たとえば、愛  前編




たっぷり10分オーバーして、二講目がやっと終わった。一刻も早く学食へ駆け込み空腹を満たしたい飢えた学生たちが、我先にと教室の出口へ殺到する。その後方で苛々しながらも、私はとりあえず人波がおさまるのを待つことにした。
いつもそんな私を「せっかちやなあ」とたしなめるアリスは、この授業を選択していないので、今ここにいない。我が英都大学推理小説研究会―――通称EMCの定位置である学生会館二階ラウンジの席で、既に先輩たちとダベっている可能性が高いと思われた。
この時間、望月、織田両先輩がどうしているかを私は知らなかった。だが、最低でも江神さんとアリスはあの席にいる筈だ。もしかしたら四人揃って、私があたふたと駆け込んで来るのを今か今かと待っているかもしれない。
いつからか、部員みんなして昼時にあのラウンジへ立ち寄るのが慣習となっていた。
顔を合わせたからといって、必ずしも五人でランチを摂る訳ではない。場合によってはそれぞれ約束や都合があったりもする。だから顔を出すのは、その日銘々がどんな予定を立てているかとか、何か面白い『謎』があったかとか、その手のことを確認するためのようなものだった。
専用の部室があるなら其処へ行けばいいのだろうけど、部長以下総勢五名の弱小サークルにそのようなものは与えられていない。それで、部室代わりに占有しているも同然のラウンジ一番奥の席へ陣取るのが恒例となっていた。
とはいえ、文学部四回生一人に経済学部三回生及び法学部二回生が二人づつ、という人員構成からすると、朝夕は授業が有ったり無かったりで、時間も合わせにくい。その辺りの事情も鑑みた結果、人間三大欲の一つである食欲が疼きはじめるこの時間を目途に自然と集まってくる、という次第である。
さて、その推理小説研究会の実態だが、ミステリ好きのおしゃべりクラブという感が強い。一応、文化系サークルなのだから、創作に励んだり評論をものしたりと、やることがありそうだが、聞いた話では今までに機関誌の一冊も出したことがないのだとか。
尤も、上洛後二度目の春にして我が部の存在を知った私とは違い、一年の時からここへ所属しているアリスは、昨年の夏休み、先輩たちと共に大変な事件―――矢吹山で起きたあの事件である―――へ巻き込まれてしまった。そのダメージがかなり大きかったであろうことは想像に難くない。それ故、上梓される筈だった機関誌創刊号は幻となったのかもしれなかった。
烏丸通を渡り、学生会館へと急ぐ。二階への階段を駆け上がるようにして昇ると、ラウンジ入り口付近で見慣れた二つの後姿と遭遇した。
「モチさん、信長さん!」
私の声に驚いてか、二人が揃って肩をビクリとさせ、振り向いた。
ひょろりとした風貌の望月先輩は銀縁眼鏡の中から私を小さく睨み、シッシッというように手を上下させる。どういうことよ、失礼しちゃうとばかりにもう一人の先輩へ目を向けた。スカッと短い頭髪の織田先輩が唇へサッと人差し指をあて、そのずんぐりした体躯には不似合いな神経質さで「静かにしろ」というように合図してきた。何が何だか判らないまま私は二人の背後に近寄り、軽く背伸びして、その肩越しにラウンジ内を覗き込んだ。
ベランダへ面した窓際の席には、江神さんとアリスがいた。後からやってくる部員を見つけ易いようにという配慮からか、二人ともこちら向きに並んで腰掛けているけれど―――なにやら話が伯仲しているようで、出口付近の私たち三人には、全く気がついていないらしい。
「あら、江神さんもアリスも、もう、いるんじゃないですか。なんで、入っていかないんです?」
この時間だと、ここでお弁当を広げる人たちも多く、室内は殆ど満席状態である。席を確保するだけして、飲み物や食料そのものを買いに出入りする人々の往来も結構激しい。他人の邪魔にならないように、私は先輩たちを引っ張って戸口からやや離れた場所へ退いた。
それでもその位置からは、中にいる二人の様子がよく見渡せた。
アリスがなにか、一所懸命に江神さんへ話している。身振りや手振りが入っていることからでも、熱の入りようがよく判る。対する部長の方は、にこにこしながらそれに耳を傾け、時折、言葉を挟んでいるようだ。
三人とも暫く黙って、その様子を見守った。
どうして、入っていかないんですか―――という質問の答えは、無用だった。だって、入っていけないのだ。
五人でいる時とはまた違った、それぞれの顔。瞳を輝かせて無心に語るアリスと、その彼を優しく見守る江神さん。二人とも、本当にいい表情しているんだもの。
「あの二人のあんな顔、初めて見ました・・・」
ポツリと呟いた私の言葉に、まず望月先輩が反応した。
「なんや、邪魔しとうなくなってな」
「江神さんもアリスも―――それぞれ、互いにしか見せへん顔やろ、あれは・・・」
織田先輩も少しきまり悪そうに告げる。
私は大いなる賛意を込めて、頷いた。
「―――いつからや?」
織田先輩の一言に望月先輩が「うーん」と唸る。
「去年はそうでもなかったやろう。いろいろ事件もあったし・・・今年に入ってからと、違うか」
実は、私も薄々気がついていた。入部したてで右も左も判らなかった頃は思いもしなかったことだけれど、五人で行動する回数が多くなってから、徐々にそれを感じ始めた。
例えば、喫茶店や居酒屋での席順など。そもそも織田先輩と望月先輩が同年同学部だから、自然と江神さんの隣にはアリス、ということになる。紅一点の私は、その時誰かが欠席していない限り、一人お誕生日席を占めるのが常なのだ。
何しろ、片手分しかいないサークル仲間である。部員同士の仲睦まじさはちょっと自慢してもいいのではないかと思うほどだ。尤も、この人数で誰かを気にくわないと思うようだったら、即刻退部しているだろう。大人数サークルが抱えがちな『派閥問題』とは無縁でいられるのが、弱小サークルの良さでもある。
それにしても、江神さんとアリスは本当に仲がいい。よく二人で雑談しているし、休みの日も時々一緒に古本屋を巡って文献渉猟しているようだ。単に相性の良し悪しだけではないだろうというのは、他の部員の目から見ても明らかだった。
あの二人がお互いを想いあっている―――それは間違いようのない現実としか、思えない。そして、そんな考えに到達したのも、どうやら私だけではないらしい。
研ぎ澄まされた観察眼と人並み外れた猜疑心を持ち合わせることを要求されるミステリ好きならではの穿ったものの見方と言われればそれまでだ。しかし、三人が三人ともそう感じるのなら、あながち的外れでもないだろう。
まるで、至福の一時とでも評したくなるような二人の様子を目の当たりにした私は、そっとしておいてあげたいという気持ちになっていた。だって、校内に於いて部長とアリスが二人でいられる時間は、そんなに多くないのだから。
部員同士の団結力が殊更に強い我が部は、何かというとすぐ寄り集まる。皆がうろうろしてそうな場所も限られているから、このラウンジか、生協の書籍部、或いは図書館へと当たりをつけて赴けば、よく見知った顔と対面できる。だから、彼等が運良く自分たちだけの時間を持てたとしても、其処へすぐ、三人の中の誰かが合流してしまうのだ。
あの二人がああまで楽しげに話し込んでなかったら、私たちも迷わずいつもの指定席へ足を向けているだろう。だけど、こうして極上の笑顔を垣間見てしまった以上、そうすることが躊躇われた。
「で、どうします? いっそ、このまま回れ右しますか?」
多分、目の前の先輩たちも同じように感じている筈だと感じたからこそ、私は言葉を投げた。それに、いつまでもここにこうして突っ立っている訳にはいかない。さすがに空腹を我慢するのも限界だった。
「そ、そうやな」
部屋の奥へずっと視線を向けていた望月先輩が我に返り、私への同意を表明した。
だが、織田先輩がしまったというような顔をして、
「・・・そら、できん。今朝、江神さんとおうた時に夏合宿の相談したい言うてたから、顔出さな」
と発言し、この気遣いを実にあっけなくひっくり返す。
三人揃って、小さく溜息を吐いた。
ごめんね、お二人さん―――
私たちはそれぞれに向かって頷くと、ラウンジの入り口へ引き返した。そして、さも今来たばかりだという風情を装いながら、わざと足音高く室内へなだれ込んだ。

結局、五人まとめてラウンジ隣の生協喫茶室『ケルン』へ移動した。ここはセルフサービスとなっているため、銘々が好きなものを盆に取り、会計を済ませる。昼休みも残り少なくなってきているので、私たちはまず黙々と空腹を満たすことに専念した。
食べるだけ食べてしまってから、やっと、今年の夏合宿についての話題を江神さんが一同に切り出した。
場所については全く未定であること。日本列島民族大移動時期の一つに当たるお盆の頃は帰省してしまう部員もいるので、そこを避けての日程となるだろう等等。今年の新入部員である私に説明するつもりもあってか、一応の合宿目的や課題などを部長は要領よく話し終えた。
一昨年の夏休み、先輩たち三人は金沢のユースホステルに連泊し、能登半島にまで足を伸ばしたのだそうだ。その頃、アリスと私は受験勉強の真っ只中だった。
そして翌年(つまり去年のことだ)、アリスを迎え入れて総勢四名となったEMCは、望月先輩の地元・和歌山で合宿を行った。更にその夏、矢吹山でキャンプを張り、過酷なアウトドアライフを嫌というほど体験させられることになる。
「今年はマリアもおることやし、テントは無しやな」
織田先輩が神妙な顔で呟いた。
それを聞いた私以外の全員が、気まずそうな表情になった。おそらく、昨年の惨劇をそれぞれ思い出したに違いない。
一瞬訪れた沈黙を振り払うかのように、アリスが明るい声でこう言った。
「今年の夏は、どこか、うんと遠くへ行きたいですね」
「そうやな、遠いところがええなあ」
望月先輩も心からそう思っているようだった。
「まだ、最終決定せなあかん時期でもないからな。みんな、行きたいとこがあったら、言うてくれていいぞ。聞くだけは聞いて、一通り検討するつもりや」
部長がとりあえず話を締め括り、私たちは辛うじて昼休み時間内に喫茶室を後にすることができた。

それから暫くして、望月、織田両先輩と私は、鴨川べりの喫茶店『リバーバンク』の扉を推していた。今出川通から河原町通を経由した後、荒神橋まで南下して漸く辿りつけるここは、一度アリスと二人で入ったことのある店だったが、キャンパスからかなり離れた場所にあった。三講目の授業へ出席しているアリスや午後いっぱいを奈良は十津山古墳発掘調査助手のアルバイトに費やす江神さんが、この時間に講義の無い私たちの元へ現れるということは考えにくいのだけれど、我が部行きつけの喫茶『リラ』を使うのはなんとなく気がひけたのである。
窓際の席へ案内されると、私たちはまず注文を済ませた。アルバイトらしいウェイトレスがテーブル前から離れたのを合図に、私は向かいへ並んで腰掛けている先輩二人の方へ軽く身を乗り出した。
「さっき、去年はそうでもなかった―――って、モチさんが言ってましたけど・・・何か、はっきりと判る変化があったんですか?」
単刀直入に問いかけた私を前にして、先輩方は互いの顔を見合わせた。
「その前に、聞きたいことがあるんやけどな―――」
おもむろに織田先輩が口を開いた。
「マリアが言いとうなかったら言わんでもええけど―――マリア自身はその・・・江神さんとアリス、それぞれに対して、どう思うとるんや?」
「それは・・・私が、江神さんやアリスを男性として意識しているか、ということですか?」
「そうや」
ストレートに肯定される。つまり、女性の私があの二人に所謂恋愛感情を抱いているかどうかということを確認したいということだろう。
入部して以来、アリスと行動を共にすることが多くなった私は、クラスの女の子から時々冷やかされたりもする。けれども、私にとって、アリスは気のいい男友達に過ぎない。今まで読んできた推理小説の読後感やそれに拘わるトリック談義などを延々と続けられるのが楽しくて、自然と一緒にいる時間が増えただけなのだ。しかし、それをいくら彼女たちに説明しても、いっかな理解してもらえないでいる。
江神さんについてもまた然りである。七つ年上で、穏やかな賢者の目をした先輩は、三年前に亡くなった従兄弟を彷彿とさせた。だから、兄のような江神さんの存在に私は強く惹きつけられたが、ただそれだけのことだ。
私はそういった気持ちを今ここにいる二人の先輩へ、できるだけ判りやすく説明した。
「そうか・・・なら、ええんやけど」
質問者がこちらの解答に安堵したらしいことを感じた私は、最初の問いをもう一度繰り返した。
織田先輩がぽりぽりと頭を掻きながら、
「―――規則正しく、往復しだしたんは、今年の2月くらいやったか?」
確認するような口調で、望月先輩に同意を求める。望月先輩は軽く目を瞬かせた後、考え考え話し出した。
「確か―――1月の終わりに、御所の南側で飲んだことがあったやろう。あん時、アリスが俺のところへ泊まって・・・それからやと思うぞ」
「? どういうことですか?」
何のことだか、さっぱり判らない。苛々し出した私を織田先輩が「まぁ、待て」と制した。丁度、ウェイトレスが飲み物を運んでくるところだった。



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すいません、字数の関係でページを分けた方がいいと思い、こうしました。
ということで、続きを読んでください…