クスクス 後編
マリア Side
冷気がすぅ、と頬を撫でた。
目前にかかった靄を思いきり払い除けようと思い、一度強く眼を瞑った後、勢いをつけてパッと開く。見慣れない天井が視界へ飛び込んでくる。
―――ああ、ここは江神さんの部屋だわ・・・
蒲団に横たわったまま、私は昨夜の出来事を思い返そうとした。
五人揃って新年を迎えられるのはこれが最後だから。
最初に言い出したのは誰だったか忘れてしまったが、皆で除夜の鐘を聞いて初詣へ行こうと話がまとまり、年末年始を一緒に過ごすこととなった。年が明ければ先輩三人が卒業し、アリスと私も四回生になる。それで、この顔触れでは最後となる年越しを共にするべく全員が都合―――といっても、本当にスケジュールを調整する必要に迫られたのは、毎年この時期にバイトを入れている江神さんだけだったけれど―――をつけ、12月31日の夜、部長の下宿へ集うことを決めたのである。
昔アルバイトしていた酒屋で買うと割引きしてもらえるから、ということで酒類の調達は織田先輩へ一任された。望月先輩やアリスと河原町で待ち合わせた私は、道すがら、おばんざい類や酒の肴になりそうなものを買い込んで、約束の19時ギリギリに西陣の部屋へ辿り着いた。
相も変らぬ漫才や突っ込みが飛び交う。それに茶々を入れたり聞き流したりしながら、食べて騒いで飲んで笑った。
その前夜、デクスターの新作を一気に読んだ所為か、完全に寝不足だった私の意識は徐々に朦朧となりつつあった。目を瞬かせたり膝を抓ったりして懸命に眠気と闘っていたのだが、効果のほどはサッパリだ。スヌーピー並みの大欠伸をしたところで、他の四人がほぼ同時にこちらをためす眇めつした。そうして、遂に江神さんから「一眠りしたらどうや?」と提案されるに至った。
部長の指示に従って、部屋の奥を占領していた本やCDの山を取り崩し、経済学部コンビが場所をつくる。勝手知ったる何とやらで、アリスが押入れから客用寝具を出してきた。
「初詣に行く時にはちゃんと起こしたるから、安心して眠ってええぞ」
江神さんからそう言われても無言で頷くのが精一杯だった。その後、「お借りします」とか何とか呟いて一礼はしたと思うのだけど。そんなこんなで、ほのかにお日様の匂いがする蒲団の中へさっさと潜り込ませてもらった。
斯様な経緯により、それから先のことは記憶にない。しかし周囲を一瞥すると、飲み会の模様は自ずと知れてきた。
散乱したコップや空き瓶、空き缶、空になったお皿の数々。なんとも綺麗に食べきったものだ。まぁ、二十代の男性が四人もいるのだからそれも当前か。そこそこゴミが纏められているところをみると、最後まで起きていた誰かが寝る前にでも片付けたに違いない。
そう思って視線を動かしたところ、二手に分かれて眠る男性達の姿が目に入った。
身体を反転させ蒲団の中でうつ伏せになると、軽く上体を起こして頬杖をついた。その姿勢のまま仔細に状況を検分する。
私のいる位置から見て、手前に一年上の先輩コンビが揃って寝転がっている。部長とアリスは互いの身体を寄せ合いながら、奥の壁へ寄りかかるようにして眠っていた。
よく見ると、望月先輩の身体が包まった毛布の端は織田先輩の下敷きになっている。潰れたのは望月先輩の方が先だったと判断してよさそうだ。窓際の二人に関しては座高の差から考えてもアリスが江神さんへ凭れかかるのが自然で、実際そうなっていた。つまり、最後に寝たのが江神さんだということになる。もし、織田先輩の方が後だったなら、少なくとも江神さんやアリスをあの姿勢のまま眠らせたりはしないだろう。
そんなことをつらつら考えていると、後方で音がした。振り返った途端、目を擦り擦り起き上がろうとしている先輩の一人が視界に入ってきた。
小さな声で、
「おはようございます」
と言うと、望月先輩は瞬きしながらキョロキョロ辺りを見回した。目覚めた直後の私同様、ここが何処であるかを思い出そうとしているのだろう。
漸く、昨夜の記憶と現在地が繋がったらしい。まだ眠りの中にいる織田先輩の身体を器用に避けながら、彼は炬燵のある方向へ手を伸ばした。置いてあったメタルフレームの眼鏡を取り、ハンカチを出すとレンズを拭き始めた。
「おはよう―――よう眠れたか?」
ボソボソと挨拶を返してくる。頭の中は今だ霞みがかっている状態なのかもしれない。
「はい、お陰様で。なんか、私だけイイ思いしちゃったみたいで・・・すみません」
先輩たちを差し置いて蒲団で休ませてもらった手前、小さく頭を下げる。彼は手を動かしながら私の方を見た。
「別に気にせんでええんやないか? 男は雑魚寝でもなんでも構わんけど、女性はそういう訳にいかへんやろう」
そう言われて、心持ちホッとした。細かいことに一々目くじら立てるような仲間たちでないのは百も承知である。とはいえ、私以外の全員が毛布を被っただけの状態で寝ていたのだ。少々申し訳ない気持ちになるのもまた、然りだろう。
綺麗に磨き終えた眼鏡をかけ、望月先輩が改めて部屋の中をゆっくり見回した。窓際と手前で眠る三人へかわるがわる視線を投げかけた後、彼は軽く首を傾げた。
「どっちが後やろうな?」
疑問の意味を図りかねた私は、声を押し殺して訊ねた。
「何がですか?」
「いや・・・信長とアリスと、どっちが後から寝たんやろな、思うてな」
ああ、いけない。また、例の推理癖が出てきたようだ。いなすつもりで言葉を投げた。
「気になるんだったら、後で訊いてみればいいことじゃないですか」
しかし、お手頃な謎を手にしてしまった先輩は、私の科白など馬耳東風とばかりに聞き流した。
「せっかくやから、マリアもちょっと考えてみぃ。俺たちがギブアップした後で、残りの三人がどういう順番で眠ったか―――全員、起きてしまうまでの"なぞなぞ"や」
と、あしらわれる始末だ。
ほんと、おもちゃいらずなんだから。そうごちたところで、他にやることがある訳でもない。かくして、私も暫し謎解きへ取組む羽目になった。
まずは理屈で考えてみる。
眠っている三人の中ではアリスが一番お酒に弱い。江神さんと織田先輩を比較した場合、飲むペースや強さに於いてはあまり差がなかったように思う。
それなら、状況的にはどうだろうか。
熟考の末にまとめ上げた"昨晩の経緯"を私はポツポツと述べた。
「信長さんとアリスだったら、信長さんの方が後なんじゃないですか? 多分・・・アリスと江神さんはあの位置にいて、信長さんがこっちで飲んでて・・・アリスは話しているうちに眠っちゃったとか―――で、起こすのもかわいそうだからってことで江神さんがああいう姿勢でいるうちに、信長さんはこっちで寝出してて・・・最後に沈没したのが江神さんだと思うんですけど」
しかし我が部きっての頭脳派である望月先輩はこの説を否定した。
「いや、俺はアリスの方が後やと思う」
私は無言でその続きを待った。
「江神さんもアリスも、俺たちにバレてることは気ぃついてるやろうと思う。けどな、皆でいてる時は、二人共そういう様子を見せたことないやろう。せやから、アリスが他人の目があるところで、あんな無防備な寝方するとは思えないんや」
「でも、眠くて眠くて気がついたら寝ちゃってた・・・ってこと、ありません?」
「いいや。信長が起きてたとしたら、あんなふうにくっついてたりせんやろう」
言われてみて、そうかもしれないと思った。学生ラウンジも含め、喫茶店や居酒屋など椅子のある場所では、お定まりの席順―――当然、江神さんの隣はアリスで、望月・織田両先輩がその向かいへ、私は他の席から椅子を引っ張ってくるか経済学部コンビの隣に座るかする、という暗黙の取り決めが存在する。しかし、誰かの下宿で集まったり飲んだりする場合に限っては、江神さんもアリスも隣り合わないよう気を配っている感があった。不特定多数の目に晒されている『飲み会』と違い、気心も知れた仲間同士での『宅飲み』だけに、敢えて距離を置いているのだろうと思う。
「で、最後が江神さんやろうな・・・食べたもんや空き缶やビンがある程度片付いとるから。アリスがギリギリまで一緒に起きとったら、手伝っとったかもしれへんけど」
なるほど、説得力のある推理だ。若干こじつけた部分が無きにしもあらずだが、さすが、本格ミステリ・マニアと称するだけのことはある。
その時、傍らで「うーん」と唸り声がした。
極力声を落として話していたものの、やはり少々煩かったらしい。
余計な物音を立てないよう気を払いつつ、私たちは声のした方へそろりと振り返った。丁度、織田先輩がパチッと目を開けたところだった。
二人揃ってサッと唇へ人差し指をあて、「静かに!」というゼスチャーをした。起きたばかりの当人は、
「な、何やねん」
と呻いたが、私たちが目と顎で指し示した方向を見るなり納得したようだった。
囁き声で朝の挨拶を口々に交わした後、謎を抱えた二人はたった今起きたばかりの人間に詰め寄った。起き抜けの眠そうな眼を瞬かせ、織田先輩は私たちの推理へ耳を傾けた。聞き終わった途端に「アホかいな」と呟き、天井を仰ぐ。
「順番・・・なぁ」
思いきり顔を顰めながらも、短髪の先輩は自身が知る真実について一通り語ってくれた。
「マリア−モチ−アリス−俺までは、はっきりしとる。けど、寝ついたのは俺よりもアリスの方が、多分、後や」
望月先輩と私は思わず顔を見合わせた。
「まぁ、後でアリスが起きたんやろな。最初寝てた時はこっちの方におったんやから」
そう言って、炬燵の手前側を指し示す。
「ただし、アリスが夜中に目ぇ覚ますまで江神さんがずっと起きとったかどうかは、俺かて判らん。部長も一度寝て、アリスが起きた後でまた起きた可能性だってあるやろし・・・何なら、あの、幸せそうな顔して眠っとる一対が目ぇ覚ましたら確認してみるか?」
心底呆れたような声を出されて、望月先輩も私も首を強く横に振った。くだらない推理をしていた事実が情けなくなりつつあった。こんなこと、あの二人には絶対知られたくない。
「全く・・・起きるなりロクでもないことを『謎』や思うから、あかんのやで。それより、腹、空いてないんか」
小言の後に続いた科白は私たちを現実へ直面させた。突如、リアルな空腹感が襲いかかってきた。
「空いてますけど・・・でも、こういう状態で勝手に朝ごはん食べたりできないような気がしません?」
「誰がここで食う、言うたんや。外へ出て食ったらええねん」
当り前のように返された。続いて、望月先輩が現状より判断し得る一般的な見解を述べた。
「それもそうやな。昨日買うたもんは粗方無くなっとるし。大体、当初の予定では除夜の鐘聞き終わったら初詣へ行くつもりやったやろう。その帰りに朝メシ分を買って帰るとかいう話になっとったんやないか?」
彼らの言う通り、この部屋に五人分の朝食を用意できそうな食材は無いと思われる。外食するにしてもコンビニで何か買ってくるにしても、いったん外へ出ないことには始まらないということだ。
だが、寄り添って眠る二人の邪魔をするのは、なんとなく忍びない。深く寝入っているらしい江神さんとアリスを今ここで叩き起こしたりしたら、あとで罪悪感に苛まれそうである。
「私たちだけで、朝ごはん食べに行っちゃっても構わないですかね?」
おそるおそる問い掛けると、織田先輩はあっさり「構わんやろ」と言い切った。
「江神さんやアリスとは昼過ぎにでもどっかで待ち合わせたらええんや。第一、あんな寝顔見せられて、このままあの二人が起きるまで待っとる気か? 俺はやってられん―――御免被る」
それは私たちだって同感だ。望月先輩と二人、無言のまま賛意を示した。
仲睦まじい寝姿は微笑ましい限りだが、見ているとあてられているような気がしてくる。莫迦莫迦しいことこの上ない。こちらは一人身なのにと思うから尚更、そう感じて虚しくなるのかもしれないけれど。
置手紙を残しておけばいいだろう、と意見がまとまった。元旦ゆえに飲食店等は通常営業でない可能性が高い。指定した店が休みだったりしたら面倒だ。そういった事情も鑑みた上で、ここから二町ほど離れた児童公園を落ち合う場所に決めた。
手帳を開き、二人への伝言を綴ってからページを破り取った。それを一番見つけられ易そうな炬燵の上へ置こうとした途端、私はある事に気づいて愕然とした。
「でも、鍵はどうします? 掛けないで出て行く訳にはいかないでしょう」
困惑気味にそう言うと、望月先輩が炬燵の上を指差した。
「そこにあるの、この部屋の鍵やろ? それ使って閉めたらええんやないか?」
「だけど閉めた後で、鍵、部屋の中へ返せませんよね? かといって、鍵持っていっちゃったら、後の二人が困るんじゃ・・・」
しかし、彼はさらっと言ってのけた。
「ここの合鍵くらい、アリスが持っとるやろう」
確かに、それは充分有り得ることである。けれども、もし持っていなかったなら。
躊躇っている私の様子を見て、織田先輩が手前勝手な案を口にした。
「なぁに、もしアリスが合鍵持ってなかったとしたら、二人一緒に江神さんの部屋から出てこれんようになるだけのことやろ。それやったら、待ち合わせ時間を15分過ぎても来なかったら一度ここへ電話する、て書いといたらええ。あの公園からやったらこの部屋まで5〜6分で来られるやろし―――借りた鍵、返しに戻ったらええやないか」
・・・まぁ、それでいいか。私は置手紙に追加分をしたためた。
先輩たちと頷き合い、出来るだけ物音をさせないよう気を配りつつ、コートや鞄を手にする。抜き足差し足で室内を横切ると殊更にゆっくりした動作でドアを閉め、部屋の鍵をかけた。廊下へ出てからは、しずしずと歩む。戸口に到達した途端、三人共、転がるような勢いで外へ飛び出した。それから、私たちが玄関にもキッチリ施錠したのは言うまでもない。
朝のやわらかな陽射しと青すぎる空が眼に眩しく映った。
薄く霜が下りたような路面を三人でそぞろ歩く。何気なく見回すと、ところどころで木の葉の重なる陰に見え隠れしている白いものが目についた。光を受けて煌くそれらに二人の先輩も気づいたようで、首を捻っている。
夜中に雪が降ったのだろうか。
「路面の濡れ方からすると、途中から雨になったんやろうな」
足許を確かめつつ、望月先輩が腕組みする。「そうやな」と頷いていた織田先輩は前方を指差した。
「あれ・・・あそこにも積もっとるわ。結構な時間、降っとったんかもなあ」
よく注意して見ると、日陰になっている場所にはそれなりの積雪が残っている。陽が昇ってきたとはいえ、気温はさして高くないから、今暫く溶けないで残ることだろう。
「あの二人―――もしかしたら、夜中に降っていた雪を見ていたかもしれませんね」
ふと、思ったことを口にした。両先輩は一旦顔を見合わせて、ゆっくりと私の方を見返した。
三人して目を合わせた途端、なぜか笑いが洩れる。
私たちの間で『何か』が弾けた。
クスクス、クスクス―――吐く度、白い靄と化す息にも煽られつつ、三人して一頻り笑い合う。
くすぐったいような感触は、後から後から湧き上がってきた。暖かい気持ちが身体の隅々まで拡がってゆくような気配は辺りを包み込む。新年の幕開けに相応しく、爽やかな幸福感が今ここに在ることを私たちに知らしめるかのようなひと時だった。あわや約束の時間を15分経過するかという頃になって漸く、江神さんとアリスが走ってやって来た。二人揃って頬を上気させ、荒い息遣いと上下する肩を懸命に落ち着かせようとしている。彼らがこうして出てこられた以上、やはりアリスが合鍵を持っていたということになるだろう。
一人一人に頭を下げて回った同級生の目許が微かに潤んでいて、やけに艶やかな色味を醸し出していたし、「遅うなって、すまん」と謝った部長の顔も少し赤かった。
そう、それらが単に疾走してきたからという理由だけではないことくらい、私たち三人にも判っている。けれども、詮索はしない。あなたたち二人が幸せならば、それでいいのだから。
私はにっこり笑って促した。
「さあ、初詣に行きましょうか」
共に英都の学生でいられる残り少ないこの時を一緒に過ごし、五人揃っていればこその楽しさへ浸る為に。
すっかり昇りきった太陽に照らされて、私たちの足許では色濃い影が踊り出そうとしていた。(2001/1/25)
へ戻る
………ごっ、ゴメ…(絶句)
毎度のことですが、「なんでこんな展開になったんだろう???」というのが脱稿後の正直な気持ちでした。当初の予定だと、アリスsideは"クスクス笑い合った後、毛布越しに抱擁"するところで終わりだった筈なのですが―――
元凶はモチなんですよねぇ(ちょお待てや、なんで俺のせいやねん!!! By 望月周平)←だって、アンタがしょうもない推理合戦をマリアに吹っかけたからなんだってば〜! 科白削るのにどれだけ苦労したと思ってんのよう(しくしくしく) 信長が起きてくれた時にはホント助かったよ、ありがとう信長(爆笑)
そういうことでマリアsideの字数が果てしなく予定超過してしまい、バランス取りたくてアリスsideへ書き足したら、こ、こんなことに……(遠い目)
えーん、江神さんがあんなことするとは思わなかったんですよう!!!!!←言い訳 っていうか、こんな話書いた私が悪いんですよね。エガミスト及びアリスファンの皆様、どうか許してくださいー(号泣)
それにしても、江神さんとアリスにはツライ(?)思いをさせてしまいました。大反省。
あと、西陣の下宿および部屋の鍵についてなんですが。基本的には『瑠璃荘』(モチの下宿)と同じような形態かなぁと思うんですね。今後、原作世界に於いて何か新事実が発覚した場合は手直しすると思います。
![]()