どうしたんや? これ」
不思議そうな視線を寄越した望月と織田へ、
「可愛い女子部員やないですから、手作りでないのは勘弁してください。今日はバレンタインやし―――差入れです」
箱の蓋を開けながら告げた。
「昼飯、軽かったって言うてたでしょう。それで、少し腹の足しになるようなもんを・・・と思うたんですけどね」
織田が箱の中身と僕を見比べた。
「へぇ、アリス、気が利くやないか」
「さすが、推理研の後輩やなぁ」
望月も目を輝かせる。少し前に人のことを"可愛げのない後輩"と評したことなど、すっかり忘れているのだろう。全く、ゲンキンなものだ。
「ほな、ありがたくいただきます」
と言うが早いか、まず何を選ぼうかと迷い始めた二人へ、一応、念押しする。
「全部、種類が違うんで、ケンカせんといてくださいね」
銘々が一つ、手に取って食べ始めた。その様子を視界の隅で確認しつつ、僕は先程紙袋へ移した分をそっと自分の鞄にしまった。
「ところで、アリス」
一つ目を食べ終えた望月が口を開いた。
「俺たちだけでこれ食ってしまってええんか? その、江神さんの分は・・・」
それを聞いた織田も、いったん口を動かすのを止めた。
「あ、江神さんの分はちゃんと別に買ってあります。せやから、モチさんと信長さんで全部食べてくれてええですよ」
そう言うと、経済学部コンビは安心したように頷いた。
暫し、ドーナツをパクつく先輩たちと当り障りのない話をしながら寛いだ。数があるからお前も食べろと一度ならず勧められたが、A定食を残さず平らげて満腹だった僕はそれを辞した。
「ふぅ〜、食った食った」
「あー、やっと腹いっぱいになったなぁ」
口々に「御馳走さん」と言う二人へ「お粗末さまでした」と返す。空になった箱を潰してゴミ箱へ捨ててから、満足そうな顔をしている二人へ一足先に失礼する旨を告げた。
「四限が始まる前にちょっと図書館へ寄りたいんで―――先、行かしてもらいますね」
「おう、判った」
「俺らはもう少し、食休みしとるわ」
大儀そうな風情の先輩コンビに見送られて、僕は早めにラウンジを脱出した。
本当のことを言うと、図書館にさしたる用事はない。二日前、間違って借りてしまった本の返却を済ませるのみで、明日以降にまわしても差し障りのない所用だった。まぁ、咄嗟に口から出た方便というところか。
西門を潜った僕は図書館の横を通り過ぎた。そのままキャンパス内を突き進み、奥の建物へ向かう。江神さんが今そこで講義を受けている筈だった。
手前にあるベンチへ腰掛けて腕時計を睨んだ。終業時刻まであと15分強。しかし、定時前に終わる可能性もないとはいえない。
鞄の中からドーナツの袋を出して膝の上へ乗せ、視線だけを昇降口のある方向に釘付けた。
自分がしていることを思うとひどく恥ずかしい。けれど、これくらいなら迷惑にならないだろうし大義名分も立つから、という言い訳が僕の背を押した。
日頃お世話になっている先輩へ、少なかったランチの足しにどうぞという意味で差入れるだけのこと。大学界隈で調達可能、且つ、そこそこ食べ出があるという条件を満たすのがドーナツだったという訳で、それ自体は別段不審がられることもないだろう。
だが、袋の中を見てどう思われるかまでは判らない。正直、ちょっと不安になる。だって、ここにある4個は全部チョコレートドーナツなのだから。
望月や織田と話していた時、僕は突如、あることに気がついた。チョコレートクッキーやチョコレートケーキがバレンタインの贈り物と認められるならば、チョコレートドーナツもそうなるではないか。
先日貰った折畳み式のカタログを余す所なく見たお蔭で、あの店で扱っているラインナップは大体頭の中に入っていた。チョコレートドーナツは全部で4種。数としては悪くない。
尤も、店にいた間は、何かとんでもないことをしているような気がして、落ち着かなかった。奇妙な緊張感も体内に漲り、つい辺りの視線を意識したっけ。だから買った12個をまとめて同じ箱に詰めてもらったのだ。いくら客とはいえ、女友達に予め分けてパッケージングを頼めるほど強い心臓を持ち合わせてはいない。それに、チョコレート風味のとそうでないものとを取り混ぜてなら普通の買物として通る。結局、そうやって建前を取り繕った。
あのひとを心から尊敬している。
あのひとを誰よりも信頼している。
それ以上の想いが自分の中で日に日に大きくなっているのは事実だ。けれど、その気持ちに対してどう処すべきか、まだ僕の中では定まっていない。人が人を好きになるのだから、こうなった事を恥じるつもりは無いけれど、やはり一般的ではないと思うし、普通に考えても受け容れてもらえる可能性は低いだろう。そんなこんなで、この際かこつけてしまおうと考えたのだ。
そう―――今日は、バレンタイン・デイ。これだって、チョコレートには違いない。
とはいえ、表向きはあくまでも日頃の謝意表明ということで。まぁ、江神さんならきっと、シャレとして受け流してくれるだろう。いや、そうしてくれなければ困るのだけど―――
袋の中に隠した想いを抱えてベンチへ陣取ってからものの5分も経たないうちに、赤煉瓦の色も鮮やかな建物から人がぱらぱらと出てきた。やはり、早く終わったクラスがあるようだ。食い入るように出入り口を見ていると、待ち人の姿が現れた。
「江神さん!」
僕の声を聞きつけたひとはゆるりとこちらを向いた。
「アリス? 何か、あったんか?」
早足でベンチ前までやって来た部長は立ったまま、僕の目を見つめた。余裕を持って教室に向かうタイプとはいいがたい後輩がここにいること自体、奇妙に思えるのだろう。「四限開始まで、まだ大分あるやないか」とも言われた。
「これを渡そうと思って―――江神さんの分です」
立ち上がり、手にしていた茶色い袋を前に差し出した。
「今日のカレー、量が少なかったみたいやて、信長さんもモチさんも言うとりました。ですから、差入れです」
さすがに「僕の気持ちです」とは言えない。そっと視線をずらして、江神さんの手許辺りに合わせた。
黙って受け取ったひとは僕の方をチラリと見てから袋の中身を確認した。
「・・・モチや信長にも、同じものを?」
僅かに不機嫌さが混じるような声音で訊ねられた。しかしそれはこちらがそう感じただけで、江神さんにそんなつもりは無かったかもしれない。尤も、既に平静さを欠いていた僕は内心の冷汗をひた隠そうとやっきになっていたので、そんな気がしたというだけのことだけれど。
「一人当り4個、ということで、12個全部、違う種類のドーナツを買うたんです。モチさんと信長さんにはラウンジで食べてもらいましたけど、同じ味のもんは一つとして無かったんやないですかね」
務めて何でもないという風を装い、説明した。
暫く考え込んでいた江神さんがポツリと呟く。
「なるほどなぁ・・・そういうことか」
「?」
何を指してのことなのか。困惑気味の意識にせっつかれるまま視線を上向かせると、とても綺麗な笑顔が飛び込んできた。
「バレンタインやから、やろ?」
ついさっきとはうって変わった優しい声だった。
身体中が、かぁ〜っと熱くなる。
「せめて、女子部員が一人でもおったら良かったんですけど、去年は僕しか入らんかったし」
焦って、あたふたと余計なことまで口の端へ乗せはじめた僕を穏やかな口調が遮る。
「新入部員なぁ―――俺は、アリスだけで満足しとるよ」
きっぱりそう言われて少々驚いた。瞠目している僕を前にした部長は明後日の方向を見遣りながら、ぼそぼそと呟く。
「まぁ、結果論やけどな。大体が三人しかおらん部やし、そう大勢入ってくるとは思うとらんかったんや。来年度も、一人か二人、獲得できればええ方やろ」
うーん・・・それはそうかもしれない。在籍している先輩数より後輩部員の方が多いというのも、いろいろ大変そうだ、などと考える。相槌をうつのが憚られて、僕も暫し黙り込んだ。
宙ぶらりんな沈黙が訪れた。
これ以上一緒にいては理性が持たないと判断し、
「それじゃっ、僕、もう行きますんで」
と言って、軽く会釈する。江神さんへ背を向けて歩き出そうとした途端、肩上を温かい重みが覆った。
「アリス。ありがとうな」
僕の耳元に、やや低めの柔らかい声が届いた。振り向いていないから正確なところは判らないけれど、おそらく江神さんはその長身をほんの少し屈めているのだろう。まるで後から抱きしめられたような錯覚を感じてしまい、僕は思わずその場で固まった。
吐息のような囁きが耳朶をくすぐる。
「来月、ちゃんと返したる―――期待しとき」
「・・・はい」
正面を向いたまま、喘ぐような声で返事をするのが精一杯だった。
大きな手が僕の肩から髪へと滑っていった。慌てて顔を捩った時にはもう、気配が離れていて。少し淋しいような、それでいて暖かな気持ちが僕の中に芽生えた。
まだ、このままでいられる。隣にいても良いと直接言ってもらえた訳ではないけれど、とりあえず、僕の存在は迷惑でないらしい。何を根拠に、と追求されてもちゃんとした説明は出来そうにないが、まずはそう信じることにした。
振り返ると、江神さんの後ろ姿がやや離れた位置に見えていた。目が離せなくて、その長身をひたすら追いかけた。
抜けるような青空を背景にして遠ざかってゆくあのひとが、好きだから。
これからも、ずっと傍にいたい。趣味を同じくして集まったサークルの仲間としてはもちろん、それ以外でも―――より多くの時を江神さんと共に過ごしたい。様々な経験を分かち合って、日々を重ねてゆきたい。
あのひとと出会えたことに感謝し、果てしなく拡がる大空の如く、どこまでもこの関係が続くことを願おう。
頸が痛くなるくらい蒼穹を見上げて、僕は深呼吸した。(2001/3/12)
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なんだか、やたらと長いですね(滝汗) ええ、ええ、こんな字数になるなどとは思っていませんでしたよ←今更
アリス一回生時の話なので、勿論マリアは入部前。でも、互いを「アリス」「マリア」と呼び合うようになるのは推理研に所属してからだと思うんですね。EMCに入部してみたら先輩たちが「アリス」と呼んでいて、また、先輩たちが「マリア」と呼び出すにつれて、互いもそう呼ぶようになるんじゃないか―――と感じるんです。だから、一クラスメイト同士の頃は普通に「有栖川君」「有馬」と苗字で呼び合っていたに違いないと考えました。
しかし、こういうカタチでマリアが出てくるとは思わなかったよ…やっぱ最強トリオですわ<モチ・信長・マリア
それから、江神さんの本音を書けないのでここで言い訳なぞを(苦笑)
えっとですね。江神さんは自分と同じもの(中が全部チョコドーナツの袋)を他の二人も貰ったのかと思って心穏やかでなくなりかけたんです。で、アリス曰く、「買った12個は全部種類が違う」とのことから、モチや信長が食べたのはそれ以外の8種(つまりチョコドーナツは1個も入ってない)ということに気づいたんですね。
しかし、エンゼルクリームは食べ飽きました(;^_^A 暫く、見たくないかも←差入れてもらっておいて何を言う
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