天使が隣で眠る夜  5




暖房も効いていない研究設備内の室温はかなり低い。だが、底冷えするかのような悪寒を感じるまでではない筈だ。にも拘わらず、身辺がやたらと寒々しく思えるのは、『怖い』と評判の外科医を前にしている所為であろうか。
羽織ったカーディガンの裾を握り締めながら、加世はとにかく懸命に事情を説明した。
新たな煙草に火を点けることなく、司馬は看護婦の話へ耳を傾けていた。時々、質問を差し挟もうとして口許を緩める度、目前の語り手は焦ったように話すスピードを早める。途中で遮られたら終わりだとでも思っているのだろう。司馬は心の中で溜息を吐くと、ろくな息継ぎもせずに喋り続ける彼女を黙って見守ることにした。
そうこうしているうちに、小柄な看護婦は全てを吐露し終わった。
掻き乱された室内の空気が澱み、流れるような、たゆたうような沈黙を連れてくる。加世は重荷を下ろしたと言わんばかりに一、二度深呼吸した後、再び司馬へ縋るような眼差しを投げかけた。
軽く腕を組んで難しい顔をしていた外科医が訊ねた。
「相談は、してないのか?」
「それが・・・」
脳裡へチラつく優しい担当医の顔を強引に振り払う。できるものなら、とっくにそうしていた。だが、とある理由からそうするのを躊躇われ、結局、今日という日が来てしまった。
加世がそのクランケを看るようになったのは、先輩連中がなんのかんのと理由をこしらえ、揃って担当を逃げてしまったからだ。
誰だって、苦手なクランケが一人や二人、いるものだ。相性の良し悪しはどうしても存在する。しかし、看護婦の大半に煙たがられるというのは患者の方も相応の問題があると言えよう。そうして、一番下っ端の自分へと御鉢が回ってくるのは何も今に始まったことではない。何処の職場にも潜む年功序列がこういう所で幅を利かせている、というだけのことである。
それでも仕事は仕事だと割り切り、看護にあたった。病人は入院当初こそ口喧しさを発揮していたが、もはや俎板の鯉と覚悟を決めたようで、最近は口数もすっかり減っていた。
一ヶ月近く面倒を見ていればそれなりに情が移り、患者本人を取り巻く状況についても聡くなる。担当医との関係は芳しくなく、どうにも埋めようのない溝があることにも薄々気づいた。
だからクランケの意へ反することは極力したくなかった。現在、唯一口を利いてもらえている自分が担当医へ相談を持ちかけたと知れたら最後、患者はいたく臍を曲げてしまうだろう。そう確信出来るからこそ、今までこうして唇を噛み続けていたのだ。
司馬が視線を落とす。静かな声で、質問が重ねられた。
「カルテ・・・ここに、持って来れるか?」
ごくりと唾を呑み込み、加世は黙って首を縦に振った。急いでナースステーションへ取って返し、さも忘れた物を取りに戻った形(なり)を装いながら、前もって抜き出しておいたカルテを持ち出した。殊更、胸にしっかり抱えて、司馬の待つ研究設備へ急いだ。
差し出した帳票を見た男の表情が途端に厳しくなった。
「担ぎ込まれてから、三度目・・・」
発作の起きた回数である。患者名を聞いた時から予想はしていただろうが、優秀な外科医は命の火がそう長く燃え続けていられない現実を書面からはっきり読み取ったらしい。
あまり、時間は残されていない―――
カルテ一式を返した司馬が真っ直ぐに加世の目を見返してきた。
「書類、用意できるか?」
くりくりっとした愛らしい瞳が輝きを帯びる。
「はいっ!!」
大きく息を吸い込んだ看護婦は元気良く答えた。

五日後、一人の入院患者が激しい発作に襲われ、意識不明の重態に陥った。重度の左前下行枝梗塞だった。

大雑把に畳んだコートを膝の上へ乗せたまま、山崎雅也は部屋の中をぐるりと見回した。初めて通されたカウンセリング・ルームは想像していたよりも広く、明るい。南向きの窓が投げかけられる冬の長い日差しを余すことなく受け止め、つい先程まで冷たい外気に晒されていた我が身も徐々に温もりを取り戻しつつある。
治療について担当医の説明を受けるのは、これが初めてという訳ではない。しかし、今まではそれも父親が入院している病室に於いて行われていた。自身の納得出来ないやり方には断じて従わん、と言い続けた病人は、全てを己の耳へ入れたがったからである。尤も、意識がある場合は患者本人の意向も踏まえて治療方針を定めるのが普通なので、別段、特例という訳でもないのだが。
ほどなく、外科部長が担当医を従えて入ってきた。白衣姿の二人を前にした雅也はそそくさと頭を下げた。
老父の容態が若干の専門用語を交えつつも判りやすい言葉で、ざっと説明される。
いつかそうなるだろうと、判ってはいた。
一年前、この天真楼病院で幸運にも一命を取りとめた父親は、息子の手を振り払い、どうしても東京での生活を続けると言い張った。今度という今度は同居するつもりでいた自分はもちろん、両親用の部屋を整え始めていた妻も呆れて言葉を失したことが昨日の出来事のように思い出される。しかし、一旦こうと決めたら最後、聞く耳を持たない頑固さには年季が入っていた。老いて子に従ってくれるような可愛げのある年寄りではない。
あの時、手術をしてくれた若い医者が間に入ってくれなかったら、一体、どうなっていただろうか。術後のリハビリに尽力してくれた彼が、退院後の生活に於ける注意事項もきっちり提示してくれた。そのお陰で自分達夫婦は、共に齢90近い両親だけの暮しを今暫く遠方から見守ってみようと、決意も出来た。
だから、父の面倒を見てくれた医者達に感謝こそすれ、恨みごとを言うつもりなど毛頭無い。だが、もしも老父が自分と共にN市で暮していてくれたなら。もっと様子も見に来られたし、こうして入院した後も、より頻繁に見舞えたのに・・・という気持ちがどうしても拭えないだけだった。
次に発作が起きた時は、覚悟しておいた方がいいでしょう―――
数週間前に言われていたことが現実となった今もなお、それを直ちに受け容れられる筈がなく、雅也は日だまりの中で頻りに瞬きしたり頭を振ったりしていた。目を閉じて再び開けばそこには別の未来が開けていて、悪い夢から逃れられるに違いないという現実逃避じみた想いが全身を駆け巡る。だが、決してそんなことは有り得ない。都合の良い妄想にいつまでも浸っていたところで何ら解決はしないのだ。
「・・・それで、意識が戻る見込みは―――あるんでしょうか?」
覚悟を決め、正面から問いかけた。担当医の石川が息を呑む気配が、手で触れた如くに伝わってきた。実直そうな青年は懸命に言葉を探しているらしい。
部長先生へ視線を移してみたものの、眉間に深い皺を刻んだまま目を瞑っているばかりである。つまりは、ほとんど期待出来ないということか。
石川がおずおずと言葉を返してきた。
「ほんの一瞬だけ戻る、ということが、絶対に無い、とは言えませんが・・・」
「そう・・・ですか」
その口ぶりからしても、そんな望みが千に、いや万に一つもないものであることは明白だった。門外漢とはいえ、それくらいは雅也にも理解出来る。
だが、その可能性がゼロでないのなら。
如何な手段を持ってしても、その命を長らえさせたいと願うのは人の子なら当然の心理であろう。己より先に死すのが親なのだと頭では理解している。だが、それは単に意識が無くなっているだけで、絶命しているのと訳が違う。
ある日突然、父の身体に奇跡が起こらないと、果たして断言出来るだろうか。
完治は叶わなくとも倒れる前の小康状態に戻るかもしれない。それを決して有り得ないことだと、誰が決めつけられるだろうか。
常々、延命はするなと言われていた。その時が来たらすっぱり引導を渡してくれと、くどいほどに頼み込んでいたしゃがれ声が耳元へ甦る。
だけど、親父―――
残された俺達の気持ちはどうなるんだよ?
お袋のことはどうなるんだよ?
老父に意識があった頃はその願いをいとも簡単に考えていた。笑いながら、「それくらいは最後の親孝行としてやってやるよ。任せときなって」などと口にもした。それが単なる安請け合いであったと認識を改めさせられたのは、つい先刻のことだった。
此所へ来る前に立ち寄った集中治療室で、病人の全身へ取り付けられたチューブや機器類を目にした途端、何かが自分の中でがらがらと音を立て、崩折れた。
深い皺を増やした顔からは既に生気の欠片すら感じられない。見た目にもはっきりと判る、憔悴しきった身体がどうしようもなく痛々しかった。昔日の、かくしゃくたる姿を思えば思うほど身体の奥から熱い何かがこみ上げてきて、ともすると眦を濡らしそうになった。
我儘で頑固で偏屈な爺だが、たった一人の親だ。これからだって目を開けるかもしれないならば、どうしてそれを諦められようか。金が払えない訳ではない。高校生を筆頭に三人いる子供達にはいろいろと物要りではあるけれど、親の一人や二人、面倒を見る力くらい自分にも捻り出せる筈だ。
雅也はざっと頭の中で算盤を弾いた。両親の年金なども含めて自分の収入分を概算し、そこから生活費その他の支出を引いてみる。二男一女にかかる教育費は別として、無理をしなければなんとかやっていけるだろう。
だから、どうか出来る限りの延命を―――心から迸り出る想いが悲鳴のように洩れんとしたその時、微かな物音がした。
ノックの音だ。医者二人が不思議そうに顔を見合わせ、かわるがわる出入口の方へ視線を投げた。
先程から途切れたままの会話を繋ぎもせず、室内の者達が揃って沈黙の中へ身を横たえていると、苛々したような打音が再び扉越しに響いた。
「・・・誰?」
探りを入れるように言葉を発したのは中川だった。しかし、名乗りは無い。外科部長の声を確認したことで目的が達せられたのだろうか。
音も無く、静かにドアが開いた。雅也にとって忘れ得ぬ医者が、そこに居た。
「司馬・・・先生」
このドクターの執刀でなかったなら、父は今日び、こうして生きてはいない。いろいろとよくない風聞を聞きもしたが、オペの腕とその後の処置に関しては確かなものを持つ外科医であった。
あっけにとられている同僚達の方をろくに見遣りもせず、司馬は真っ直に自分の元へやって来て軽く頭を下げた。
「お久しぶりです」
「その節は、大変お世話になりました・・・司馬先生のお陰で、父はなんとか生きてこられました。本当に、ありがとうございます」
立ちあがってまで元担当医の手を取り、雅也は深々と一礼した。

石川はその光景を呆然と眺めていた。患者サイドに感謝されている司馬という構図自体が物珍しく、驚きを隠せなかったのだ。中川の話を疑っていた訳ではないのだが、一年近く前に担ぎこまれた時、山崎老人の症状がいかに切羽詰まった状態であったかを今更ながらに思い知らされた。
それにしても、既に担当ではない元患者のカンファレンス中に突然押し入ってくるとは、どういうことだろうか。
通常、患者本人やその家族を交えて行われるカンファレンスのスケジュールに於いては、外科部長と主任で一通り把握し、管理することとなっている。それゆえ、中川か里村に訊けば、いつ誰が誰のカンファレンスを予定しているかという情報を得ることが可能だった。
だが、担当医から特別に治療への協力を要請(時には外科部長命令としてそれが為されることもある)されなければ、個々の受け持つクランケやその治療方針に対して口を出さないし関わらない、というのが不文律な筈だ。
「何か・・・用ですか?」
なるべく穏やかに聞こえるよう声を抑えながら、突っ立ったままの同僚へ問いかける。
背を向けていた男が顔だけを捩って、こちらを見返した。
「すぐに、済みますから」
司馬の視線は訊ねた石川を通り越し、中川へ向けられていた。この男の暴挙に慣れている上司が無言のまま仕方なさそうに頷く。
手にしていたバインダーから書類らしきものを取り出した司馬は雅也の前へそれを差し出した。
「僕はもう、担当医ではありませんが・・・こちらを山崎さんから預かりました。お渡ししておこうと思いまして」
薄っぺらい紙を掴んだ手は小刻みに震え出し、雅也の口から呻き声が洩れた。
「・・・親父のやつ―――」
「山崎さんは、先のことをいつも考えていらっしゃいました。貴方や貴方のお子さん達のこと、そして、奥様のことも・・・これが、患者本人の意思です」
今日(こんにち)、山崎翁にとってただ一人の子である男は書類を握り締め、何かを懸命に堪えようとしている。相変わらず石川達へ背を向けるように立っている司馬がどんな表情をしているのか、こちら側からは伺いようもない。
元担当医である彼は、一体、何を手渡したのだろうか?
石川は視線を流して中川の表情を捉えた。しかし、当の外科部長も思案顔でこちらを見返してくる。ということは、全くの個人プレイなのだろう。
目を凝らし、雅也の手中にある書類が何であるか、判別を試みようとした。だが、司馬の身体そのものが陰になっていてよく判らない。
することも無いので前方の様子を伺っていると、患者の息子は突如へなへなと腰を下ろした。顔を覆った両腕にかなり力が入っているらしく、拳が奇妙な白味を帯びている。やや皺くちゃになった書類は無造作にテーブルの上へ投げ出された。
やっと、問題の書類が何であるか確認できそうだ。そうして首だけを少々伸ばし、書面を読み取った石川は、次の瞬間、頭をハンマーで強く殴られたような衝撃を受けた。
尊厳死の宣言書――リヴィング・ウィル。
わななきそうになる全神経を辛うじて宥め、司馬の背を睨み付ける。足元で突如パックリと口を空けた陥穽へ呑み込まれてしまいそうだ。
思えば、急患として運ばれてきた初っ端から、山崎翁は非協力的なクランケであった。
検温程度なら特に逆らわれはしなかったが、具体的な治療を行おうとすると激しく拒否された。下手に口論となった挙句、極度な興奮を引き起こし病状が悪化することを恐れて、現状を維持する程度のことしか出来なかった。体内へカテーテルを挿入して直接薬剤投与をしていたなら、もう少し元気でいられただろう。だが、患者本人はそれをひどく嫌がった。
どうか、治療させてもらえませんか―――そう頼むのは、もはや石川の日課となっていた。
頑固な老人が、この、延命に等しいやり方を望んでいないことは、救急患者として運び込まれて来た際の様相からも知れていた。だが医療に携わる者として、それを「はい、そうですか」と認める訳にはいかなかい。だから、なるべく負担の少ない治療方法を採ろうとしたし、判ってもらおうとして、石川は日に何度も病室へ通った。
しかし、こちらが言葉を重ねれば重ねるほど、老人の表情は硬くなり、口は貝の如く引き結ばれるようになった。酷い発作を起こした後でもその考えは変わらなかったようだ。数日前より度々呼吸困難に陥る回数の増えた病人は、もはや自分とは口をきこうとせず、話し合いが出来る状態も遥か遠くへ追いやられて久しくなっていた。
ただでさえ偏屈なこの患者には看護婦もほとんど寄りつかない。だから、その気になれば書類の捏造も―――やってやれないことではない。
まさか・・・?!
全身へ力がこめられた瞬間を見透かすかのように、隣からスッと伸びてきた手が、石川の右腕関節辺りを軽く抑えた。驚いて顔を上げると、普段の中川からは想像もつかぬ真摯な表情が自分を見つめていた。
不穏な動きもしかねない部下をそれと判る程度の微かな首振りで牽制してから、上司は己の手を元の位置に戻した。
「お父上は、よく、頑張られました」
静かな声がした。司馬は相変わらずこちらを一顧もしない。唇を噛んだまま雅也が頷いて、その過去を認めている。
「正直なところ、僕は、もって半年だろうと思っていました・・・あのオぺの成功自体が、奇跡でしたから」
一切の感情が取り払われたかのような、淡々とした口調だった。だが、なぜか、冷たいという印象は受けなかった。
「でも山崎さんは、退院されてから十ヶ月も、普通の生活を送ったのです。僕が指示したことをきちんと守られたのでしょう。いや、きっと―――ご自身がそれ以上に、気をつけていられたのでしょうね」
語り終えた男は、静かに佇んでいる。
おそらく、言いたいことや言わなければならないことが、それぞれにある筈だった。だが、言葉を吐き出そうとする者は誰一人としていなかった。
窓越しに遠く響く街の喧騒と室内の空調音が、それぞれの心に沈んだ意識を時折、思い出したように攪拌する。
冬の午後はひたすら物憂い気配を辺りへ漂わせていた。

やって来た時と同じくらい唐突に司馬が立ち去った後で、石川は件の書類を仔細に調べてみた。しかし、特段怪しいと思われる箇所は見当たらなかった。署名についても息子が当人の筆跡を認め、その信憑性は裏付けられた。
ゆえにこれが入院した時から始終一貫したクランケの願いだと認めなければなるまい。だが、担当医の石川ですら初めて目にする、山崎老人の『尊厳死の宣言書』に記述された明確な意思は、今更ながらに家族へ過酷な決断を強いるものである。いくらそれが父親たっての希望と判っていても、すんなり従えるものではないだろう。
母や妻とも相談してみるからと言って、山崎雅也は外科部長と担当医に頭を下げてから帰っていった。
何かを庇うように丸めた背を見せつつ遠ざかってゆく後ろ姿を見送った二人の医者は、不気味な静けさに覆われている室内で溜息していた。
「で―――どゆこと?」
中川がのろのろと口を開く。しかし訊かれた石川にも答えようがない。返す言葉に窮していると、外科部長は内線電話の受話器を取ってボタンを押した。早くも司馬をその向こうに捕まえたらしい。
「あ、司馬君? 悪いけど、こっちまで来てくれませんか?―――え? 書類上に不備はありませんがね、ちょっと・・・いや、そういうことじゃなくて―――ホラ、確認はきちんとしときませんと、ねぇ・・・とにかく、待ってますから。お願いしますよぉ」
さすが、伊達や酔狂で司馬の上司をやっている訳ではないようだ。電話の向こうで渋っていた部下をひとまずねじ伏せたのだろう。こうなったら、問題児も出向いてこなければなるまい。
果たせるかな、それからたっぷり10分は過ぎた頃、仏頂面も甚だしい男が再びカウンセリング・ルームへ姿を見せた。
先程、山崎雅也が腰掛けていた位置に座り込んだ司馬は、不遜な面差しで二人をチラリと見遣る。
「どうして、貴方がこれ―――持ってた訳?」
努めて柔らかく中川が問いかけた。
司馬は軽く息を吐き出し、答えた。
「山崎さんは延命を希望していませんでした。それで、必要な手続きを取ってほしいと、頼まれたんです」
「なぜ、担当医の僕に一言も断りを入れなかった?!」
相手の言い分を聞くが早いか、石川の口からは憤懣やる方無いといった科白が飛び出した。しかし答える方も、一向に悪びれない。
「キミが休みの日、だった」
「わざと、僕がいない日を選んだんだろう? 違うか?!」
本当は加世から相談を受けた折に済ませてしまいたかったのだが、その日はあいにくケースワーカーの稲村が不在で、リビング・ウィルの書類交付をしてもらうことが出来なかった。翌日はたまたま石川の公休日だっただけであり、単なる偶然に過ぎない。
だが、怒り心頭に達している目前の同僚へ何を説明したところで、無駄だろう。
「そうしたつもりはない」
諦めの良さから出ただけだった司馬の素っ気ない一言は、却って火に油を注いでしまった。
「そんな言い訳が通るか!」
「あのー・・・」
中川が、今にも互いへ掴みかかりそうな二人を諌めようと口を開く。しかしタイミングが悪過ぎた。先般から手持ち無沙汰な表情で自分達を眺めている上司へ向かって、石川はここぞとばかりに食ってかかった。
「部長っ! 確かに、山崎さんは治療を受けたがらない状態でした。でも、だからといって勝手に彼が書類を作成して良い、ということにはなりません!!」
「・・・時間が、無かった」
呟くような声だった。
「な・・・に?」
再び司馬の方に向き直った石川の視界へ、苦しげに歪んだ男の表情が飛び込んできた。
「おまえが『生きる為に治療を受けろ』としか言わねーから、山崎さんはリビング・ウィルについて相談を持ちかけられなかったんだろーが!!」
石川の背筋に何か電気のようなものが走った。
「それは、違う!」
「違わない」
「そうじゃない。僕は何度も山崎さんと話そうとした。でも、ほとんど口をきいてもらえなかったんだ」
自身を落ちつかせるつもりで、言葉を吐き出した。
「そうか?」
「ああ。だから、相談してもらえれば僕だって・・・」
「本当に、そうか?」
司馬が容赦無く、繰り返した。鳶色の瞳は激しい炎をその中に宿している。
「・・・相談を受けていたら、おまえは本当に、山崎さんが希望した通りの書類を作ったか?!」
会話が一瞬にして干上がった。
石川には返す言葉が見つからない。そもそも、生きようとしないクランケを説得することしか考えていなかったのだ。仮に相談されたところで、自分はそれをまず請け負おうとしなかっただろう。
逡巡し始めた同僚を見据えて、司馬は殊更ゆっくりと言い置く。
「いいか、石川。クランケの生き方を俺達医者が決めるのは、越権行為なんだよ」
声が怒りに震えていた。
確か、前にもどこかで司馬のこういう表情を見たことがある―――既視感が突然、石川の中に甦ってきた。あの時も、言い合っていた自分へ向けられた憤激の中に、行き場のない、矛先を向けようのない、怒りが潜んでいた。
―――お前みたいな医者がいるから、死にきれない患者がどんどん増えているんだ。身体中にチューブつけられてな、無理矢理生かされている患者が増えてるんだよ!!
仁王さながらの形相で突きつけられた、現代医学による弊害だった。それは今、ここで取り上げている事と根幹を同じくしている問題なのだ。
「あー、とりあえず状況は判りましたけど・・・」
漸く、間延びした声が割って入ってきた。張り詰めている剣呑な空気に眉を顰めつつも、中川が、話を締め括ろうとして口を開いたのだ。
「患者本人の意思は司馬先生に確かめていただいた訳ですが、最終的にどうするかは御家族が決めることですから・・・ま、あんまりカリカリすると、胃に良くないですよぉ?」
後半の言葉は自分に向けられたものだろう。
折り重なる苦い想いを掻き分けるようにして、石川はカウンセリング・ルームを後にした。

バルコニーに面した休憩コーナーで、足を止めた。すっかり冬枯れた街並みが枝ばかりとなった樹木の向うに具間見えている。何かが瞳に映っても、それについて考えを巡らしたり想いを馳せたりすることが出来ぬまま、石川はただ窓の向うを見遣り、ガラスに凭れて立ち尽くしていた。
「石川先生」
振り向くよりも早く、声の主がこちらへ一、二歩近づく。日頃、一緒に仕事をしているナースの中でも一番年若い加世だった。
「―――勝手なことをして、申し訳ありませんでした」
「・・・? どういう、意味?」
のろのろと反応を返した石川の目が、看護婦の表情を捉える。
「山崎さんのリビング・ウィル・・・私が司馬先生にお願いして、そうしていただいたんです―――本当に、すいませんでした」
「でも、どうして・・・? 担当医は僕だ。どうして相談してくれなかったんだい?」
「山崎さん、石川先生と自分では考え方が違い過ぎるから、いくら話しても判ってもらえないって言ってました・・・話の判る医者を連れてこいって言われて、『司馬先生ですか』って訊いたら『そうだ』って仰って―――」
眩暈がした。司馬の言ったことは嘘ではなかった。あの昔気質な老人は、死生観に於いて決定的な齟齬のある担当医へは遂に気を許さず、信頼出来る元担当医の手を頼ったのだ。
だが、石川にはどうしても判らない。
延命拒否が死にたいという気持ちと同義でないことくらい、理解はしている。しかし、自ら人生へ幕を引こうと決意する、その気持ちを自分の持ち得る思考へ当て嵌めようとすればするほど、患者の願いが何か果てしない思い違いのような気がしてしまうのだ。
太古の昔なら、死は一目瞭然に訪れるものであり、然程悩む必要もなかったのだろう。周囲の者達がいくらそれを認めまいとしたところで、血液はとめどなく流れ出て鼓動もやがて止まり息絶えるという容赦無い現実が全て片をつけてくれる。
しかし、現代はそうならない。医療の目覚しい進歩によって曖昧な死は増えるばかりだ。肉体が持ち応えられるまでそれを生かすことが可能にはなっても意識がそうであるとは限らない。とはいえ、その意識も二度と戻らないと断言は出来ぬ。全てが宙ぶらりんな状態で、患者本人はもちろん関わる人々を緩やかに苦しめる。
では、それをどこでどう断ち切れば良いのだろうか?
看病に疲れた家族が泣きながら決意する様は、石川も何度か目にしてきている。既に患者の意識が無く、遺される者から強く望まれれば、しかるべき処置も採らざるを得ない。しかし、患者本人には『生き延びたい』という気持ちが必ずある筈で、それを引き出してやるのが臨床医の務めではないかと思うのだ。だから、患者当人が己を抹殺するに等しい行為を望むこともあるという現実を石川自身が許せないだけなのかもしれない。
思っていたよりも、自分の考え方は偏狭なのではないだろうか・・・
深々と頭を下げて立ち去った加世の後ろ姿を見送りながら、石川はなお一層重くなった心を抱え、その場を離れた。

結局、山崎老人は、N市内の総合病院へ転院が決まった。
「今だにね、決心がつかないんです・・・」
山崎雅也の呟くような声が石川の内腑を抉る。
「親父の望みはしかと受け止めました。遠からず、延命はもうしないでくれ、とお願いすることになるでしょう。でも、今はまだ、そうする気になれない。だから、自分達がすぐ見舞えるような病院で預かってもらった方がいいだろう・・・ってことになりました」
続けて礼の言葉を述べ頭を下げた男は、ここ数日でひどく老け込んだようだった。
近い将来、どこかで下さなければならぬ決意はその瞬間まで異物の如く彼の体内に燻り続けるだろう。そして決心したその後も、これで本当に良かったのだろうかと悩み、後悔する可能性が高い。しかし、そうして人は別れていくしかないのだ。
言葉らしい言葉もかけられぬまま、石川は担当患者の息子と最後の対面を終えた。
「難しいよねぇ、こーいう問題は」
前回同様、同席していた中川が隣りで呻く。
「司馬先生がね、なんで山崎さんのリビング・ウィルに手を貸したのか・・・ボクには判るような気がします」
危うく聞き流してしまいそうな自然さで紡がれた言葉に、石川の意識が過敏な反応をした。
「?」
ほとんど半身を捩るようにして、上司の顔を覗き込む。死期を感じたクランケたっての願いを汲んだということ以外にも、何か理由があるのだろうか?
「老人医療の現実を考えると、このまま山崎さんを延命し続けるのが必ずしも良いとは思えないんですよ」
地方自治体毎に多少の差はあるようだが、山崎翁の年齢からするとほぼ100%の医療負担が保障される。つまり、自治体の老人福祉課あたりから、該当者が入院している病院へその費用が直接振り込まれるのだ。ゆえに家族側が医療費分を己の財布から出す必要はない。しかし―――
「支払われている老人医療費が果たして相応に使われているかどうか・・・実はね、これが案外はっきりしない」
実際にまだ治療過程を必要とし、様々な薬剤投与が為されているなら、その分の費用は確実に消費される。だが、山崎老人のケースのような、万が一の意識回復に備え、主に延命のみをメインとした治療となると、月に何度か検査と称して行われるチェック以外にとりたててすることはない。だから、医療費としては微々たる額で済んでしまう。それでも病人が『死んでいない』以上、自治体からの医療費交付は打ち切られない。病院側としてはベッドを埋めたまま、その差額分を丸々儲けとすることができる。
それゆえ、家族から切なる嘆願があっても、老人福祉医療費目当てに延命し続ける医者も多いという。寧ろ病院ぐるみでそれを推奨しているところもあるくらいだ。
「確かに意識不明に陥ったからと言って、突然回復する可能性が全く無いとは言い切れません。でもね、お年を召した患者さんの場合は延命されることがそのまま身体を切刻むことになります。山崎さんの場合も、もし、リビング・ウィルが無かったら息子さん一家の意向を押しのけてまで延命される可能性がある。司馬先生はおそらく、そういったことを判っていたのではないでしょうかねぇ・・・」
石川は黙って中川の語った内容を反芻した。昨今の老人福祉および医療に於ける問題が複雑極まりない軋轢を日々生産していることは想像に難くない。つまりは、日本へ戻ってきて一年にも満たない自分では思い至れなかった、ということに尽きるのかもしれない。
十人いれば十通りの考え方があり、死生観があって当然である。それでも自分は、死期を前にして弱気になったクランケに『生き伸びる希望を失わないで欲しい』と今後も説き続けることだろう。しかし、それを望まぬ者を決して否定は出来ない。人がそれぞれに考えている生き方―――或いは死に方をたかが医者である自分が矯正するなど、おこがましい事この上ないのだと、今回、身を持って知らされた。
それにしても―――思わず口をついて出そうになった言葉を石川は慌てて呑み込んだ。
きみはいつだって、言葉が足りないんだよなァ・・・
まだ多分にすっきりしないものはあるが、司馬が自分を差し置いてした事を責め立てる気持ちは既に無くなっていた。
厳密にいえば、担当医の領域を侵したルール違反ということになる。けれど、彼は真摯に患者と向き合い、その最後の声に耳を傾け、医者として出来るだけのことをしたのだ。それが、過去、そうだと思い込み決めつけていた「打算的で、患者に冷たい」態度とはかけ離れた姿勢であったことを石川の本能が察していた。
己にはまだまだ理解しきれない同僚の存在を不思議に思いこそすれ、今後、それを不快だとか腹立たしく感じたりはしないような気がした。ただ、自分が『司馬』という男の生き様や考え方を受け容れつつあるという事実を認めるのが、少しくこそばゆいだけだった。

To Be Continued・・・・・

(2001/6/27)



 へ戻る



−第5話に対する言い訳−
ううう、もんの凄い消化不良な逸話になってるかも…
司馬と石川が言い合うシーンですが、実はもっと沢山のやり取りがありました。書いているうちに科白が止まらなくなっちゃったんですね。危うく、殴り合いになるかと思ったくらいで(爆) しかし、バトルを書く事が目的ではないのでバッサリ削ったところ、なんだか腑抜けた感じに……今更ながら、筆力不足を痛感しておりまする(涙)
それから最後の方でとってつけたように老人医療の話を持ち出していますが、ある程度、実話だったりします。従兄弟の祖母がこういう目に遭いました。意識が無くなってからも物理的に身体が持ち応えられなくなるまで、延々と延命され続けたんですね。何度も「延命しないでくれ」と担当医に申し入れたそうですが、「研究の為」とかなんとか訳判んないこと言われて、聞き入れてもらえなかったそうです。で、医者の友達に聞いたら、ああいう裏事情(?)があることを教えてくれました。
うーん、いろいろ難しいものです←とりあえずノーコメント
※医療問題や尊厳死については、あくまでも私個人が得た情報や個人的見解に基づいてます。ご了承くださりませ。