すべてがそこにありますように。 1
07:11 大槻 沢子
年が明けて、早くもひと月が飛び去った。毎日は忙しなく、気がつくと一日が終わっている。勤務している天真楼病院を出られるのはとっぷりと日暮れて更に数時間経ってからであり、平時はどうしても仕事漬けにならざるを得ない。それでも行き帰りの街角で、ショーウィンドーの飾り付けやすれ違う他人の交わす会話の内容から、僅かに季節感を確認できることがある。
二月に入ればすぐに節分、その後に、バレンタイン・デイがやってくる。
いつからか日本では、この日に意中の相手へチョコレートを贈ることで愛を告白するという、不可思議なイベントが執り行われることとなった。昭和三十年代に"女性から男性へチョコレートを贈る"というプロモーションが大々的に為されて以来、お菓子メーカーの経営的戦略にうまく乗せられた人々は多かれ少なかれ、この行事に振り回されているのだ。尤も『バレンタインにはチョコレートを』というのは日本独自の風習で、欧米では、花束やアクセサリーにカードを添え、しかも男性から女性へ贈るのが一般的らしい。我が島国では海外の慣習が妙なぐあいに発展した挙句、特有な文化となってゆく。
通勤途中で目にする界隈一の老舗デパートでは、今昔の乙女心を刺激しようと様々なフェアや特典を展開している。その、華やかなディスプレイを視界の隅に捉えながら、大槻沢子は浅く溜息を吐いた。
(今年もあげる人、無し、か・・・)
五年間付き合った恋人と別れて以来、色恋にはとんと縁がない。
結婚の約束までしていた相手をふったのは自分の方だった。当時はそれが最良の選択だと信じてそうしたのだが、今、改めて考えると、果たしてその行動が正しかったのかどうか、自信が持てなくなる。頭では、変えられぬ過去を引き摺っていても不毛なだけだと心得たつもりでいるけれども、実際のところ、そんなにスッパリと割り切れるものではない。それというのも、元恋人の司馬江太郎とは一日と置かず、院内のあちこちで顔を合わせるからである。
沢子が現在の勤務先から内定を貰った時には、まさか彼と一緒に働く日が訪れるなどと思ってもみなかったし、それ以前に、自分達の未来が破局するなど予想だにしなかった。全くもって、人生には何が起こるか判らぬものだ。
どちらかの不実や隠し事の発覚など、何らかの背信ゆえに決裂したのなら「顔も見たくない」となるかもしれないが、一種の心変わりが原因で離れた恋人達の場合、対面した時に少々気不味さを感じる程度だ。それも再会した直後のことだけで、司馬との関係性は、今や軽口を叩けるまでに戻ってきている。
そして約二年前、カンザス大大学院から第一外科へと赴任してきた石川玄という存在が、別れたはずの男女の間へも少なからぬ影響を及ぼした。
『焼け木杭には火が点き易い』と言われることがある。決してそれを期待していた訳ではないけれど、つかず離れずの距離感を保った同僚としての元恋人との付き合いは(もしかしたら、やり直せるのでは?)という微かな望みをずっと沢子の裡に抱えさせていた。しかし、どうもそうはならないと―――司馬と石川が互いを"運命の相手"と認め合っただけでなく、あらゆる意味で共に歩き始めた―――と、彼女が確信するに至ったのは、昨年の晩春だったろうか。
そもそも石川に対し「先生だけは、司馬を解ってあげて」と訴えたのは、沢子自身だ。自分と司馬の恩師でもあり現在は天真楼病院外科部長に納まっている中川淳一を含めた多くの知己や共通の過去を有する沢子が側(そば)へ寄り添い続けるよりも、激しく衝突したとはいえ未だ知らぬ一面を多く持っているであろう石川との方が、司馬にとっては息苦しくならないのではないかと感じたからだ。ゆえに彼らの『今』は、全くの想定外という訳でもなかった。
おそらく司馬は、二人の関係に自分が勘付いたことを知っている。なぜなら、彼らと沢子の三人だけしかいない時と四人目の誰かが同席している時とでは、司馬の態度が明らかに違うからだ。また石川も、そういった司馬のくだけた様子に引き摺られる所為か、こちらの前でだけは気が緩むようで、随分と遠慮が無くなった。
そして昨今、沢子はその石川から度々、司馬とのあれこれを相談される事態に陥っている。司馬の嗜好などは直接、本人へ訊けばいいのに・・・と思うものの、元より口数が多くない上にすっかり捻くれているあの男が石川のストレートな問いかけへきちんと回答するとも考えられない。そんな訳で、問われればつい、恋人だった頃の経験則を伝授してしまっている。
石川が一所懸命、司馬を知ろうとしているのは確かで、何か訊かれる度、痛いほどに彼の想いが伝わってくる。そのこと自体はよい傾向であるし、沢子としても嬉しいのだが―――
(ホントに、もう・・・ああ、しょっちゅう来てたら、ヤキモチ妬かれるに決まってるじゃないの)
自身の言動が及ぼす影響の大きさを軽く見積もっているのか、或いはその辺りに全く興味が無いのか、思い立ったら即座に行動を起こす石川は他人の目をあまり―――どころか全然、気にしないタイプだ。本人はそれで一向に構わないとしても、彼へ関心を寄せる人々の中には少なからず心を掻き乱される者が存在するのは間違いない。そしてその筆頭ともいえる第一外科所属の研修医・峰春美のことを考えると、幾分、申し訳ない気持ちになる。
彼女が石川に片想いをしている事実は、第一外科の面々や外科担当ナース達だけでなく、病院関係者の一部にも知られている。そういった背景もあって、石川が峰と行動を共にしていても、大多数はそれを自然な組み合わせと捉えて特には気に留めなくなっていた。しかし彼の隣にいる女性が峰以外の誰かである場合には、多かれ少なかれ、皆の好奇心が刺激されてしまう。それが石川の天敵と見なされている司馬と浅からぬ縁を持つ女医とあっては尚更だ。
科の違う男女二人が業務とは関係ない部分で時間を共有しているようだと噂されるようになれば、真っ先に想像されるのが下衆な勘繰りであるのは、いたしかたないのかもしれない。かといって、自分達の会合内容を白状する訳にもいかなかった。身の証しを立てたいのは山々なのだが、麻酔科へ出向いてくる石川の真の訪問理由を明らかにしたところで到底、周囲にはそれを信じてもらえないだろう。
斯様な事情により自身が今、置かれている状況は限りなく不本意だとしか言いようがない。要らぬ嫉妬心を向けられてくる理不尽さに辟易しつつも、沢子としては、司馬という人物をより解ってもらおうと悩める石川へ手を貸し続けている、というのが実情なのである。
まったく―――人の世話ばかりやいて、自分の恋は後回しだ。
「来年は、誰かにチョコレート、あげたいな・・・」
思わず口をついた独り言には、自分でも苦笑する他無かった。チョコレート云々以前の問題として、憎からず思える相手を見つける方が先だというのに。
他科の同僚や日頃接している医療関係の業者など、気になる異性も幾人か、いることには、いる。先月、母校の東都医科大学から請われ、国試前の学生達への実践的アドヴァイスをスピーチしたのだが、その頃よりアピールしてくるようになった後輩や、時折「紹介してくれって、言われてるんだけど・・・」と遠慮がちに連絡してくる研究室の先輩など、それなりに引く手はあるのだ。けれどもなぜか、気持ちが前へ進もうとしない。
実は、そうなってしまう理由に全く心当たりが無いこともなかった。多分、新しい恋人候補と司馬とを沢子自身が無意識のうちに比較しているからであろうと、自覚もしている。
容姿に対する好みは人それぞれだろうが、大学時代の司馬ば主にそのルックスの良さから魅力的な男として、遍く周りに認められていた。全く接点のない女子学生から告白されたこともあったほどだ。しかし、お愛想を言ったり相手の機嫌を取ったりすることが不得手な部分を『つまらない』と感じる女性は意外に多く、司馬の外見だけに惹かれた人達はすぐに彼の傍を離れていった。
けれども、沢子の目には司馬のそういう不器用さが魅力的に映った。当時、自分を口説こうとしてきた男の多くが、口が上手いだけの中身が無い連中だったせいも大いにある。結果として、沢子の期待通り、口数は少なくとも真面目で誠実な青年との同棲生活は、幸福な瞬間(とき)を積み重ねていってくれた。そう―――あの事件が起こるまでは。
天真楼病院で彼と再会した時には、自分も耳にしていた『ドクター・ステルベン』という仇名に相応しい迫力を感じただけでなく、中川部長の許で好き勝手に振る舞う有り様に随分と違和感を覚えたものだ。しかし、再び司馬と会話するようになると、周囲が"傍若無人な性悪男"だと決めつけているだけで、彼の本質は然して変わっていないことへ思い至れるようになった。単に照れ屋で素直じゃないだけなのだ。そして気がつけば、偶さか、仕事帰りに一杯呑む程度の付き合いが復活していた。
そんな時に何を話しているかというと、大概は業務関連の情報交換―――直近で担当した症例や携わった加療行為など、一般人の耳には馴染みのない医療用語だらけのやり取りがほとんどであったものの、昨年あたりから麻酔科へ足繁く通ってくる男の挙動に関する話題も口の端へ上るようになった。司馬は司馬で、石川が沢子にぶつけてくる疑問の内容を気にはしているらしい。面倒くさいことこの上ないが、ドクターとしての本質的な部分だけでなく、大切な相手に対して上手く立ち回れないという点でも、充分、あの二人は似た者同士だと言える。
(本当に、手のかかる人達だこと・・・)
クスリと笑った心の裡に何やら暖かな気持ちが拡がっていくような感触を得て、沢子の目許にも柔らかな皺が寄る。
これからはきっと、石川が司馬の傍らにいてくれる。彼の隣を他人へ譲るのは少し悔しいけれど、一昨年の晩秋に突然、会ってくれと言ってきた石川の困惑と対峙した時点で、既に、己の持ちは決まっていた。
あの二人の間柄が現在のようなかたちへ変化するまでに果たしてどれくらいの時を要したのか、正確なところは沢子も知らなかったが、司馬も石川もやっと、互いを手に入れた。それは、初めて出会った時からずっと目を離せず常に相手を意識してきた彼らが、収まるべくしてそうなっただけのことだ。
思わぬ形で絡み合った彼らの今後がどのようになってゆくのかは、誰にも判らない。でも、あの二人なら大丈夫―――と、なぜか、そう思えた。言葉でその根拠を説明するのは難しいものの、とにかく、沢子にはそれが当たり前の真理のように感じられた。
だからこそ、自分は時折、必要に応じてあの二人へ関わるだけでよいのだ。まだまだ司馬の扱いに手を焼いているらしい石川と、その石川が沢子を頼ることを面白く思わない司馬との間で、今暫く触媒役を務めさせられることにはなりそうだが、彼らが自分を友人として遇するのなら、付き合い続けていくのは吝かではなかった。そうして、何だかんだで、司馬だけでなく石川とも一生、『縁』が続いてゆく自身の未来が垣間見えた気がした。
今日も院内で目にするであろう二人の外科医の姿が、脳裡をよぎる。
(午前中にオペ、午後はカンファレンスと・・・あとは―――急患次第かしら、ね・・・)
本日、予定されている業務へと己の思考を切り替え、相変わらずの多忙な一日と向き合う準備を固める。
気持ちを奮い立たせるように大きく深呼吸をした沢子は、天真楼病院の通用門へ向かって歩くスピードを上げた。To Be Continued・・・・・
(2023/6/3)
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−第1話に対する言い訳−
短期(じゃないかも・汗)集中連載です。1995年のバレンタイン・デイに起きた諸々の出来事について、時系列で書き始めたのですが…ちゃんと終われるかしら←今から不安になってどうする(殴)
まあ、テーマがテーマですので、どうしても女性キャラ中心ということになりそうですが、男性メインの回もある予定です。個人としての立ち位置や恋愛観等も含め、出来るだけ突っ込んで描けたらなあ……と思っているのですけど、さて、どうなることやら。
ということで、初回は沢子先生。相変わらず、司馬と石川から迷惑のかけられ通しな彼女を書いてみました(大笑)
どうも、"デキの悪い弟二人に挟まれて、何かと気苦労の絶えないお姉さん"というのが、当方『振り奴』世界でのデフォルト設定になってしまったようです。ホント、こんな役回りばかりでゴメンね、ウチの沢子…(って、ココで詫びてもね・爆)
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