傘 前編
厚い雲の連なりが、とうとう本格的に雨を降らせはじめた。
やはり間に合わなかったか。私と行動を共にしていた織田が思いきり顔を顰めて、呟いた。
「こら、あかんわ」
手荷物の中に傘などという気の利いたものは無い。私たちはそれぞれ肩に掛けたり手に下げていた鞄を胸元で抱きかかえるようにして、走り始めた。目指すは数メートル先に見えているコンビニエンス・ストアだ。
店の軒先でざっと露を払った。見上げる曇天はその色合いをますます鬱陶しいものへと変化させている。暫く、ここで雨宿りさせてもらうしかないだろうという意見を一致させた私たちは、店内へ足を踏み入れた。
すぐ近くを堀川通が走っているとはいえ、少し中へ入ったこの辺りは日中それほど人通りの多いところではない。しかし店の中には相当数の先客たちがいた。突如、降り込められて、雨具を用意していなかった人々がこの店へ飛び込んだのだろう。
織田と私は揃って道路側に面した雑誌コーナーへ移動した。別に立ち読みしたいものがあった訳ではない。ガラス越しに空模様を窺おうとしてのことだった。
「参るなぁ、これは・・・傘無しでは外を歩けないやないか」
そう嘆いた私を織田がねめつけてきた。
「お前が八萩へ行く言うて猪熊まで足を伸ばしたから、こんな目に合うたんやで。少しは責任を感じたらどうや」
「何や、人のせいにするとは男らしくないな。信長、お前かて俺の提案に同意しよったくせに」
私が言い返すと、往生際の悪い男はまだ言い募った。
「寺町から引き返してたら、ギリギリ降られんで済んだかもしれんやないか」
「ぬかせ、この時間やろ。どう考えても無理や。岡崎まで辿りつけたかどうか、怪しいもんやな」
採り損ねた行動を論じていても始まらない。私たちは揃って忌々しげに外を見遣った。
腕時計に目を走らせ、溜息を吐いた。まだ16時前にも拘わらず、天は宵の口のような薄暗さである。
私、望月周平と同期の織田光次郎が、平日のこの時間、英都大学以外の場所にいるのには訳がある。本日、たまたま二講目と三講目が休講なのだ。
尤も、最初から休講が決まっていたのは三講目だけである。元々四講目に講義を取っていない織田と私は、一週間ほど前に判明したその空き時間を利用して古本屋巡りへと繰り出すつもりでいた。そこへ突発的に二講目休講のニュースが舞い込んできたのである。
普通に授業がある筈の先輩・江神二郎部長や、有栖川有栖および有馬麻里亜という凡そ日本人らしくない名前を持つ後輩達から渡された探し本の一覧を預かりつつ、まずは西京極に新しく出来たという古書店―――その名も『西京極書房』へ歩を進めた。マリアが仕入れてきた情報によると、カルトなミステリ本が店の一角を占領しているらしい。
だが、結果は大はずれであった。
確かに、棚の何列かが俗に推理小説というカテゴリに類されるもので埋まってはいた。取り揃えている作家の顔ぶれを見ると、カルトといえなくもないような気はするものの、私にしてみれば全く食指が動かなかったのである。
筋金入りのハードボイルドファンである織田も、この店の品揃えには満足しなかったようだ。私たちは早々に其処から引き上げた。もちろん、頼まれたリストに見合う本の有る無しをきちんとチェックしてからだったが。
京都一の賑わいを誇る河原町まで戻ってから、昼飯を食した。まだ、一冊も購入できていないせいか、午後は寺町通の古本屋を当たってみようと話がまとまった。今、思うと、この頃から天候は怪しい雲行きを見せ始めていたのだが・・・朝方は抜けるような青空が眩しかったので、織田も私もそんなことはすっかり失念していたのだ。
五条河原町から御所へわたって南北に走る寺町通界隈には多くの古書店がある。学術書や古典籍を扱う、ある意味で由緒正しい店構えが多いとはいえ、普通に古本を扱っている書店もそれなりに存在している。普段、じっくり見て回る時間になかなか恵まれない分、好機到来というところだった。
古書籍一般を手掛けている書店中心に数箇所、見て回った。
その中の一店に於いて、織田はハメットの短編集を手に入れた。絶版になって久しい『探偵コンチネンタル・オプ』は、保存状態も良好だった。値段もそう高くなく、かなり喜ばしい収穫となった。
更に同じ店で、頼まれ本へ該当するものを二冊発見し、取り置きを頼むこともできた。中には取り置くのをいやがる店主もいるから、これはラッキーだと言えよう。
というのも、古本の場合、例え数百円の値であろうと下手に立て替え購入しないというのが、我がサークルでの決め事なのである。
古書は新刊と異なり、様々な形態が存在している。ついている価格にも開きがあるから親切心で買取ってきてやっても、「こんな状態のものやったら、いらんかったのに・・・」という行違いを生じさせる確率が高い。それで、可能ならば取り置きをお願いし、探している本人が実際に本を見て、買うかどうかを決断するということになっているのだ。
さて、相方の幸運に比べると、こちらの方は一向に揮わない。
実は今回、私の真の目的はミステリ作品の渉猟ではなく、ある詩集を探し出すことだった。
志度晶という詩人の名は、まだそれほど世に出てはいない。いわば、知る人ぞ知る新鋭という存在か。彼の綴る言葉の並びは私に強い衝撃を与え、それまで『詩』というものをほとんど読んだことのなかったこの身をぞくりとさせた。
同じ高校から英都へ進学した文学部国文科の女友達から借りて読んだのが、その詩人を知るきっかけとなった。
彼女の話だと、貸してくれた詩集『血時計』の他に『光る池』という書名のものがあるとのことである。しかし、本屋に注文しても品切れで、なかなか手に入らないらしい。「よし、俺が見つけてやろう。古本屋回りは得意技やから」と請け負ったのは、つい最近のことだった。
低い位置で垂れ込め出した雲の量を気にしつつ、私は猪熊通の八萩書店へ行きたいと織田に申し入れた。
八萩書店は単行本や文庫本などを幅広く扱っている古本屋で、文学作品に強い。期待以上のものを一足先に得られたという余裕からか、織田は二つ返事で了解してくれた。そして寺町通を後にした私たちは、烏丸通と堀川通を過ぎた先の猪熊通まで遠征することにした。
だが、目的の八萩書店へ残り数百メートルというところまで来て、突然の夕立が私たちを襲った。少し前より遠慮がちに小雨を降らせていた天空から大きな水滴が一粒二粒、落ちてきたかと思うと、すぐさま地面を強く叩きつけるほどの豪雨へとなり変わったのだ。先般までなんとか傘をささなくても歩ける状態だった街は、あっという間に激しい連打音を奏でる水飛沫の中へ埋没させられた。
油断していた私たちが間抜けだと言われれば弁解のしようもない。とにかく、織田と私は目についたこの店まで一目散に走ってきたという訳だ。
やや蒸し暑い外気に対して調整してある店内の温度が、走って軽く汗をかいた肌に気持ち良かった。
店の奥の方には高校生らしいグループが陣取っていたし、棚から棚へと徘徊している落ち着きのないサラリーマンもいた。しかし彼らの立てる音や話し声は、それほど煩いものでもなかった。この店で傘を買い求め外へ戻って行く者もいたが、大半は私たち同様、ここで雨をやり過ごそうとしている連中だからであろう。一時的に風雨を凌がせてもせらっているのだという謙虚さを皆が持ち合わせているようだった。
織田と私は入口右手奥の陳列棚前で雑談しながら、時間を潰していた。だが、大雨はなかなか止む気配を見せない。私たちがこの店へ避難してきてから既に三十分以上が経過している。まだ店内に残っている多くの人々も、徐々に居心地の悪さを感じ始めているらしい。
降りしきる外界を見つめていた織田がこちらへ顔を向けた。
「モチ、どうしても八萩へ行く気か?」
せっかくここまで来たのだから、やはりなんとかして寄って行きたいものだ。私がその旨を告げると、
「いっそ、ここのビニール傘を買うたらどうや。後少しの距離やろう」
と言う。
「うーん、それはそうやけど、もう少し待てば止むかもしれんしなぁ。もし、探している本が八萩にあって、たかだか380円程度の出費に足許救われたらかなわんやろう。無駄な支払いは避けたいな」
『光る池』にどれくらいの値がついているか、まるで判らない。品物の回転が早い八萩書店の場合、取り置きをしてくれないということも知れていた。ならば、購入資金については万全の体勢を整えて臨みたいではないか。
「ま、そらそうだな」
相方はすぐに納得したようだが、今度は、
「江神さんの授業、今日はどうなっとったか、覚えてるか?」
と、不可解なことを訊いてきた。
「部長のスケジュール? そんなもん、俺が知る訳ないやろう」
アリスじゃあるまいし、という一言が危うく飛び出しそうになる。
英都大学推理小説研究会の部長を務める江神さんと私たちの一年後輩にあたるアリスとの間に、ただならぬ親密さが存在しているのは、我が部内では周知の事実である。といっても総勢五名から当事者二名を引いた残り三名―――即ち、織田とマリアと私の間で、という意味に過ぎないが。
気になる相手に対してなら些細な事柄であっても興味を持つからか、江神さんもアリスも互いの行動をかなり正確に把握している。だから、江神さんに尋ねればアリスの、アリスに訊けば江神さんの、選択している授業やバイトの有無が概ね判るということなのだ。
「そうやろな・・・あぁ〜、アリスがおったら一発で判ることなんやけど」
質問した本人も、その実、私同様にそれを頭の中へ思い描いてはいたらしい。
とはいえ、彼から先程繰り出された質問の意味を今一つ掴めていない私は、逆に訊き返した。
「けど、江神さんのスケジュールが何で必要なんや?」
「ここは西陣の近くやろ。この時間、部長が下宿におってくれれば、傘、借りることができるかもしれんやないか」
答えながら、織田は短髪の頭をぼりぼり掻いた。
なるほど、そういうことか。
アリス以外の部員にも満遍なく優しい部長のことである。頼めば傘の一本や二本、この店まで持ってきて貸してくれるだろう。尊敬する先輩をこき使うような真似はしたくないという気持ちもあるのだが、いつまでもここでこうしている訳にはいかない。江神さんから頼まれていた『ガモフ著作集』上下巻揃っての取り置きに成功したという報告とで相殺してもらうか、などと姑息な取引も思いついた。
「それやったら、江神さんの下宿へ電話してみようかな」
店外の公衆電話に向かって、私は歩き出そうとした。その時、肩にかけていた鞄が突然強い力で引っ張られた。
「おい、信長! 何するんや?!」
驚いて少なからぬ大声を上げた私の腕を引っ掴んだ織田は、「しっ」と人差し指を立てた。私の身体はそのまま引き摺られ、奥棚の方へ移動した。
「・・・あれを見てみぃ」
織田が顎で指し示す方向へ視線を這わせると、青い傘がこのコンビニへ向かって歩いてくるところだった。更に目を凝らし、傘の中で肩を寄せ合っている二人に焦点を合せた途端、私は織田が取った行動の理由を速やかに理解した。
江神さんとアリスだった。
慌てて、時刻を確認した。四講目終了から大分経っている。だが、それを別に不自然だとは感じなかった。この雨の中を足許や身辺に気をつけながらのろのろと歩いてきた場合、江神さんがこの辺りを通過する時間としてはそう悪くない。
しかし気になるのは隣りにいるアリスの存在だ。
「何で、一緒におるんや?」
「知らん」
私の漏らした独り言に、織田が即答した。
「それよか、あの二人がこの店に来るつもりやったら、まずい。おい、モチ、もっと奥へ行くぞ」
言われるまでもなかった。
せっかく一緒にいるところを邪魔するつもりは毛頭無い。出来れば顔を合わせない方がいいという判断は、もはや本能の告げる声である。
織田と私はそろそろと店内を移動し、弁当やサンドイッチが並べられている一番奥のコーナーを物色しているかのような姿勢をとった。時々他の棚へ目を向け、品揃えの確認中というふうに装うことも怠らない。そうして、彼ら二人の動向を屋内から窺った。
こちらの存在には全く気づいていない先輩と後輩は、店の外側までやって来ると、全面ガラス張りの壁へ並んで身体を預けた。さしていた傘を一旦、閉じたらしい。
私たちが見守る中で、二人は奇妙な行動を取り始めた。
アリスが持っていた鞄に、江神さんが自分の持ち物を入れている。
閉じられた青い傘は、もう開く必要もないというようにきっちり巻かれた。
そして―――あの二人は顔を見合わせ、笑顔で頷いたかと思うと、大降りの中へ飛び出していったのだ。
残された私たちは店内で呆然としつつ、その後姿を見送った。
織田が呻く。
「何や、あれ?」
訊くな。心の中で相方にそう言う。言葉を失った私たちは暫くその場へ佇んだ。
ロケーションを考えると、二人が江神さんの部屋へ向かったのは間違いなさそうである。それはまあいい。しかし、なぜ彼らが行動を共にしていたのかという謎が頭を擡げてくる。細かいことは断言できないが、二人揃って四講目を受けていたという偶然はまず無いだろう。三年目の文学部四回生とストレートの法学部二回生が選択している授業数の差を考えれば、当然導かれる推理だ。
ならば、どちらかが相手を待っていた、ということか。
「まあ、えらい大雨やし・・・例えばアリスが部長を送っていってるとか―――多分、そういうことなんやろうけど」
私の発した言葉を聞きつけた織田が、眉根を寄せた。
「こないに降っている中をか? 随分、ご苦労さんなことやな」
「ええから、聞けや―――今朝、一限が終わった後で、江神さんにおうたやろ。そん時、部長は傘持ってなかったやないか。俺たちは今日、アリスと顔合わせてへんけど、あいつが傘を持ってたとしたら、結果が見えてくるやろう」
「傘くらい、何処でも買えるやないか。あれはそのへんで買うたもんかもしれんで?」
「いや、違うな」
私は織田の切り返しに反駁しながら、何かが引っ掛かっているような違和感を覚え始めていた。
「あの傘は、こういったコンビニで買えるようなもんやないぞ。しっかりしたつくりの―――いうなれば、デパートの雨具売場で扱っているような種類や。まあ、仮に今日買うたもんやとしても、大学を出て、この、もの凄い土砂降りの中をわざわざ河原町くんだりまで歩くと思うか? それに・・・あの傘は―――」
不自然に言葉を切った私へ、織田が訝しげな視線を寄越した。しかし、私はそれを無視した。
頭の中が何かを懸命に思い出そうと試みていた。
あの青い傘をどこかで見た記憶がある。それが何時、何処でだったのか―――
「そうや!」
突然、声を張り上げた私に相方の「大丈夫かいな」というような表情が向けられた。
「あれ―――あの傘・・・あれはアリスのもんでもないぞ」
「そんなら、一体、誰の傘なんや?」
勿体をつけるなと言いたげな織田に向かって、私はゆっくりと持ち主の名前を告げた。
「マリアのや」
聞いた織田はぽかんと口を開いた。
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すいません、今回も長いです。延べ数時間の出来事なのに(涙)
申し訳ありませんが、続きを読んでください…
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