天使が隣で眠る夜 2
(全く―――挨拶にも来ない気なの、あの男!)
前野の執刀となった緊急オペを終えて上がってきた大槻沢子は、凡そ似つかわしくない乱暴さで麻酔科のドアを閉めた。バタンという音と共に室内の空気はピリピリと震え、辺り一帯が畏まる。今日は神尾の公休日ということもあり、自分一人のこの部屋で空き時間に何をしようと沢子の自由だ。しかし、その状況が却って彼女を追い詰め、苛々とさせていた。
12月1日、午後3時54分。
残り一時間強で、日勤者の拘束時間が終わる。なのに、本日、第一外科へ着任した筈の司馬江太郎は何も言ってこない。
自分と司馬との関係はとっくに終わっているが、それは男女間に限ってのことだ。同じ人物へ師事した同窓生として、再び働くことになった職場の同僚として、顔を見せるくらいしてもバチは当たらないでしょうに、と思うと余計腹が立ってくる。
(あいつのことなんか、どうでもいい筈よ・・・)
沢子は小さく頭を振って、気持ちを切り替えようとした。殊更に優雅な手つきでコーヒーメーカー用のガラスポットへお湯をセットし、滅多なことでは使わない陶器のカップとソーサー、それに小ぶりのティーポットを棚の奥から取り出す。
簡易ホルダーにセットされたプラスチックカップへ機械の淹れたインスタントコーヒーを注いで飲むくらいでは、今のこの、ささくれ立った神経を鎮められそうにない。つい先日、パッケージの可愛らしさにつられて買ってしまって、結局今まで封も切れずに放置してあった紅茶の缶を抽斗から取り出した。
沸騰したお湯をまずカップに張り、小さなポットにも注ぐ。減った分の水を足して、もう一度お湯を沸かした。再びコポコポと音がし出したところで、ポットのお湯だけを捨て、茶葉をティーメジャースプーン―――紅茶缶とこのスプーンとが、セットになって売られていたのだ―――で、きっちり二杯計る。ポットの方を沸騰しているお湯の傍まで持って行き、静かに湯を注ぐとすぐさま蓋をした。
デスク上に置いてあったシンプルな時計を手許に引き寄せて、秒針の動きを目で追いながら、ポットの中で紅茶の葉がゆるゆると踊り、開いてゆく様を想像した。丁度良い頃合まで蒸らし、カップに張ってあった湯を捨てて、暖まった茶器へ出来た紅茶を注ぐ。周囲に馨しい香りが放たれたその時―――
ノックの音もなく、ドアが開いた。顔を上げた沢子の目に飛び込んできたのは、たった今自分がこうして紅茶を淹れる原因になったと言ってもいい人物、司馬の姿だった。
室内に沢子しかいないのを認めた司馬の表情が心持ち和んだように思えた。扉を後手に閉めて壁際のスケジュールボードへ目をやった男は、麻酔科の出勤状況を確認したのだろう。ゆっくりとした動作で沢子のいるカウンターテーブルの前までやってくると、彼女の勧めを待つことなく勝手に向かいの椅子へ腰掛けた。
顔を見たら、文句の一つも言ってやろうと息巻いていた憤懣は、途端に何処かへ消し飛んでしまった。
「・・・おかえり」
思ってもみなかった言葉が、零れた。それがなんだか照れくさくて、沢子はティーカップを持った手をつい、と伸ばし、そのまま司馬の前へ置いた。
「いいのか?」
たった今、この部屋へ来たばかりにも拘わらず既に用意されていた飲み物は、彼女が自分自身の為に用意したものであることくらい司馬にも見当がつく。カップ本体を取られてしまって、華奢なティースプーンと薔薇の形をした角砂糖を乗せているだけのソーサーが、沢子の前で所在無げに佇んでいた。
だが、目の前の元恋人は自分を見据えると首を縦に振った。それで司馬は、その好意をありがたく受けることにした。
丁寧に淹れられた紅茶は微かな苦味を舌の上に残し、それがまた絶妙なバランスの良さを感じさせる。口に含む度、充分に味わってから咽喉の奥へ流し込んだ。そうしてカップの中身が三分の一くらいまでに減ったところで、司馬はポツリと呟いた。
「お前で二人目、だな」
何のこと?というように、沢子の目が軽く見開かれ、瞬いた。
「お帰り―――って、言った奴・・・」
(へえー・・・あたし以外にも、この男に「おかえり」なんて言う人がいるのかしら?)
沢子はちょっと首を傾げたが、すぐに得心がいった。考えてみれば、この病院には司馬の復帰を誰よりも切実に望み、願っていた男がいるのだ。きっと、『彼』に違いない―――そう思って、
「あと一人は、中川先生でしょう」
と、その名を口にしたのだが、司馬の答えは違っていた。
「いや・・・そういや、部長からは言われて、ない」
「―――ふうん・・・」
じゃあ誰なのよ、と訊いてみたい気もするのだが、沢子にとってもはやそんなことはどうでも良くなりつつあった。結局、こうして司馬が自分のところへ顔を見せにきたという行為が、実はかなり嬉しい。表向きは未練なんか無いと強がっても、無視されるのは気持ちのいいものではなかった。憎み合って別れた訳ではないと思うから尚更である。
「ところであんた、何しに来たのよ」
やっといつもの軽口が叩けるようになった沢子は、司馬の顔を覗き込んだ。
「冷たくすんなよ―――用が無ければ、来ちゃいけないのか?」
「そういう訳じゃないけど・・・」
言葉に詰まったこちらの様子などに全く頓着せず、司馬は胸ポケットからマルボロを一本取り出し、火を点けた。長いこと御無沙汰だった香りが、麻酔科ぜんたいへゆるりと拡がってゆく。
丸々一本を灰にするまで無言だった男は、二本目に手をやると、本当の訪問目的を口にした。
「東都の情報、何か知ってないかと思って、さ」
「そんなことだろうと、思った」
やや呆れたような口調でそう言うと、沢子は司馬の顔を暫し見つめた。心中、大きな溜息が洩れる。
何だかんだ言って、結局、司馬を突き放せないでいる。つい、彼のやる事に手を貸してしまう自分は、やはり甘いとしかいいようがない。
何か頼み事を抱えている時だけ摺り寄ってくる司馬の性質の悪さは、ここ天真楼で一緒に働くようになってから際立ってきていた。とはいえ、沢子は自分が司馬に利用されていると"本気で"考えたことなど一度もない。そこまでの悪人だったら、まず中川がああまで司馬を庇わなかった筈だと思うからだ。
恩師と教え子の間に存在したであろう『真実』を求め、自分が屋上で彼に詰め寄ったのはまだ早春の日も浅い頃だった。結局、その時も司馬は何一つ自分に打ち明けてくれなかったのだが、それは却って彼の抱えた深い悲しみと苦悩を直裁に感じさせ、沢子を強く締め付けた。
彼が負った枷と辿った人生について考えを巡らす度、心が後悔に打ち震える。そして、ただ輝ける未来を夢見ていたあの頃―――学生時代の二人には戻れない自分達の今を想い、少しだけ悲くなるのだ。
「皆月研究室からの情報は、高いわよ」
沢子は軽く息を吸い込み、努めて明るい声を出した。
「そう、ケチることないだろ」
向かいの男は長身を屈め、下方から掬い上げるように視線を絡めてきた。整った顔立ちが僅かに緩んで柔らかみを帯びる。男のくせして何でこんなに色っぽいのよ、と毒づきつつも、つくづく心臓に悪い表情だと思う。
沢子は司馬へ見惚れそうになっている自分を辛うじて律し、
「まあ、いいか・・・そのうち奢ってもらうから、覚悟しといて」
と、開き直った。ああ、もう―――これだから、あんたがつけ上がるのよね、と自分自身に舌打ちしながら、己が今掴んでいる情報の殆どを惜しみなく司馬へ提供する。
天真楼病院へ移るまで沢子が籍を置いていた皆月研究室は、今でも東都医科大学の一角に存在している。研究室を率いる教授の皆月賢一は紳士然とした風貌と共に、麻酔学の第一人者として遍くその名を知られている人物だ。そして、教授本人の意向からか、研究室そのものは過去大学内部を席巻してきた権力争いに於いても出来るだけ独自の立場を採り続けてきていた。
学内の勢力が大きく二分された場合、そのどちらもが中立派を自分の方へ引き入れようと画策する。却ってそれが台風の目状態となり、上手くすれば双方の情報が一挙に其処へ落ち込んでくるような状況も間々あることで―――皆月研究室は、常にそういう道程を歩んできたのだ。
別に研究室と喧嘩別れした訳でもなく、ごく普通の就職活動を経てこの病院へやって来た沢子は、今だ皆月教授から可愛いがられている教え子である。女気の少ない母校へ顔を出すと、師はもちろん先輩にあたる研究室のスタッフまでが、下へも置かぬもてなしぶりで沢子を歓待した。そして彼女が望めば、校内の様々な情報を中立研究室ならではの冷静な目で分析し、教えてもくれる。
沢子の語った噂話へ無心に耳を傾けていた司馬が、その目を僅かに眇めた。
自分の差し出した情報の何かが、彼の琴線に触れたのかもしれない。だが、それについては訊くだけ無駄であるということも、短くない付き合いが沢子に教えていた。危ない橋を幾度も渡ってきた男だからこそ、その口は固い。司馬が自分の本心を決して見せないのは、今に始まったことではなかった。
鋭い眼差しの奥深く、何かがキラリと光ったような気がした。彼の漂わせる気配の中に、危険な香りが混じる。
「いろいろ、参考になった―――また、何かあったら、教えてくれよ」
「はいはい、判りました」
けれども、沢子の心は不思議な安堵感を伴っていた。
こんな繋がり方でも司馬からあてにされ、些細な部分に過ぎなくとも司馬に必要とされていることが、彼女の気持ちを慰めてくれた。こうすることで、昔、恋人の力になれなかった自分の未熟さを少しづつ埋め合わせているような気になるというのは、都合の良い言い分に過ぎないことくらい判っているのだが。
別れてからもずっと切り捨てられないでいる男の影は、これからも沢子の内側へ居座り続けるに違いない。それは自分が彼にした諸々の仕打ちから来る罪の意識であり、おそらく一生自己の中から消えることはないだろう。だが、沢子はそれらを内包して生きゆく決意を既に固め始めていた。
入って来た時と同じく、挨拶無しでこの部屋を出て行く背中は、いつ見ても隙が無い。聞き慣れた音と共に閉まったドアを目にして漸く、沢子は司馬が綺麗に飲み干していったティーカップを片付ける為に立ち上がった。その日の診察記録を一通り確認し終えた放射線科医の山村忠光は、やれやれというようにホッと息を吐いた。真っ直ぐ前方へ突き出した両手を軽く組ませて伸びをする。反り返らせた指先にじんとした痺れが走り、ちりちりと首筋まで這い上がってきた。
顔上でやや傾いでいた眼鏡を外すと、山村はレンズの表面を柔らかい布で磨き始めた。頭を働かせる必要の無い作業に没頭している間は、却って何か一つのことを考えるようになる。そして今、彼の脳裡には、先日第一外科へ着任した男の顔が浮かび上がってきていた。
司馬が戻ってきて、丁度、五日になる。
本来なら上司が新任者を連れて、所属以外の部署へも新人の顔を覚えてもらうべく院内を回るのが普通なのだが、司馬の場合は以前在籍していたということで、それが省略されてしまっていた。だから、科の違う山村は今日まで、司馬の姿を見かけなかった。
尤も、中川外科部長の考えでそうしたのか、司馬本人が着任の挨拶を煩がったのか、真相は定かでない。だが、おそらく後者が正解で司馬が我儘を通したのだろうということは、容易に察せられた。
それはさておき、大方の予想に反して、司馬と石川は今のところ小競り合いの一つもしていないようだった。外来中心の石川と、戻ってくるなりオペばかりやらされている司馬という状態なので、あの二人が接触する時間そのものがあまり無いらしい。山村が午前中、第一外科で主宰されたカンファレンスへ参加した時も、其処に石川の姿はあったが、司馬の方はオペ中ということで同席しなかった。
だから日中、山村が司馬と言葉を交わし果せたのは、たまたま同じような時刻に休憩を取っていたからだった。
正午近く運び込まれた或る患者の処置に手間取り、昼の休憩を摂るのが大幅にズレてしまった山村は、憂鬱な気分で社員食堂へ足を運んだ。既に定食の類は残ってないだろうから、一品料理を掻き集めて、おかずにするしかない。この時間では病院付近の店のランチも終わってしまっているので、外へ食べに行くという選択は問題外だった。
何か、ちゃんとした残り物があるといいな・・・と思いながら、食堂内を見渡すと、一番奥の窓際に一人でいる司馬の姿があった。多分、彼も昼食時間がズレたのだろう。山村は、ふと、この男と二人で話してみたいという気持ちに駆られた。
「やあ、司馬先生。お久しぶり―――ここ、いいかな」
仏頂面としかいいようのない顔に変化の兆しがよぎる。似たような食事を一足先に平らげていた男は、目線を上げると、
「どうぞ」
そう言ってから軽く目を瞑った。
いそいそと隣へ腰掛けたものの、会話のとっかかりが掴めず、暫く山村は黙々と食事を続けた。司馬は周囲の目などどうでもいいと云わんばかりに、身体の力を抜いて椅子の背へ凭れかかっている。もしも、ここが食堂でなく、また隣で食事をしている者がいなかったなら、その長い足をテーブルの上に平気で投げ出していたことだろう。
自分が食器の中身を啄ばんでいる間中、隣の男は席を立たなかった。座る場所はいくらでもあるオフピーク状態の社食でわざわざ声をかけたのだから、何か話があってのことだろうと察したに違いない。こちらが口を開くのを待っているようだった。
食後のお茶を卓上ポットから注いだ後、山村はやっと司馬へ話しかけた。
「こっちへ戻ってきて、どう?」
「別に―――やることは、何処の病院でも一緒だろ」
確かに、そうだ。なんとなく間抜けた会話の始まりだったが、それがきっかけとなって、二人はポツポツと語り合った。
つい最近認可が下りた新薬の情報や医療業界に於ける噂話など、いずれもそれなりに興味深く、部分部分は為になる話題が続いた。しかし、山村が司馬へ声をかけた理由は、もっと別のところにあった。
先月、放射線科の医事室へ迷い込んできた若い入院患者から、自分と司馬に共通の雰囲気があると教えられて以来、山村はこの問題児へ少なからぬ興味を抱くようになっていた。彼がここへ戻ってきた理由は聞いている。中川外科部長と司馬を指名してきた難易度の高いオペを手掛けるためだということは、既に病院中の知るところとなっていた。
だが、もう一つ、気になる噂が院内のあちこちで囁かれていた。あの石川が、司馬を説得して連れ戻したのだという。御多分に漏れず、山村も、彼等が犬猿の仲であると信じて疑っていなかった。山村自身はどちらの味方でもないつもりだが、やはり外科の内部事情とやらに無関心ではいられないというのが本心なのだ。
さり気なさを装って、山村は結局、自分が一番気になっていることを訊いた。
「で、石川先生とは、上手くいってる?」
「あんたには、関係ないだろ」
視線も合わせず、司馬がうんざりしたような口調で答えた。
聞いた話だと、第一外科の連中が揃って、司馬と石川を二人っきりにしないよう常に気を配っているとのことだった。研修医の峰などは極力医局に居座っているらしい。尤も、司馬が戻ってきたことにより、己の負担が目に見えて軽くなったのが嬉しい前野は、時間さえあれば司馬にくっついているようである。彼が司馬を慕っていることも、石川との仲があまり良くないのも、周知の事実なので、そうなって当然という気はするのだが。
誰が相手であれ、基本的に、率先して他人と諍いを起こしたいと思う輩はいないだろうから、司馬だって今の状態がそんなに苦痛な訳ではあるまい。だが、そうやって二人、周囲から腫物扱いされているのがやはり窮屈なのだろうと思わされた。
とはいえ、一応、釘をさしておいた方がいいと考えていた山村は、敢えてこう言い置いた。
「そうもいかないさ。君達がまたいざこざを起すのは勝手だが、それに巻き込まれるのは御免こうむりたいんだ―――放射線科としては、ね」
「・・・ソッチには、迷惑、かけねぇよ」
意外に柔らかい声音が、山村を少々驚かせた。返してきた科白の影で、司馬がくすりと笑ったようだった。
おや、これは、存外・・・
山村はしげしげと司馬を見返した。そこにはいつもながらの無表情な顔があるだけだったが、たった今この耳は、極めて司馬らしからぬ苦笑の漏れた瞬間をしかと捉えていた。
いくら日本医師連盟から厳命されたとはいえ、天敵がいる場所へよくも戻って来たものだと陰口を叩かれているが、当人達だって八ヶ月もの長きに渡り、離れていたのである。本来、人の持つ感情をずっとそのまま持続させるというのは、とても困難なことなのだ。
顔を合わせない日常を経て再会した二人は、それなりに平和ボケした状態だったのではないだろうか。互いの胸に去来したのが如何なものかまでは、他人である自分の知り得ることでもないだろう。だが、司馬がいなくなってから頓に大人しくなった石川の表情は、ここへ来て生気を帯び、それとなく輝きだしている。それは山村の目にもはっきりした変化として、認識されていた。
『喧嘩友達』という言葉がある。尤も、それを彼等の前で口にしたら、さぞかし嫌がられるだろうが。もしかしたら司馬は、本当に石川から説得されて戻ってくる気になったのかもしれないと、山村は感じ始めていた。
お先に、と言って立ち上がった司馬は、自分の食した盆を近くの配膳ワゴンへ乗せると、真っ直ぐ食堂の出口を目指して歩いていった。
その素っ気無い後姿を思い出したところで、山村は漸く手を止めた。
天井の白熱灯に磨いたレンズを翳し、曇りや汚れがきちんと拭われたことを確認する。すっかり綺麗になった眼鏡に満足した山村は、これからあの二人の間がどうなっていくか見物(みもの)だな―――と、独りごちた。司馬より一週間後の赴任が予定されていた参事兼主任となる人物は、更に丸一日遅れて天真楼病院へ到着した。カンザスシティからサンフランシスコ経由で成田へと向かう筈が、利用するつもりだった国内線の突発的な時限ストライキに邪魔され、速やかなる帰国を阻まれてしまったのである。
「よくあることなんだよね、これが」
やってきた丸顔の男は薄くなりつつある頭髪を後ろに掻き上げ、にこにこしながら皆の前で自己紹介をした。
里村正樹、35歳。実家が九段下で外科医院を開業していることや、解剖好きな伯父の影響でこの道に入ったという話などを人懐こい顔つきと口調で一通り話し、「どうぞ、よろしく」と頭を下げた。
どんな人間が新しい主任になるのかと、戦々恐々だった第一外科の面々は、揃って緊張感から解放されつつあった。縫合の巧いドクターだと伝わってきた前評判の方はまだ確かめようもないが、少なくとも人間的には親しみの持てる男のようだ。また、同い年の前々主任(前主任は一応、司馬ということになる)と比べても、伊達に歳をとっていないと思わせる年相応の貫禄が感じられ、頼れそうな人材であるとの判断が下された。
良く笑い良く喋るアメリカ帰りの医師は、あっという間に皆の中へ溶け込んでしまった。里村の持つ、温厚そうで人格者然とした風貌も、プラスに働いたようである。司馬が着任した日の方が、よっぽど銘々の心臓に悪かったと言えよう。
これから共に働くことになる仲間の名前を小さな声で復唱しながら確認していた里村は、やがて石川に声をかけた。
「ああ、君が石川君かあ―――マーリィ教授から、噂はよく聞いてたんだよねぇ。やっと会えて、嬉しいなあ」
「こちらこそ・・・どうも、初めまして」
里村と石川は共にカンザス大学へ籍を置いていたにも拘わらず、今日まで顔を合わせたことがなかった。所属していた研究室が違っていたのと、里村が当時マギル大学医療センターでの実習へ参加していてカンザスシティとボストンとを往復していたということもあり、親睦を深めるどころか対面も侭ならなかったのだ。数少ない同国人ながら、互いの噂を耳にするだけで、とうとう石川が先に日本へ戻ってしまったという訳である。
「それでこれ、マーリィ教授から預かってきたの。神経回路網と神経伝達物質、その解析モデルの一部についての論文なんだけど―――君に読ませたいって言ってたから」
里村が分厚い封筒を石川に手渡した。
「そうですか―――わざわざ、ありがとうございます」
人間航空便ってやつだよね、と里村は子供のような表情で付け加えた。
「そうだ、教授がメール出したって言ってたけど」
そう言われた石川は、慌ててパソコン通信のメールボックスに届いていた差出人の名前を順次記憶の中へと甦らせた。確かに、マーリィ教授からは一通届いていた筈だ。
「あ、そういえば一昨日、届いてたような気が・・・実はまだ、読んでなくて」
「ダメだよう。あの人が短気なの、君もよく知ってるでしょう」
早く返事書いてあげてよ、僕が怒られちゃうよと、里村が一応口を尖らせた。けれども、その恨めしそうな声音とは裏腹に、目元がしっかり笑っている。
すっかり里村と打ち解けて談笑している石川の姿を視界に認めながら、司馬は彼等から少し離れた場所で二人の様子を見守っていた。新任者に対しての全員の紹介はとっくに終わっているのだから、さっさと己の仕事に戻ればいいのだが、なぜかこの場から立ち去れないでいるのだ。
カンザス大からやってきたばかりの里村は、当然、石川と共通の人脈を持っている。だからあの二人が彼らの間だけで成り立つ会話を交わし、盛り上がることもあり得る訳で―――頭の中では充分、納得ずくな光景の筈だった。
だが、それを面白くないと思う感情が、司馬の身体を固まらせていた。
石川が特定の人間と親しげに話しているという状況が、どうしてこうも心に引っ掛かるのだろう。何も、里村に限ったことではなく、峰や中川の前でだって、あいつはああいう顔を見せる。あの、人の心を暖めるような笑顔は、本来、限られた人間に向けられる種類のものではない。
しかし、胸に重苦しく圧しかかってきた『不機嫌』という名の鉛は、司馬の中から一向に腰を上げようとしなかった。凡そ、石川に対して抱いたことのない感情の萌芽がこの時既に形を為してきていたにも拘わらず、司馬がそれをはっきりと自覚するのはまだ少し先のことだった。
To Be Continued・・・・・
(2000/6/4)
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−第2話に対する言い訳−
予定外のエピソード満載の第2話ですが、沢子のパートについてはどうしても書きたかったので、こういう展開となりました。山村センセは―――気がついたら、書かされてましたね〜〜〜で、"放射線科の医事室へ迷い込んできた若い入院患者"とは、モチロンお気楽患者の萩原慎吾です(苦笑) ※『ぼくのミステリな日常』参照のこと
さて、今回登場した、新任の参事兼主任となる里村ですが、モデルは京極夏彦先生の書かれた妖怪小説シリーズ(って言っていいと思う・笑)に登場している外科医 兼 監察医の里村紘市というキャラクターです(大爆笑) 変態里ちゃんの甥っ子として考えました。血は争えないということで、性格等はそのまま使わせて(?)いただいてます←オイコラ
ところで、里ちゃんは帰国直前に航空会社のストへ遭遇していますが、これはギリシャあたりだとよくある話でして―――『山ネコスト』というのですが、理由もなく何時間か遅れるというものですね。アメリカでもそういうことがあるかどうか判らないんですけど、ストを乗り越えて帰って来た里ちゃんというのが書きたくてああなりました。
司馬が少し、石川を意識し始めています。でも、まだまだ淡いですね。あああ、先は長いわ……