天使が隣で眠る夜  1




その夜は、随分と冷え込んだ。
明日になれば月が改まり、出戻り職員を一人受け入れる予定の天真楼病院第一外科は、随分と静かだった。通常、誰かしら残っていることの多い宵の口だが、比較的何事もなく過ぎた一日の終わりは日頃オーバーワーク気味の背をそっと押して、大半の職員へ早い帰宅を促している。本日当直医の前野健次は『Emergency』のブザーが喚き出すまで、とばかりに早くも仮眠室の奥へ潜り込んでしまっていた。
誰もいなくなった医局内に一人居残っていた外科医の石川玄は、軽く溜息を吐いた。ブラインドの隙間から滲み出した西陽につい先程まで暖められていたデスクの表面が、今だ微かな温もりを漂わせている。
石川は明朝からまた一緒に働くことになる男のことを想った。
司馬と顔を合わせてから二十日近くが経過していた。あの、奇妙に安らいだ一時の記憶をなぞるたび、不思議な暖かさと幸福感が今もって律儀に己の中へと甦ってくる。過去、その男を前にして経験したことなど無かった感情であるが故に、それが揺るがない現実であることをこうして強く確信させられているのだ。
とりあえずは、司馬との間にごく普通の友人という繋がりを求めようと、石川は考えていた。三ヶ月間に渡って続けられた、互いを天敵と見做して激しい対立を繰り広げた日々は、今考えると余計な確執を産み落とし、院内のあちこちへ無駄な火花を撒き散らしてきた。しかし、その闘いの裏で、自分達二人が相手の真価をかなり正確に掴んでいたのには、いささか驚かされもした。やはり何処かで惹き合う部分があったのだと、考えざるを得ないだろう。
全ては、明日から始まる。
日付が変わって業務開始となるまでの時間が、刻一刻と減ってゆく。石川は、やがて訪れる瞬間を待ち焦がれている自分自身に戸惑いつつも、その状況を愉しむ心のゆとりへ意識を委ねていた。
元同僚に過ぎない彼が自分へ与えた印象はあまりに強烈なものだったが、この前の再会を経た今となっては、信じられないほどにその方向性を変化させていた。同じ組織で働くという、再び巡ってきた機会を前にして、何とはなしに浮き足立つような気持ちとなるのも、道理なのかもしれない。
以前の自分達が持ち合わせたものと、はっきり異なる想いを礎にして築かれる予定の関係は、一体、どんな人生を各々の上にもたらすのだろうか。人間の抱く様々なマイナス感情をぶつけ合うという経験が一通り為されてしまった相手だからこそ、これからはそれ以外の交歓が望める筈で―――そう思うと、気持ちに張り合いが生じてくるのだった。
その快い感情に気をよくする反面、心中にはよく判らぬ畏怖が同時に存在していて、ほんの少し石川を不安にさせていた。果たして、その畏れが何に根差すものなのだろうかと、懸命に考えてみたが、どうもすっきりした答えは得られない。
そう、この時点で、石川は己の根底にある深く熱い『何か』に対し、まったく無防備な状態だった。
尤も―――
それは、司馬の方もそうだったのだが。

石川が医局を後にして更に二時間後、司馬江太郎は退職してから今まで一度も足を運ばなかった天真楼病院の正面玄関を潜っていた。勝手知ったる院内を足早に抜ける。誰にも目撃されぬうちに目指す場所へ辿りついた男は、極めて短く扉をノックした。
「どうぞ」
室内からの返事を確認して漸く、外科部長室のドアを開ける。「遅かったですねぇ」と、少々待ちくたびれたような表情を巧妙に笑顔へと擦り替えた恩師の中川淳一が、出迎えてくれた。
「あちらの引継ぎ、思ったよりも時間かかったようですねぇ? こっちは当日着任でも良かったんですよ―――ま、ほとんど、何も変わっちゃいませんからね」
そう言いながら、中川は司馬の為にコーヒーを淹れ、手前に設えられている応接コーナーへの着席を目で促した。
白衣や名札、ロッカーの鍵等、とりあえず翌日からの必需品が次々と司馬に手渡された。
「待遇は、今まで通り・・・ってことで、理事長と話がついてますから」
司馬は黙って頷くとコーヒーを一口啜り、
「参事役は、どうなったんです?」
と訊いてみた。
「ああ、あれね―――第一外科は結果的に主任がいなくなっちゃったでしょう・・・かと言って、闘病中の石川君にやってもらう訳にもいかないですからねぇ―――今は、第二外科の中島主任にお願いしてますよ」
「中島先生・・・ですか?」
その名前の登場は予想外だった。何故なら司馬は、自分と同じ学舎出身のその外科医が来年の1月も上旬に東都医科大学のとある研究室へ戻ることを知っていたからである。
尤も、自分にとって母校は既にどうでもいい場所なのだが、現学長の脇坂が其処で采配を揮っている以上、諸々の動向を一応把握しておく必要があった。斯様な理由により入手していた中島の異動情報と照らし合わせて、当然予想される結果に思い至った司馬は、僅かに表情を曇らせた。
―――あと一ヶ月で、空席か・・・
何かを考え込むように表情を固まらせた教え子の真意を推し量ることもなく、恩師はちょっとばかり顔を顰めるとすぐに言葉を続けた。
「そう、それで・・・司馬君の着任から一週間遅れでね、第一外科へ一人、増員を計画しています。元々、今年の3月にカンザスから来てもらう予定だったんですけどねぇ―――いずれ君を戻すから、ということで、簡単に人を増やせなかったでしょう。先方にはかなり迷惑をかけてしまいましたが・・・まあ、これでやっと、平賀先生が抜けた後を補えますよ」
そういえばここを去る直前に、中川が「カンザスからね、ドクターを一人、招くことになりました」と言っていたことを司馬は思い出した。あれは石川が助かったことに引っ掛けてのジョークかと思っていたのだが、追い出した平賀の後任という位置付けなら話は別である。本当に予定されていた人事ということであり、きちんと平仄(ひょうそく)が合うのだ。
「歳は356、ですかね・・・年齢的にも丁度いいので、参事と主任を兼任していただこうと思ってます―――ひとつ、お手柔らかに、お願いしますよ」
カンザス大より受け入れた一人目の外科医と激しい悶着を起こした『前科』を持つ自分に対して、一応、釘を刺しておこうという心積もりだろう。そんな中川の最後の一言を司馬はあっさり無視した。尤も、言った方だって、こちらの反応くらい予想していたに違いない。
中川は、非難めいた視線を向けぬ代償の如くに辺りを憚りながら、再び口を開いた。
「あ、ひょっとして・・・また、なりたかった? 参事」
「―――ぜんぜん」
自分がいなくなった後、誰がここで参事兼主任となっていようが司馬にはどうでもいい話で、正に今の今まで気にしたことなど無い。ただ、先般「待遇はそのままだ」と言われたことが、主任で戻る訳ではないのに・・・という小さな疑問を引き起こしただけである。そして、現在、参事として外科全体を束ねている人物が年明け早々いなくなる中島医師であることを知った途端、自分が再び、彼(か)の地位へと祭り上げられ、その結果『変わらぬ待遇』となる可能性を考えて、憂慮したに過ぎない。
司馬自身、主任や参事という役職に特別な執着がある訳ではなかった。もしも、自分がここを離れた時と文字通り同じ条件を天真楼側から用意されたとしたら、却って厄介な事になるだろうと思いはしたが。
元の職場に於ける己の評判を考えれば、当然生じる筈の風当たりを避けたいという気持ちが、まずあった。そして、もう一つ―――二度と石川へ命令する立場を執りたくないという心理をも持ち合わせていることに、司馬自身は気がついていた。
二人の周りを取り巻いていた、不必要な思い込みや不毛な感情がかなり整理された今、司馬が望むのは石川と同じ位置だった。役職など、却って邪魔になるだけである。
現場を知っているという点では、確かに自分の方が先輩になる。だが、元々同年なのだから、医師としての経験は似たり寄ったりだ。それでも、石川が参事へ抜擢されると知ったあの時は、まだ様々な思惑が司馬を締め付けていた。自分と敵対する男へ部長が役職を与えようとした経緯は、己の目に手酷い裏切りの如く映り、ちょっとした策を弄させたのだ。
中川が昔、自身の中へ見ていた理想の外科医像―――それを受け継がせるべく手塩にかけて育てた愛弟子の、かくある姿を司馬ではなく石川に投影されたような気がした。恩師の眼差しが自分を通り越して、カンザスから来て間もない同僚にばかり注がれるのは司馬にとって屈辱だった。みっともないことこの上ないが、中川を取られたくない想いばかりが募り、気がつくと行動を起こしていた。
しかし、今やそんなことを思い煩う必要はなかった。己にとって父親の代わりとも思う大切な恩師がこの身を案じてくれているのは、きちんと司馬にも伝わっている。それは、昔も今もこの先も―――おそらく、ずっと変わらない。だから、自分はこうして戻ってきたのだ。
そんな司馬の心中を知ってか知らずか、当の中川は軽くその目を眇め、何やら別の感情を思い出したとでも云わんばかりにとってつけたような科白を繋げた。
「主任手当の差額埋合せ分をどうやって経理に納得させるかが問題だと、理事長が頭を抱えてましたよぉ。あんまり強情通しちゃ、いけませんねぇ」
役職を付けないで天真楼へ戻す以上、給与明細にあった手当の一つが減ることになる。だが、司馬はそうなることに異議を申し立てていた。帰ってきてまた主任だの参事だのをやらされるのは真っ平だったが、ここを辞める前と同じ額を貰う権利があると主張したのである。尤も、この件に関しては司馬が直接交渉したので、中川は後に理事長から散々イヤミを言われるという憂き目へ遭っていたのだった。
「自分を安売りするつもりは、ありませんので」
顔色一つ変えずに、司馬が嘯く。
「やれやれ、相変わらずですねぇ」
口ではそう嘆いてみせた中川だが、司馬を諌めるつもりは一切無かった。司馬の持つ卓越した技術や、こちらのいささか勝手な事情によって生じた復帰過程を考えると、一割乃至二割増しの報酬を要求する権利がこの教え子にあって当然だと、恩師は考えていた。
もちろん司馬本人も、中川が本気で自分に呆れているとは思っていない。いずれ戻される運命だったのは事実だが、冠状動脈肺動脈起始症のオペという無理難題を吹っかけられた天真楼病院は、半月強という短い期間で強引な引抜き人事を敢行したのである。
別に、山川記念病院へ未練があった訳ではない。だが、ある程度覚悟していたこととはいえ、大した準備期間も与えられず移籍を執り行われた身として、何某かの慰謝料を貰いたいと感じるのは無理もなかった。それを以前と同額の給与要求で折り合いをつけただけのことなのだ。
「さてと―――どうします? 医局へ寄っていきますか?」
夜もすっかり更けてしまっている。中川は壁掛け時計にチラと目をやった。
「いえ・・・大した荷物も無いですから。明日、整理しようかと・・・」
「そだね。勝手知ったる場所・・・ですから、ね」
約八ヶ月前のあの夜―――ボールマンW型アドバンステージのスキルス切除に成功した後、この部屋で交わした感情と全く違わぬものが二人の間を埋めていく。それを満ち足りた想いで確認した師と愛弟子とは、今一度顔を見合わせて微笑んだ。

1993年師走初日の朝は、粉雪が舞っていた。
やや厚みのある和紙を細かくちぎったような白いものが、どんよりとした上空から、はらはらと落ちてくる。これじゃ冷える筈だと思いながら、石川は定時より一時間早く、天真楼病院の通用門を通り抜けた。
夜勤を外されている己の勤務体系は、即ち日勤のみである。もちろん忙しい日は残業することもあるのだが、それも周囲の計らいで、かなり優遇されているといっていいだろう。時に残業を代わって貰っている身としては、せめて朝早く出向いて、誰が手掛けてもいいような雑用を片付けるくらいしないと気が済まなかった。
いつも一番乗りで開ける医局の鍵を受取ろうとして、石川は守衛室の小さな窓から声をかけたのだが―――今日はそうならなかった。昨晩泊り勤務だった若い警備員が眠そうな眼差しで、鍵は少し前に別の人間へ渡したと告げたのである。
「そうですか―――どうも」と言ってその場を離れた石川は、少々状況を訝しんだ。ひょっとして昨晩、何か非常事態が起こり、前野が今だ孤軍奮闘しているのだろうか。だが、それなら鍵が守衛室へ戻る筈がない。
当直医は通常、時間外勤務となって残っていたスタッフが帰ったのを確認した後、まず医局の表ドアへ鍵をかけて守衛室にそれを戻してしまう。そうして、医局内から直接行けるようになっている仮眠室で休みつつ緊急呼び出しに備えるも、その間は医局の扉ではなく仮眠室のそれを利用して廊下へ出るのが倣いだった。各担当とも一人体制がいいところの夜間だからこそ、時と場合によって無人になる医局をそのままにしておく訳にもいかないということで講じられた策である。
尤も、大半の夜勤者は明け方になってから軽く休憩を取ろうとして、その際に仮眠室の二つの扉―――医局へ通じる側と廊下へ直接出られる方とを内側からロックしてしまう。医局の鍵自体は守衛室に預けてあるから、引継ぎや連絡事項等を当直記録簿に記入して共有デスクの上へ置いておけば、日勤者の誰かが出勤してくるまで待つことなく、深夜勤務で疲れた身体を一時的に休めることが可能となるのだ。
一応、規則として、夜勤へ携わった者はその翌朝業務開始時刻に口頭で引継ぎ内容等の報告をするよう定められている。しかし、実際のところ前夜に特別問題がなければ、寝た子を起こすような必要もなく、仮眠者の睡眠時間は任意で延長されるのが暗黙の了解となっていた。
だから、あの警備員が誰かに鍵を渡したのなら、前野が昨晩のうちに医局を施錠し、キーを守衛室へ返却しているのは間違いなかった。そして今朝、自分よりも早くここを通過した者の存在が、ただの真実として石川の目前へ導き出されていた。
こんな早くに、自分以外の誰が出勤してくるというのだろう―――第一外科のメンバー一人一人の顔を脳裡へ描いてみたが、それらしい人物は見当たらなかった。だが、足早に廊下を歩きながら、石川は唐突にある可能性へ思い至った。身体は、既に部屋の手前まで来てしまっている。ドアノブを回す掌の内側に緊張が貼りついたのをはっきりと自覚した。
中には、きっと―――
ゆっくりと静かに、扉を開けた。そして―――其処には自分が想像した通りの人物が、いた。
本日から着任する司馬は、荷物を解いて整理している最中だった。あらかた片付いているようで、部屋の隅には潰したダンボールが幾つか立てかけてある。
視線だけを戸口の方へ向け、入室者の正体を見極めた男は、
「・・・早いんだな」
とだけ言うと、再び作業に戻った。
「ああ、いつもこの時間なんだ」
入り口から程近い壁へ備え付けられているロッカーの一つを開き、コートと鞄を中へ収めた石川は、立ち働く男の動作に視線を戻した。
最後に残ったダンボールより取り出した幾冊ものバインダーファイルを手早く仕分けしつつ、司馬はそれらを納めるべき場所へ次々と仕舞い込んでいた。
おそらくつい先程スイッチを入れたばかりなのだろう、まだ、あまり温まっていないこの部屋は、冷たい静けさに包まれている。司馬が書類や私物を手にして抽斗を開けたり閉めたりする音だけが、殊更に大きな音で石川の中へ響いてくる。
だが、その室内の寒々しさに反して、石川の心は暖かいものを抱きしめていた。自室で司馬と会話した時の穏やかで幸せなひとときが、確かな手応えとなって己の手中に感じられた。
「何か、手伝うことはあるかい?」
なんとなく手持ちぶたさな気分を持て余した石川は思い切ってそう訊ねてみたが、返ってきた答えは、
「いや、いい―――終わった」
と、にべもなかった。
それでも、その声音を柔らかく感じられるのは、やはり先日の会見がもたらした成果なのだろう。石川は自分の表情が自然に緩むのを感じた。
「おかえり、司馬君」
ごく自然に、言葉が口をついて出た。やっと戻ってきてくれたね―――と、そんな想いに駆られて何気なく右手を差し出した。
司馬はかたちの良い二重の瞳を軽く見開くと、すぐに自分の掌を見、僅かに顔を顰めた。
「悪い、汚れてんだ」
そう言って、司馬の身体が石川の左側を通り抜けようとした瞬間のことである。
「また、世話になる―――よろしく・・・」
呟くような科白が石川の耳元で谺した。
「え?」と聞き返す間もなく、司馬の左手が自分の肩を軽く撫でる如くに滑っていった。そして、振り返った石川の目が捉えたのは、奥の洗面台を目指す後姿だった。
宙に浮いてしまった己の手を戻すと、石川は顰め面しい顔で手を洗っている男を見遣り、苦笑した。それが司馬流の照れ隠しであることに気づいたからである。そもそも両手で荷物の整理をしていて、右手だけが汚れるというのはかなり不自然な状態だと言える。
本当に、やることが一々憎たらしいよなぁ、きみって―――まあ、らしいっていえば、らしいけどさ・・・
そんなことをつらつら考えていた石川の意識と水飛沫がシンクに跳ね返る音の間に、雑音が入りこんできた。壁一枚隔てた向こう側で、何やら物音がしている。暫くして、医局と仮眠室の境界であるドアが派手な音を立てて開き、前野が姿を現わした。前夜の当直医は目を瞬かせながら自分で自分の頬を一、二度叩き、室内を一渡り見回すと、一直線に水音のする方へ足を向けた。
「司馬先生、おはようございます!」
司馬が顔だけを上げたのは、石川がいる位置からでもはっきりと見えた。
「この日を待っていたんですよ〜、今日からまた、よろしくお願いします」
大袈裟に頭を下げる前野に対し、
「ああ、よろしく」
と司馬の声が応じている。
そのまま雑談し始めた二人に背を向けると、石川は毎朝の雑事へ取りかかることにした。
昨日使用または投与された薬剤に関する書類をチェックし、種類ごとに分類してゆく。こうしておけば、仕事の合間に行う入力作業が大分楽になる。他にも、バラけているカルテの整理や、皆で使用している医学書に随時追加される改訂部分の差替えなど、やらなければならないことは意外に多い。
司馬や平賀がいた頃は急患の無い暇な夜に当直医がそれらを処理していた。しかし、二名欠員という状態が長く続いて、夜勤者はその勤務中に自分が昼間処理できなかった本来業務を終わらせる方が先決となってしまった。そして、いつの頃からか、夜勤を外されている石川が朝早く出勤してきてそれらを片付けるようになったのである。
残り30分で、通常の業務開始時刻となるところまできていた。司馬と前野は入口手前の応接セットに移り、時々言葉を交わしながら寛いでいた。会話の内容が途切れ途切れに聞こえてくるが、主に前野が司馬のいない間の第一外科のことを語っているようだった。
カチャリと音がして、医局のドアが控えめに開く。
「おはようございます」
明るい声の持ち主は中にいた複数の人物を見ると、その顔に複雑な笑顔を貼りつけた。まるで、一瞬襲った驚きを安堵が覆い隠したというような表情だった。
第一外科所属研修医の峰春美は瞬時、躊躇うように身体を硬くしたものの、すぐに室内へ入ってきた。
「おはよう」
三人の外科医が次々と朝の挨拶を返す。
真っ先に反応したのは前野だったが、これは彼が入口の方を見渡せる位置に座っていて、出勤してきた峰の存在をいの一番に認識したからだった。その次は石川で、ドアの開く気配を感じて振り返り、自ら彼女の姿を確認したのである。そして、最後にやっと、物憂げな声音と胡散げな視線で司馬が峰を見遣った。
峰は手前の二人に無言で小さく頭を下げると、足早に窓際の机までやって来た。石川の背後へ立ったまま緩く背を屈め、やっと聞き取れるくらいの小さな声で囁く。
「あの―――大丈夫でした?」
「? 何が?」
心配そうな声の意図する内容が全く汲み取れない石川は、怪訝そうに峰を見返した。
「司馬先生と・・・その―――」
石川が定時より一時間早く出勤しているのは、今や第一外科の常識でもある。更に昨日の夜勤者はあまり石川と仲の良くない前野であるということを考えると、彼が翌朝、業務開始時刻を過ぎても仮眠室から起きて来ない可能性が高いと思われた。そう思うと、峰は気が気で無くなった。
自分も含め、第一外科の他の面子は定時ギリギリに駆け込む連中が殆どだ。だから、司馬が少し早く出勤してきたら、石川と二人っきりになってしまう―――
言いにくそうに唇を噛んで立ち澱む峰が抱いている不安の中身を漸く石川は理解した。目の前の研修医は、着任早々の司馬と石川がまたもや諍いを起こしているのではないかと懸念して、いつもより早く医局へやって来たに違いなかった。
「大丈夫だよ、峰君」
安心させるように、石川は笑顔で頷いてみせた。
「司馬先生は今日が初日なんだし―――僕達が争う種だって、そうそう転がっている訳じゃないよ」
少し声を潜めて、こう言葉を続けると、
「そう―――そうですよね」
峰の顔が安心したように綻び、やっといつもの笑顔へと戻っていった。
いそいそとコーヒーを淹れに行ってしまったその後姿を横目で見ながら、石川は浅く息を吐き出した。
彼女が己のことを心配してくれているのはよく判っていた。そして、司馬と自分がここ、天真楼病院第一外科で繰り広げた争いの数々を記憶に留めている者ならば皆、同様の反応をするだろうということが予測されて、気が重くなった。
暫くは自分達二人を取り巻く視線が、過去のそれと然して変わらないのは、いたしかたないだろう。だが、やがて、そういう見方も減ってくるに違いない。時間の経過とそれに伴う慣れが、いずれ周囲の意識を変えてくれるだろうと思うことにした。
しかし、それはとんでもない楽観だった。
石川と司馬の関係は確かに好転してゆくのだが、それがまた他人の目にどう映るかは別の問題であるということをこの時、当事者二人は全く考えていなかった。

To Be Continued・・・・・

(2000/5/30)



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−第1話に対する言い訳−
あああ、すみません、すみません〜〜〜 またもや、連載状態です。しかも、司馬の着任前夜と当日朝だけで一話分かかるとは…さ、先が思いやられる……
(T_T)
『振り奴』本放送最終話で中川先生がのたまう「カンザスからね、ドクターを一人、招くことになりました」という科白なのですが、これは本当にそういう人事計画だったのか、それとも石川を失わずにすんだ(尤も直ぐに他界してしまいますが・涙)ので口にしたジョークなのか―――私にとっては、今も謎です。まあ、平賀もいなくなっちゃってますし、どう考えても頭数足りないので一人増やすことに決めました。
それから、『振り奴』本放送だと、医局の一角に簡易ベッドが設えられていてカーテンで仕切られていますが、本来独立した仮眠室があるのが普通だそうです。男女が共に働くことも考えれば、当然、施錠できないとマズいということなのでしょう。それで、夜勤の形態(?)と医局の施錠状況については、某私立病院勤務で外科医をやっている友人の話を参考に捏造しました。病院によっていろいろだと思うので、出来ればツッコマないでやってくださりませ。
石川側は、この時点で漠然とした自覚がある程度ですね。ですからまずは、司馬と親しくなりたいという気持ちが強いと思います。で、とりあえず、これからの付き合いに期待を賭けているというところでしょうか。
それにしても、司馬―――アンタってやっぱり、性格悪いよ………(ぼそ)