天使が隣で眠る夜 6
「へえー、医学部を志望した動機ってのは、高校の担任に推薦されたからなんだ? ・・・まあ、女の子で理数系強いってのは珍しいからなぁ。じゃあ医者にでもなったら、ってなモンなのかね」
最初はこちらを覗き込むように話しかけてきていた前野が、考え深げに視線を明後日の方向へ泳がせた。
峰は無言で頷き返し、浅く息を吐き出した。ああ、良かった―――と心中で呟く。さしあたって軽蔑されてはいないようである。
表面上は澄ました顔を装いながらも、穏やかならざる胸の裡を他人に気づかれたくなかった。だから、敢えて言葉で答えようとせず、曖昧な微笑を浮かべた。
単に人の生命を預かる職業というだけでなく、六年間みっちり学ぶことを強いられ漸く得られる医師免許は、並大抵の努力では手にできない。大多数がアルバイトや交友を優先させがちな大学生活にあって、まずは勉強にのみ全力投球する日々を余儀なくされる。
しかし、ガリガリやっていれば良いという訳でもない。大学受験・進級・国試突破といった大きな節目を無事乗り越えられるかどうかは、努力の程度如何だけでなく、天性の有無も大いにものを言う。幾度挑戦しても叶わず、最終的に諦める者達は決して少なくない。それが、医師免許所得という狭き門に於ける厳しい現実であった。
それゆえか、医の道を目指す人間には、殊更、強い志望動機を持つ者が多いのだ。身近な病身者の為というだけでなく、次第によっては医療技術者が根本的に不足している発展途上国へ出向くことも厭わないといった献心も含めると、己の持てる能力を他人の為に役立てようという想いが人一倍強くなければ務まらないだろう。けだし、そういう気概があってこそ、立ち向かえる道なのかもしれないが。
だから、"進学相談によって将来を決められた"という志望理由は、峰にとってかなり主体性に欠けた己の学生時代を晒す結果であり、非常に恥ずかしい記憶だった。
尤も、実家が開業医だというクラスメイトの中には半ば親から強制される如くに医学部を受験した者もいて「主体性の無さではおあいこだっての」と笑ってくれたりもする。だが、そもそも医院を継ぐという決心自体がそれなりに覚悟しなければ志せない未来である。確固とした意思無くして選んでしまった『職業』という感が、今だ拭えないでいた。
思い返せば返す程、いたたまれなくなる。峰は自分から矛先を逸らしたい一心で問い返した。
「そういう前野先生はどうなんですか?」
「え、僕? 僕はもっと現実的な理由。医者になれば食いっぱぐれ無いでしょ?」
確かに国家資格である医師免許の場合、一度手にしてしまえば半永久的にその効力が保障される。何か、とんでもないことをしでかして免許自体を剥奪されない限り、勤め先には困らない。
「でもねぇ、給料は思ってたより安かったなあ。世間の風はキビシいよね」
そうボヤく先輩医師を見やりつつ、峰も僅かに苦笑した。
所詮、社会へ出たばかりの新人ドクターである。最初から高収入が得られる筈もない。だが、ひっきりなしに運び込まれる急患と相対し、休む暇もろくろく無い職場に至っては、貰っている賃金に見合わぬ労働量だと愚痴りたくもなる。
それでも年功を重ねるうち、収入は確実に上向くだろう。だが、果たして、忙しさの方はどうだろうか。
ここ天真楼病院の場合、救急指定となってはいても、独立した救急医療用センターが院内に無い。専任の橋本は症状を選別するだけで手一杯ゆえ、各科とも、やってきた急患を否応なく次々と引き受けさせられている。
なかでも、一目見て外科的措置が必要と判るクランケに於いては、一刻の猶予もならないケースがほとんどである。当然、緊急オペとなる訳だが、それ専門の要員などいる筈もない。そうして通常業務に皺寄せが生じ、それらを科の者全員で懸命にこなすこととなる。
暇を持て余しているよりは好ましいのかもしれない。けれどもあまりに忙しいと、一企業の歯車として日々擦り減らされてゆく己の身が哀れになってくる。せめて、もう少しマイペースでやれないものかと嘆息する毎日は、まだまだ続きそうだ。
「やんなっちゃうよなあ、こんなに忙しいと。ホント、雇われの身は悲し〜わ。つくづく、実家が医院でも持ってくれてりゃ良かったのに―――って思うね」
「やっぱり、いつかは開業したい・・・ですか?」
「まあね」
一度は考える事でしょ、と続けた先輩医師はそこで言葉を切った。
医者なら誰もが一度は憧れ、その可能性を探ってみるのが、個人開業である。何もかも自分の流儀で仕切ることの可能な、一国の主たる地位にはとてつもない魅力があるのだ。反面、雇用されているだけの勤務医とは異なる様々な苦労がついてまわるのもまた明白ではあるのだが。
それでも、医者になったからには是非とも開業を―――と息巻く者は後を絶たない。
「でも、先立つもんが無きゃ、どうにもならないからなあ。僕、次男だし、どっか婿へ入ったらどうだって父親が言うんだよね。開業資金の援助なんか出来ないぞ、っていう牽制のつもりなんだろうけど・・・酷いと思いません?」
同意を求めるように隣へ顔を振り向けた前野は、あからさまに大きく嘆息した。真横でおとなしく聞き役にまわっていた里村が「あはははは」と笑った。
「僕に女兄弟がいれば、是非とも前野先生に来てもらうんだけどなあ」
「え、主任はいずれ、ご実家を継がれるんじゃないんですか?」
思わずそう訊ねた峰に向かい、里村が軽く首を疎めてみせる。
「うん。本当なら継がなくちゃいけないんだろうけどねえ―――実は僕、養子なの。病院やってる伯父に子供がいないんで、医者になった僕が貰われていったのね。でも、さ」
町の外科医院なんてつまらないんだもの、と続けた外科主任は軽く口を尖らせる。
「接骨とか整体とか、そんなんばっかしでさ。手術するような患者なんてまず来てくれないじゃない?」
やや不貞腐れた物言いに後輩二人が鼻白んだ。里村本人も少々まずかったと感じたのだろう、すぐさまおどけたような科白を付け足した。
「って、ちょっと不謹慎な言い方でした、反省反省。でも、うちは伯父貴自身もそう思ってるからねえ」
病院というよりは診療所に近い規模らしいが、里村医院は市ヶ谷から下ってきた靖国通りが神保町に入る手前―――俗に九段下と称される一角にある。今でこそ自身の病院を切り盛りするのに明け暮れている里村の伯父は、その昔、副業として監察医をやっていたのだそうだ。
戦時中は海軍で従軍医を務め上げた彼が、どのような経緯で司法解剖を任されるようになったのかは、定かでない。
現代でこそ、生者の治療にあたる外科医と死者の声を訊ねる監察医とは、完全に一線を画した職業となった。教養課程で学ぶ内容や技術的な部分に於いては同一根であるものの、体系的にはっきり異なる学問として確立されて久しい。だが、大戦直後の日本ではそのような線引き自体、存在していなかったのだろう。
終戦後の混乱した東京も専門家が復員してくるのを悠長に待つことなどせず、最低条件として有資格者であること、そして司法解剖を請け負える度胸の持ち主であれば良しとしたに違いない。それゆえ、民間の医者へも門戸が開かれる結果になったと思われる。
通いの看護婦を一人置いているだけだったが、開業直後よりずっと、里村医院は繁盛していた。患者の受けや評判も大層良かったらしい。にも拘わらず、一旦、東京警視庁から呼び出しがかかろうものなら伯父は即刻医院を閉め、嬉々として遺体解剖の為に馳せ参じた。顔見知りの警官から「この、変態医者め!」となじられたことも一度や二度ではなかったと聞く。尤も当人は解剖が三度の飯より好きだと公言していたくらいであるから、何を言われようと全く気にしていなかったそうだ。
そんな訳で己の職業には至極満足していた伯父にも、思い悩む事はあった。子宝に恵まれなかったのだ。共働きの弟夫妻に授かった三人の甥達が事ある毎に出入りしていたので、実子の無い淋しさは然程感じないでいたものの、医院の後継者をどうするか憂えてはいたのだろう。だから、三兄弟の末っ子が医者になりたいと言い出した時には、大層喜んでくれた。
里村が医大への入学を決めた時に、伯父夫妻から養子にしたいという申し入れを受けた。正式に縁組みしたのは国試合格後のことだが、親同士にしてみれば当然取るべき措置とも言えよう。尤も姓はそのままだし、その後暫くは実家に暮していたので、生活面での変化はほとんど無かったそうである。
「甥っ子に譲るのと養子に継がせるのとじゃあ、手続きや税金の面で大分勝手が違ってくるから。でもね、あの人は自分の病院にあまり執着してないな。潰れたらそれはそれでいいと思っているみたい」
「そんなあ・・・この、ご時世に、もったいないじゃないですか!」
のけぞるようにして声を上げた前野に追随し、峰も強く頷いた。
「うん。だから留学するって決めた時は、もの凄く反対されてねぇ―――」
里村医院の所有者である当の伯父よりも、伯母や実家の両親から、いたく嘆かれたらしい。
「『そんな遠くへ行って、何かあったら』とか、『何も、留学まですることないじゃないの』とか、言われまくったなぁ。伯父貴が、いいチャンスだから頑張ってくればって口添えしてくれたんで、やっと出してもらえたの」
「うわぁ・・・大変だったんですねぇ」
そう呟いた峰をチラリと見やってから、前野が再び口を開いた。
「でも、周りの言い分も判るなあ。主任の場合、日本でちゃんと医大出てるんですし、継ぐべき病院もある訳じゃないですか。そりゃあ、なんでわざわざ・・・って言いたくもなりますよ?」
「まぁねえ。留学目的が特殊だったから、友達連中からも首傾げられちゃってさ」
石川も籍を置いていたカンザス大大学院は、医療全般に渡って、様々なコースが設けられている。教授陣には相応に知られた名前が連なっており、研修制度等もかなり充実していた。また、他の医療系大学及び大学院との交流も盛んであった。
だから、多くの医学生達がカンザス大の名前を気に留め、留学先として彼(か)の学府を選んだ。国籍の異なる者達は様々な向学心を胸に抱いて、アメリカ合衆国のほぼ真ん中に位置する州へとやってくる。そのほとんどが、自国で学ぶことが不可能なものであったり、或いはその地でしか得られぬ師や技術や知識を求めてのことだった。
そういう意味に於いては里村の留学目的も、カンザス大でなければ学べぬ特殊なものだったと言えるかもしれないが―――
「切開技術の向上・・・ですか?」
峰が谺しげな声で、主任の科白を反芻した。
「ひらたく言っちゃうと、そういうこと。一応、表向きにはもっと仰々しいお題目掲げてたけど・・・循環器系オペに於ける最先端技術の促進と改革―――とか何とか。もう、覚えてないや。人体になるべくダメージを与えない切り方の研究、って言えば判り易いかな」
揃って首を傾げる年若き外科医達に向かって一頻り頷いてみせてから、里村はにこにこと言葉を紡いだ。
「まあ、切る技術自体は当人の腕次第でしょう。メスそのものの性能や使い易さとかにも大分左右されるけど、基本的には個人個人で研鑚を積むことだもの。ただね、人体のことだけ考えたら、切らないに越したことはないのね」
乱暴な言質ではあるものの、医療的にはその通りである。投薬で直せるのならそれが一番良い。本来、繋がっている組織を断ち切り開腹する―――つまり、オペを行うというのは、あくまでも最終手段なのだから。
「そういう訳で、ラパコレの類い―――要は内視鏡や腹くう鏡を使った手術は、将来的に機械でもやれるよう、手術ロボットの開発が進められてるのね。どうも、そのロボット用に切開データを採るってフシもあったみたい」
「はぁ・・・将来は機械がオペ、ですか」
間抜けた声を出した前野へむかって、里村は意味ありげに笑ってみせた。
「結局、細かいオペであればあるほど、安定した技術が必要になってくるでしょ。今はそれを外科医個人の才能として片付けてるのね。でも、機械でやれば精密性に関しても常に一定レベルを保持できる。その代わり、オペの途中で故障するかもしれない、というリスクが付いてまわるけどさ」
確かに医者も人の子である。体調や気分によっては、執刀に於いて多少のバラつきも出てこよう。だから、外科医である以上、普通はオペ前の調子をより良い状態へ保とうとする。結局、その部分に関しては、どうしても個人の努力へ頼らざるをえないのだ。
「そんなこんなで、カンザスでは解剖三昧。まあ、僕は切れればよかったから、願ったりかなったりだったけど―――人の身体って、実に様々な部位があるでしょう。凡そ、普通のオペでは切らないようなところも随分切らせてもらったなあ」
メスを持つ手真似をしながら語る表情が、子供のように輝きはじめた。
「たとえば水晶体ね。ぶすりとやって視床までずぶずぶずぶ・・・当り前だけど伸縮するのね。眼科のオペでもまずそんなとこ切らないのに、とは思うけど、機械には"こう切ってはいけない"という認識もさせなきゃいけないの。だからデータとしては必要ってことになるのね。あとは脂肪のつき具合とか筋肉の堅さとかによって刃の傷み方が違ってくるでしょ。そういうことも検証しないといけないし」
―――・・・・・・
そろりと視線を動かして、前野と峰は互いを見やった。
いくらそれが留学体験だったとしても、"人体を切る"という行為をこんなにも楽しそうに話されるとは思ってもいなかった。胸が悪くなりそうだ。
何とか話題を転じようとした前野が、慎重に言葉を投げかける。
「そういえば、さっき伯父さんも解剖がお好きだって仰っしゃってましたよね。隔世遺伝とは言わないと思いますけど、やっぱり『血』のなせる技だったりして」
「あはははは、そうかもしれないなぁ。うん、これはもう『血』だろうね」
からからと笑った男は普段通りの人懐こい笑みを浮かべてみせた。まるで、先程聞いた科白の数々は空耳だったのではないかと思いたくなるような明るい表情である。
「要はさ、"人の身体を切りたい"という変態的嗜好を合法的に満たす職業って医者しか無いんだよね。免許持たずにメス振り回したら、それこそ犯罪者だもの」
これぞ欲望の正しい昇華方法だと思わない?と問われた外科医達は、遠慮がちながらもひとまず頷く。
穏やかな話ではないが、里村の言うことはある意味で正論と言えなくもない。とはいえ、たとえ医師免許保持者であろうと、治癒目的以外にメスを揮えば罪へ問われるだろうが。
「だから、僕は切りたくて外科医になったのね。まあ、こういう事言うと気持ち悪がる人もいるんで、あまり言わないようにはしてるんだけど」
ならば今この時にもそのポリシーを貫いてほしかったものである。前野も峰も、こっそりと溜息を吐いた。しかし当の主任はそれに全く気づいていないようだ。
尤も、里村が優れたドクターであることには違いない。司馬や石川ほどではないものの、技術的には平均レベルを上回る安定感がある。既に何度か里村と同じオペ室へ入った者達の間では遍く認められ、定着しつつある評価だった。
よしんば、執刀医が心中で何を思おうとも、手術自体をきちんと遂行し成功へ導くのなら何ら問題は無いのだし、己の裡に潜む嗜好を正しく理解した上で社会規範との融合を企図しているのだから責めるには及ばない。考え方によっては、自身の欲望を上手く飼いならしているだけマシなのではないだろうか。
だが、やはり気持ちの良い話題ではない。このまま談笑し続ける意欲をすっかり無くしてしまった峰は、どうにかして会話の流れを変えられないかと思いつつ、気ぜわしく視線を泳がせる。何かが視界の隅で動いた。丁度、奥の机で投薬票の整理をしていた男が立ち上がり、こちらへやってくるところだった。「え、医者になろうと思った理由?」
クランケのCT写真をあらためつつ医学書を捲っていた司馬は、つい先程まで自分の真後ろに座っていた男が上げた声に眉を顰めた。不自然にならないよう留意しながら軽く頭を傾け、声のした方へ目線を向ける。やや困惑気味に小さく眉根を寄せた表情が飛び込んでくる。
突如訊ねられた質問を復唱した石川は、応接コーナーの傍らで所在無さげに突っ立っている。
頭上で、僅かに音がしていた。壁に掛かった時計はひたすら忠実に長針を進め、厳かなる時の刻みを明示する。自分が医局へ戻ってきて、もうじき小一時間が経とうかというところである。
午後いっぱい外来診察を担当していた司馬は、ドアを開けた途端、室内の奥に先客を見つけた。回診業務を終えてきた石川が共有デスクにて何か作業をしているらしい。真っ直ぐに窓際まで進み、自分の席へ腰を下ろす。石川が何か言いたげにこちらを見上げたが、敢えて無視した。
背中合わせの状態で互いの為すべきことへ没頭し、四十分近くも経過した頃である。前野と峰を従えた里村が医局のドアを開けた。揃ってオペから上がってきたようだ。
天敵同士が黙々と作業に勤んでいる様を見てとった三人は、手前の応接コーナーに落ち着き、話し始めた。おそらく、オペ室を後にした時から交わしている内容の続きであろう。
パソコンや医学書、各種書類を綴じたバインダー類が山積している机三列を隔てた距離は、向こうの会話内容をこちら側の二人へ事細かに伝えてきてはいなかった。それでも切れ切れながら小耳に挟んだところでは、誰がどんな理由でこの職業を選んだかが話題であるらしいと知れた。
十人いれば十通り―――医者の数だけ志望動機もまた存在する。
近親者に医療従事者がいたり病人がいれば、自ずと医学を志し易くなるだろう。或いは、小さい頃に野口英世やシュヴァイツァー等の偉人伝へ触れ、心を決めた者もいる。一方で、有資格者ゆえの高額収入を得たいが為に、医学部の門戸を敲いたのかもしれない。
くだらねーこと、話してんな・・・
司馬は微かに口許を緩め、苦笑した。
そんなことを告白し合ったところで、どうだというのか。それを知ることが何かの足しにでもなるというのなら話も違ってくるが、所詮は個人事情に過ぎない。せいぜい、問うてきた相手の好奇心を満足させるだけだろう。
そうは言っても、多忙な一日にあって少々息抜きしたくなる気持ちも解らないではない。くだらなかろうが、どうでも良い事だろうが、雑談することによって幾分気は紛れる―――時としてそれも必要な行為なのだ。
司馬は広げていた医学書へ視線を戻した。
あいつがどう答えるかくらい、見当はついている。喘息持ちの妹を治してやりたい一心で医学を志したと、石川本人がつい最近、自分へ語ったのだから。
別段、それを今一度確認したく思った訳ではなかった。しかしなんとなく、彼がどう返答するか、気になった。
いっそ、聞き届けてみよう。そしてその後は、応接コーナーの和気あいあいとした会話を己の意識よりシャットアウトすればいい―――そう考えつつ、耳を澄ませた。
だが、石川の発した科白はこちらの予想を見事に裏切った。
「う・・・ん、いろんな理由があったと思うけど―――何がきっかけだったかは、もう、あまり覚えてないな」
「そ、そうなんですか・・・?」
拍子抜けしたような峰の声が司馬の耳へも届く。
続いて、里村の問いかけが聞こえてきた。
「石川先生って、大学からずっとカンザスだったよね。最初は内科志望だったって話、聞いたけど・・・誰か、そっち方面で闘病してる知合いでもいたの?」
「え・・・それは、まあ」
日頃、何につけてもはっきりとした物言いをする石川には、不似合いなお茶の濁し方だった。やがて会話が途切れる。語るのを躊躇った男は座していた席へ戻ってきた。そして何事も無かったかのように、再び司馬の真後ろで作業しはじめた。
少しく、意外であった。
同じカンザス大に籍を置いていたものの当人同士の交流が殆ど無かった里村や、石川とあまり親しくない前野はともかく、峰あたりならとっくに知っている話だと思っていた。にも拘らず、研修医が敢えて質問したということは、話の矛先をよっぽどずらしたかったんだろう―――司馬は、そう踏んでいた。
しかし、どうもそれだけではなかったらしい。彼女は、石川が医者になろうとした事情を本当に知らなかったとみえる。がっかりしたような声音がそれを如実に物語っていた。
おそらくは好機到来とばかりに訊ねたに相違ない。けれども、石川は答えなかった。世間話のついでに喋ってもおかしくないような事柄で、しかも傍からはかなり親しい間柄だと思われている峰に問われたにも拘わらず―――だ。
とまれ、あくまでプライヴェートな事情であるから、喋る喋らないは石川本人が決めて然りではある。
他の奴には、話してねー・・・ってことか―――
尤も自分だって、あの時石川の家へ連れ込まれてなければ、それを聞けたとは限らないだろう。そう、あれは偶然だった。単なる場の雰囲気に背を押され、その結果、彼の口をついて出た身の上話だというだけに過ぎない。
しかしその事実は、己の中へ不思議な感情を呼び起こそうとしていた。
自分達は既に、とある『秘密』を共有している。冠状動脈肺動脈起始症のオペという大難題が、今や互いを共犯者として結ばせて久しい。尤もその重圧と比べれば、今日のこの出来事はあまりにささやか過ぎるものであったが。
体内を奇妙な暖かさが駆け巡る。石川が自分だけに身上を語ったという事実は、司馬の中へしっかりと居座り、日溜りのような安堵感をその意識に覚えさせつつあった。医者になろうと思った理由。
医局入り口付近の戸棚に立てかけられている薬事情報誌の内容を確認しようとして応接コーナー脇を通り過ぎた時、唐突にそう問いかけられた石川は、暫し硬直した。
質問者の峰だけでなく、前野までもが自分の受け答えを待ちわびるような表情を見せている。珍しいこともあるものだと思いながらも、果たしてどう答えたものか―――カンザス帰りの男は、言葉に詰まってしまった。
医学を志したきっかけとしては、喘息で苦しんでいた実妹を治してやりたかったという、判り易い事情があった。尤も、彼女の身体はその成長と共に抵抗力を身につけ、今や生死に拘わるような症状ではなくなって久しい。だからそれを今、ここで話したとて何ら問題は無く、多人の目には良く映りこそすれ、呆れられたりすることのない志望理由である筈だった。
にも拘わらず、なぜか素直に答えるが躊躇われた。
先般、ある男に家族の話をした時のことが、石川の心中を掠めた。あの日、自分と彼との間にあった筈の様々な確執は夢のような記憶となって空中分解し、それぞれが抱えていた過去の印象もことごとく覆えされた。その瞬間はやや気恥ずかしくも忘れ得ぬ既知感となり、こうして己の中へ甦ってくる。
その所為なのだろうか。今、この場で、妹の病気が発端だったという理由を詳らかにする気になれないのは―――
元々、自身のことを率先して話す性質ではない。訊かれれば家族構成くらいは答えるかもしれないが、この多忙な勤務体系に於いては、個人的にも立ち入った話をしている暇はないのが実状だった。プライヴェートな話題など、滅多に聞かない。雑談時であっても仕事に関わるやり取りが多くなり、自然、情報交換と愚痴で終わってしまうのだ。
少しだけ唇を噛んでから、石川はやっと口を開いた。
何がきっかけだったかは覚えていない、という返答を受けた峰の顔が、あからさまに沈み込んでゆく。素っ気無い答えは彼女をがっかりさせてしまったらしい。続いて問いかけてきた里村の言葉は核心をついていたが、それすらも受け流した。
石川は、そそくさと奥の席へ戻った。結局、必要だった雑誌は取り損ねてしまった。
なぜ、あの程度の質問に対してあんなに固執したのか、自分でもよく判らない。けれども、なんとなく司馬以外の人間には知られたくなかったのだ。
なんなんだろうな、これって・・・
錯綜する気持ちを抱えながら、石川は背中越しに黙々と仕事をこなしている男を想った。
自分にとって司馬は、今だ謎だらけの存在だ。その考え方も生き様も、不可解としか言いようがない。けれども、真向うから対立していた頃とはあきらかに違う何かが、互いの間で息づいている。それだけはどうにも否定できなかった。
これから、自分達の関係は今後どうなってゆくのだろうという疑心が、一瞬、脳裡を過る。とりあえず、冠状動脈肺動脈起始症オペを前にし、互いの手を携えることにはなった。そしてそれが終われば、昔のように同僚として働く日々が続く筈だ。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
今はまだ、特殊な目的を前にしての共犯意識でしかないそれが、全く別の絆と成り変わる運命は目前まで迫っていて、石川と司馬を呑み込もうとしている。
しかし当人達にその自覚はまだ露ほども無く、司馬も石川も医局の片隅でそんな気配を漠と感じているだけだった。To Be Continued・・・・・
(2001/10/4)
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−第6話に対する言い訳−
あああ、玉砕……(って、いつもだろ・爆)
話の進んでなさ加減については、もはや言い訳するのも憚られるほど。待って頂いていた皆様には、ひたすらお詫び申し上げます。もももも申し訳ありましぇ〜ん(ぺこぺこぺこぺこ)
更に、ネタ的にも思いっきりプチ←自分で言うな コンセプトは一応、変態外科医な里ちゃんの正体を暴こう!という回なんですが、どうしようもなく完敗ですね〜(遠い目) まぁ、里ちゃんを壊すという目的の為に一話分かけるのもどうよ?って感じなんですけど、これは一応、公言(?)していたので強行しました。
なお、科白の一部に於きまして、美沙子様、井上★律子様、MakiMaki様に多大なご協力をいただきました。どうもありがとうございます〜
それと里ちゃんの留学目的その他は、思いっきり法螺です(断言) 2001年現在、手術用ロボットは慶応大学病院などで実際に使われていますが、既に1993年当時テストロボットくらいは出来ていたのではないでしょうか。
っていうか、医療方面に関する記述は全部ウソだと思ってください(恥)←少しは調べろよ…