僕の大切なひとだから  1




交した握手は静謐なものだった。掌から伝わってくる暖かさに、自分は助かったんだという実感がわいてきた。
見上げた先にある顔が柔らかく微笑んでいるのを確かに捉えて微かな驚きを感じたのは、まだ昨日のことのように思える。それは石川が初めて見た、何の裏も感じられない司馬の笑顔だった。
「それじゃ・・・お大事に」
せいせいしたというように去っていった後ろ姿を思い出していると、付き添っていた峰に訊ねられた。
「質問―――オペの前、司馬先生呼んで、何の話、されたんですか?」
渋々承諾書にサインした後、執刀医に会わせろと言ったのは石川自身だった。己が持てるありったけの気力を注ぎ込んで追い落とした男に全てを委ねる覚悟をした上でのことだったが、司馬はそんな自分を一蹴し、こう、言い放ったのだった。
―――今の症状じゃ、助かる可能性は・・・ゼロだ。
自分はドクターとして、お前はクランケとしてスキルスと闘うんだと言われ、却って心が軽くなった。「必ず助けてやる」と宣言されでもしたら、寧ろ不信感を募らせていたかもしれない。人に冷たく打算的で金にも汚い男だと決めつけていたが、期待を持たせるようなことを軽々しく口にしないのは、沢山の患者を救ってきた反面、死にも立ち会ってきた医師として、充分に誠実な姿勢だった。
己の手術を通して司馬と手を携える羽目になるなどと、数日前まで予想だにしなかった。心の底から許せないと思っていた筈の男と共に、こんなかたちで何かに立ち向かうことになるとは・・・と思うと、抗い難い因縁があるかのような気もする。
術後ICU(集中治療室)で顔を合わせて、素直な感謝の気持ちが湧き上ると同時に、奇妙な一体感に支配されたような気がしたのは、近い将来自分達の上に起こる運命をあたかも予見する如くであったことなど、あの時は気づく由もなかったが。
「気になっちゃって・・・教えて下さいよ」
「―――うん」
なおも聞きたがる峰から視線を外して、石川は天井を見上げた。
別に、人に言えないようなことを話したわけではないのだが、石川は何とはなしに司馬との会話を他人に知られたくなかった。何故かは解らないものの、自分の胸の中だけにそっとしまっておきたいと思う心情が、そこには確かに存在していた。
少し眠ろうとして瞼を閉じた。今度目覚めた時にはもうここに司馬がいないのだと思うと、僅かに心の奥が痛んだ。しかし次の瞬間、痛みは現実のものとなって石川の胸元を掻き毟り、術後の脆弱な身体を混沌の深みに落ち込ませていった。周りが騒々しくなり、耳の奥に複数の足音が遠く響き渡ってきた。
「戻ってこいッ!! 石川ァ―――――ッ!!!」
必死に自分の名を呼ぶ声を確かに聞いた。
規則正しい衝撃が左胸の上を掠ったような気がした。
真っ暗な闇をどんどんと下降していくような眩暈に翻弄される。明滅する幾多もの閃光が遠退いていく中、死にもの狂いで手を伸ばし、何かに捕まろうと足掻いた。掴んだそれは、数分前に握手を交した掌の感触にひどくよく似ていると思ったが、果たしてそれが現実のものなのか、薄れていく幻なのか、もう石川には判別がつかなかった。
そうして、どれほどの時間が経過したのだろうか。
まるでいったん沈み込んだ木の葉が水面へ浮かび上がるように、つい、と意識が現実世界へ帰ってきた。
「・・・ったく―――驚かせるな・・・よ、な・・・」
水を打ったように静かな空間の中で、司馬の声だけが空気を震わせるように零れ落ちた。
うっすらと瞬いたその時、泣き笑いしているかのような顔が視界に飛び込んできたのを自分の視力はしっかりと捉えた。だがそれもほんの一瞬のことであり、覚醒した石川が目にすることができたのは、その本心を窺い知るのが困難な、いつもの彼らしい表情だけだった。
司馬の後ろから覗き込むようにして息を呑んでいた面々の感情がワッと堰を切って溢れ出した。峰も沢子も辺りを憚らずに涙ぐみ、稲村や看護婦達が口々に「良かった、良かった・・・」と呟く声が室内をざわめかせ始めた。前野と山村はホッとしたように顔を見合わせ、中川外科部長までがそっと目頭を押さえていた。
「それじゃ、今度こそ、僕はいなくなるから・・・」
石川の上に少し屈み込むようにして、司馬が静かな声で別れを告げた。
「・・・司馬君・・・―――」
少し、顔を捩るようにして、石川は司馬の淡い色合いの虹彩を見つめた。
「―――ありがとう・・・」
その言葉を受けた司馬は、口の端だけを小さく引き上げて笑った。

あれから、何ヶ月たったのだろう―――
医局の仮眠室で浅く微睡みながら、石川玄はぼんやりと天井を見て考えていた。

司馬が天真楼病院を去ってから一ヶ月ほど静養しただけで、石川は職場へ復帰した。中川を始め第一外科の面々としてはもう少し身体が元に戻るまで―――という気持ちはあったものの、実際のところ、司馬と平賀の二人が抜けた穴は大きく、猫の手をも借りたい状態の病院側は石川の復職願いを渡りに船とばかりに受理してしまったのだ。ただし、その勤務時間や担当業務には、かなりの優遇措置がとられることになりはしたが。
一度は死を覚悟した人生である。生き延びられたのは神の気紛れだと思うことに決めた石川は、いたずらに療養期間を設けるより、一人でも多くの患者を診る生活の方を選んだ。それに、平賀についてはともかく、司馬を追い出したのは他ならぬ自分であるからして、その分の責任は負おうとも思っていた。
手掛ける件数は以前より減らされたものの、司馬がいなくなったことで難易度の高いオペが石川にまわってくる回数が増え、また複雑な病状のクランケを任されることも多くなった。そして、この春から、中川外科部長が母校の東都医科大学に外部講師として出向く日数が増加し、部長先生の戦力はまるであてに出来ない状況になったのである。
尤も中川は以前からそこで時々教鞭を取っていたらしいが、ただでさえ外科医が二名辞職して多忙だというのに、よりにもよって担当する授業数を今年度から増やしたその理由が、石川には解せなかった。
以前、沢子が自分に語ったことが、チラリと頭を掠めた。
―――手の、震えか・・・確かに一回大きなミスを犯したドクターが、それ以降恐怖でオペが出来なくなるっていう話は聞いたことあるけど・・・
―――中川先生が最後にやったオペが、あの日のオペなの・・・司馬がミスしたって言われている・・・
―――部長を庇ったってこと・・・?
―――それなら、説明つくと思わない?
彼女の推測通り、中川は本当にメスを持てないのかもしれぬ。だが、それを確かめる手立ては何も無かった。
休憩時間に、今度は自分の方から沢子へそれとなく探りを入れてみたものの、彼女からは、
「この天真楼病院へ中川先生を引き抜いた際に、理事長が約束していたらしいんですよ、講師の件。これからのこともあるから、あまり邪険に出来なかったんじゃないかしら・・・」
と、一見真っ当な意見を頂戴するだけにとどまった。確かに欠員が生じている以上、ここで出身校に恩を売って、優秀な医者をまわしてもらうよう都合をつけるつもりであるとも取れなくは無いが、実際にその手筈を整えている様子は殆ど感じられず、結局その後、半年経っても新しい人員の補充は為されぬままだった。
担当している患者だけでも今の自分には充分にオーバーワークだったが、急患は容赦無く運び込まれ、手術室も連日塞がりがちな状態にさすがの石川も音をあげそうになっていた。そして挫けそうになる度に、あの、人を馬鹿にしたような薄ら笑いを思い出し、負けるものかと己の気持ちを奮い立たせてきたのだが・・・ここへ来て自分の脳裏へと甦ってくるのが、あやふやなものながら確かに見た筈の泣きそうな表情と、最後に司馬が見せた和やかな微笑ばかりになり、石川は戸惑っていた。
(あれほどに反発し、憎み、疎ましく思っていたのに・・・)
事あるごとに対立し闘い抜いた日々が充実していたなどと思っているわけではないが、真向いから敵対する相手が身近にいなくなった今、奇妙な脱力感を覚えることすらあり、最近、司馬について思い巡らす時間が多くなっているのは事実である。
天真楼病院での最後の執刀でこの命を救ってくれたあの男は、良くも悪くも強烈な印象を残し、その存在は自分の中から一生消え去ることは無いだろう―――そう考えると、何故か心が暖かくなる自分を石川は持て余していた。感情はとっくにその理由を探り当てていたが、もちろん理性はそれを認めようとしない。だが、連日仕事に追われ続ける最中、何かの拍子にフッと気が抜けると、その、厳重に蓋をしてある筈の中身が決まって溢れ出しそうになり、石川はそれを抑えるのに必死になっていた。
(まさかこの僕が、あいつを懐かしく思うなんて―――そんな、バカな・・・)
『好意』も『嫌悪』も共に相手を強く意識することから生じる感情である。ましてや自分も技術的には最高のドクターと認めた男の許せなかった部分は、その『生き様』だけだった。大体が職場の同僚だという関係だったので、個人的な部分については何一つ、司馬本人の口から聞いたことは無かったように思う。大学時代に中川の下で勉強していたことも、沢子と過去に親密な交際があったことも、父親を癌で亡くしていることも全て、考えてみれば当人以外の人間からもたらされた情報だった。そして、自分も何一つ、司馬に直接訊こうとはしなかったのだ。
毎日顔を合わせなくなって初めて、石川は司馬のとった行動や発した言葉の意味を離れた位置から冷静に考えるようになっていた。
最初に突っかかっていったのは、自分の方だった。間違ったことを言ったとは思わないが、それが全ての諍いの始まりになったことは紛れもない事実だった。
どんなになじり、責め、罵っても、司馬は決して言い返さなかった。声を荒げることはあっても、自分の糾弾にきちんとした解答を寄越したことは、ただの一度だって無かったのだ。
―――なぜなんだ、司馬君・・・
思い余って手を上げたのも、自分の方だった。
―――どうしてきみは、黙って殴られたんだ・・・
考えれば考えるほど、『司馬』という難攻不落の迷路に嵌まり込んでいくようである。
突然、机上の電話が呼び出し音を立て始め、石川はその意識を委ねていた思考の淵から現実世界へと掬い上げられた。
「はい、医局―――何だって?!」
放り投げるようにして受話器を戻すと、白衣に袖を通すのももどかしく、石川は部屋を飛び出した。

舗道に倒れ込む寸前、視界の片隅に緑色の物体が飛び込んできた。
自分を刺した平賀が慌ててその場から転がるように逃げ出し、既に近辺から遁走していたことなど、その時の司馬には判る筈も無かったが、一応、あたりの様子を窺うようにそっと頭を振った。
遠ざかる意識の中、アスファルトに叩き付けられて唸りをあげるタイヤの音だけが耳につく。夜も遅い時間となれば人通りが途絶えるこの道で、誰かの助けをあてにすることは虚しい希望のように思われた。
渾身の力を振り絞って、公衆電話ボックスを目指し、這い進んだ。とりあえず、救急車を呼ぶくらいは出来るだろう。こんなところで死ぬわけにはいかない。俺は、まだ、死にたくない―――!
その時、
「ちょっと―――大丈夫ですかッ?!」
上方から声が降ってくると同時に、司馬は自分の身体にがっしりした手がかけられたのを感じた。全身に漲っていた緊迫感が緩み、力が抜けていく。
「おい、しっかり・・・あ―――あなた、司馬先生じゃないですか・・・? なんで、また・・・」
抱きかかえられながら、己の素性を知っているらしい声の主を識別しようと、司馬は必死に記憶を弄った。朦朧としながらも目を凝らして、自分を覗き込んでいる実直そうな若い男を見つめ返すが、それはどこかで会ったような顔でもあり、見たこともないような気もした。
一番近くの街灯に光源を求め、下方から司馬の身体を支えるようにして場所を移動した男は、慣れた手つきで傷の具合を確かめると顔を顰めた。
「出血がひどい・・・今、救急車を・・・いや、ここからなら直接、天真楼病院へ―――」
司馬の身体に戦慄が走った。一旦、地面に座らされた後、外傷に触らないような姿勢をとれるよう導いた手際に相手を判別する糸口がありそうな気はしたが、今はそれどころではない。
「・・・天真楼・・・は、だめ・・・だ・・・どこ、か・・・ほか・・・へ―――」
膝をついたまま自分の上半身を受け止めて支えてくれている男の襟首に、思わず手をかけていた。突然、衣服を掴まれて困惑しているらしい相手の瞳を見据えて、途切れ途切れに訴えた。
「・・・あそ、こ・・・は、今・・・オペ、で・・・きる、外科医・・・が、いな・・・い・・・」
目の前の青年は、その一言で全てを察したように頷いた。
「判りました・・・それじゃ、この時間ですから―――神宮厚生か、麻生にあたってみましょう・・・」
通りすがりの善良な男はその場に腰を下ろすと、助けを待つ間、傷口に無理な力がかからぬよう司馬の上体をきちんと立て直してから胸元に手をやって携帯電話を取り出した。二度ボタン押下しただけで発信した相手先が呼び出し音に応じるのを待ち続ける青年の真剣な表情を最後に認めてから、司馬はそっと目を瞑った。

目を開けた時には、ベッドの上に寝かされていた。見上げた天井は、初めて見るものだった。司馬は視線だけをゆっくりと動かして室内を見回した。
「気がつきましたか―――具合は、どうですか?」
聞き覚えのあるその声に顔を捩ると、若い男が椅子から立ちあがってこちらへ一、二歩近づこうとしているところだった。
「・・・ここは・・・?」
たった一言の質問を紡ぐのにさえ、喉がカラカラに干上がっているような感じを覚え、舌の付根が引き攣るようである。
枕元に佇んだ青年は、にっこり笑うと、
「麻生総合病院です。言われたとおり、天真楼へは運びませんでしたよ―――司馬先生」
と告げた。
「なぜ―――僕の、名前を・・・?」
助け起こされた時にきちんと名前を呼ばれたのは、今だに大きな謎だった。
「自分は緒方といいます。渋谷中央消防署のレスキュー隊員です」
司馬は黙ったまま、自分を助けてくれた男の顔をしげしげと見つめた。道理で手慣れていた筈である。救急隊員ならではの身のこなしは、先般の人体に対する扱い方からしても納得がいくことだった。
確かに天真楼病院は渋谷中央消防署の管轄内にあり、救急指定病院となっている。自分が勤務していた時に、この男が急患を運び込んできたことも可能性としてはあるだろう。だが、いくら管内の病院でも救急医師はともかく、外科医の名前まで覚えているものだろうか?
そんな司馬の疑問を察したらしく、緒方と名乗った若者は更に話を続けた。
「外科医は一日に何人もの患者を扱うこともありますから、覚えてらっしゃらないでしょうが・・・四ヶ月前、先生に虫垂炎を手術してもらった緒方亜弓の兄です」
「虫垂炎の、オペ―――」
そんなものは、過去に何件も手掛けている。一体、どのオペだったのか―――懸命に思い出そうとしてもまるで手掛かりを得られず司馬は僅かに瞳を眇めたが、その様子が逆に緒方には該当する記憶を探り当てた如くに映った。
壁際に置かれていたパイプチェアを引き寄せた青年は、腰を落ち着けると、至近距離から司馬の顔を見つめた。
「はい。開腹したら、穿孔性腹膜炎を併発していると言われて・・・」
その言葉を聞いて漸く、司馬もくだんの手術を思い出すことが出来た。さすがに患者の顔はもう覚束ないが、予想外の症状悪化は、余裕を持って臨んだ筈の執刀医をはじめとする一同を驚かせたのだった。押し寄せる戸惑いと差し迫る緊張感の中で懸命に気持ちを落ち着かせようとし、それでも冷や汗が身体の内側をつたう、ぞくりとした感触を余すことなく体験させられたそのオペのことは、生々しい実感を伴って司馬の中に再現されつつあった。
「おかげ様で妹は元気に女子大生、やってます。手術の後で、部長先生から言われました―――『司馬先生の執刀だったから、妹さんは助かったんですよ』って・・・」
緒方の瞳が嬉しそうに輝いた。その様子を目にしながら、司馬は自分の胸に湧きあがってきた複雑な感情を押しとどめようと、無理矢理相槌をうった。
「そう、ですか・・・あの時の・・・」
「はいっ! その節は、ありがとうございました!!」
折り目正しく頭を下げた緒方に、司馬は無言のまま頷いたが、それと同時に中川の人を喰ったような顔が脳裏へくっきりと浮かび上がった。
―――さすが、司馬先生ですねぇ。
聞き飽きるほどに何度も言われた科白は、いつも皮肉めいた笑みと嫉みというには複雑すぎる感情を伴っており、司馬の心にチクリと突き刺さったものだった。何の含みも無く誉められたのは、全てあの日よりも以前のことだったような気がする。
―――君のオペの技術は、ボク譲りだってことを忘れないように、ね・・・
そう―――確かに、あらゆることを中川から教えられ、吸収してきたのは事実である。一生、師として仰ぎ、尊敬していく男だと思っていた。なのに――― 一体、どこで間違ってしまったのだろうか・・・
物思いに耽っていた司馬の意識を緒方の言葉が引き戻した。
「それにしても、今日、そちらは大変でしたね」
「・・・?」
そういえば、自分が呟いた「天真楼以外の病院へ」という言葉を彼がなぜすんなりと受入れたのか、それも不思議なことの一つだったのだが・・・元々感情を露わにしない性質ながら、術後の体力消耗も手伝って余計に無表情となっている司馬の顔が、驚いたようにほんの少し目を見開いたことを気づいた緒方は説明を始めた。
「宵の口に胆嚢炎を受入れてもらおうと思って連絡したら、スキルスの手術中だから手一杯だと言われたんですよ。その患者は、恵比寿クリニックの方に引受けて貰えたんですけど。それに、さっき僕が上がる少し前にも、通報がありまして―――交通事故で重態者が出たらしいですが、現場に到着した同僚からそっちは天真楼に搬送すると無線が入ってましたから・・・司馬先生をお運びしても、果たして台が空いていたかどうか・・・」
119番通報してきた先へ出向いた救急車が患者を乗せ出発して一番に照会するのは、受入れ可能な病院が何箇所存在するかである。自分が天真楼を出てきた後で急患が運び込まれ、結果的に手術台が塞がっていたことなど思いもよらなかった司馬は、その偶然に感謝していた。
ホッとしたような司馬の表情を緒方は別の意味にとったらしかった。
「ここが受入れてくれて良かったです。院長先生の手も空いてましたし・・・すぐ、手術してもらえて」
全く、その通りだった。もしも、天真楼に運ばれていたとしたら、執刀可能な医師は一人もいなかった筈である。あの時院内に残っていた面子からすると、搬送されてきた重態患者の手術はおそらく前野へ任されたことだろう。優秀な外科医だが今はクランケとなっている石川にメスを握れというのはいくらなんでも無理な話であるし、自分の担当患者のオペすら「私には無理です」と言って石川を担ぎ出すような峰が、司馬を前にして執刀できる可能性は非常に低い。おそらく、今まで言い逃れてきたように「私には危険すぎます」とほざいて、助けを呼びにいくのがいいところである。そして、石川に縋れない彼女の頼る先が中川であるのは、まず、間違いない―――
「緒方さん」
司馬は顔を捩ると、命の恩人を見遣った。
「あなたのおかげで、助かりました―――」
「と、とんでもないですよ! レスキュー隊員として、当然のことをしたまでですから――― 一応、非番でしたけどね・・・」
破顔しながらも、照れて顔の前で両手をぶんぶんと振るこの爽やかな好青年に、司馬は心から感謝していた。こうして生き延びられたのも、偶然通りかかった緒方が、救急隊員という職業柄とはいえ迅速かつ的確な判断を下せる人間だったからこそだった。
天真楼病院に於ける最後の執刀はつつがなく終了し、自分は大役を果たした。ここでやり残したことはもう無い―――清々しい気分で職場を後にしようと思った矢先に医局の電話がけたたましく鳴り響き、石川の容態が急変したと知らされたあの時、いいようのない恐怖に襲われたことを思い出す。さんざん人を心配させた挙句に石川はなんとか戻ってきたが、考えてみれば、切り取ったのはボールマンW型アドバンステージのスキルスだ―――手術が成功したからといって、油断していい筈がない。第一、執刀医である自分は少なくとも五年間、術後経過を見守る義務があるのだ。
しかしそれは所詮建て前でしかなく、どうしても石川を失いたくないと思っている自分の感情に、この時、司馬はまだ気づいていなかった。
難しい手術を成功させた自分のプライドにかけても、あいつを死なせる訳にはいかない。仮に再発したとしても、またこの手で助けてみせる。だからこそ、自分があんな冷たい舗道の上で息絶えるなど、あってはならないことなのである。そう思うと、刺されてもこうして助かってしまった己の悪運の強さをつくづく自覚してしまう司馬だった。
「本当に・・・」
司馬はもう一度、緒方を正面から見据えると、
「助かりました―――」
深い謝意を込めて、そう繰り返した。

To Be Continued・・・・・

(1999/8/11)



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−第1話に対する言い訳−
ついに書き始めちゃいました、石川×司馬(略して『イシシバ』)の馴初め話。イチシバ同様、連載になりそうです(泣)
ところで、二人を生き返らせる場合、刺された司馬は中川の執刀で一命をとりとめるというのが王道(?)らしいですが、ヒネクレ者の私は別の病院に運ばれて助かるように手配しました。なぜかというと、『振り奴』第一話で救急隊員として登場した甲本雅裕さん(後の『踊る〜』の緒方巡査だっ・笑)を書きたかったからなのよ!!!(大爆笑) 本当は平賀のその後も書きたいんですが、この展開じゃ無理でしょうねぇ……えーえー、どうせ私は三谷フリークで
TSB(東京サンシャインボーイズ)オタクさっ!
ちなみに『麻生』という名前に首を傾げた方、そうです、この話は今放映されている
TVドラマ『ザ・ドクター』と少しだけリンクします。『振り奴』のパロディと言われているあの話で、司馬先生をモデルとしたらしい神崎俊太郎を演じる某タレント(あいつが俳優なもんか)を見るたび、笑いがこみ上げてくるのは、私だけですかね(爆笑)