僕の大切なひとだから 2
『蛇の道はへび』とはよく言ったものである。
石川の無事を見届けた後、さっさと天真楼を出ていった司馬の行方が知れなかったのは僅かな間だけで、数日後には中川の元にその情報がもたらされていた。
「そうですか・・・それで、司馬君、麻生総合病院に担ぎ込まれた訳、ねぇ・・・で、理事長―――私に、何をしろと・・・?」
自分の場合は決して口外することの出来ない理由から司馬を手放せないできたが、電話の向こうにいる人間の事情は少しばかり違うようだった。
「よもや忘れた訳ではあるまいね、中川先生―――」
中川の背筋にぞくりとした悪寒が走った。
「私はね、中川先生―――あんたがた"二人一緒に"ということだったから、受け容れたんですよ。あんただって司馬先生がいないと、何かとやりにくいでしょう」
呑気そうに間延びした声は普段なら全く気にならないのだが、話題が話題だけに一言一言が鋭い刃となって中川の意識を切り刻み始めた。
一体、何処まで、知られた上でのことだったのだ・・・?
受話器を持ったまま震え出しそうになる左手にあらんかぎりの力を込める。掌にじっとりと汗が滲み始めた。なんとも表現し難い、嫌な感触だ。そう、あの時と同じ―――
元々、中川と司馬が共にここ天真楼病院に移ってくることが出来たのも、ひとえに脳神経外科学を専門とする当時の名誉教授とこの理事長の力によるものだった。
若くして天才的な腕を持ち東都医科大学始まって以来最年少で教授に就任した中川とその秘蔵っ子である司馬の師弟による執刀は様々な伝説を生み、その名は全世界に知られるまでになっていた。国立大学の研究室という一種の公的な機関に所属していたあの頃は、あからさまに金を積まれることは無かったが、それでも手掛けたオペには少なくない報酬が提供され、また、その症例が珍しく難しいものであればあるほど、克服した喜びは倍増したものだった。
だが、いつまでも続くと思い込んでいた、我が世の春は、ある日突然終わりを告げた。
致命的な執刀ミスを犯した師が弟子の前へ跪いた数日後に、まず司馬が―――続いて中川もかの名誉教授に呼ばれ、事情を追求された。そして、恩師であるその名誉教授の計らいにより、中川が天真楼病院の現理事長と引き合わされたのは、あの『魔の日』から丁度一週間後のことだった。
先代の理事長も東都寄りの人間だったこの病院は、今までにもかなり多くの人材をこの大学から受け入れていた。外科に限らず、内科や放射線科、麻酔科―――どこを見回しても必ず一人や二人の出身者がいるだけでなく、一時期は各科の全部長が東都医大出の医師だったことさえあったくらいである。しかし七年前に交代した今の理事長は、大学におもねるような医者の受入れ方に眉を顰め、自分の眼鏡にかなった人材に的を絞り、根気と粘り強さを持って才能を集め始めたのだった。
『東都医科大学卒』というブランドをただありがたがるだけで、医者の腕を二の次にしていたのでは、病院自体の評価が下がってしまう。私立の総合病院としては古い歴史を持つ天真楼だからといって、その輝かしい治療経歴に胡座をかいていては、いずれ足許を掬われるだろう。あらゆる意味と分野での名医を揃えていることが、患者の足をその病院に向かわせる第一条件となるのは、いつの時代にも変らぬ真理に違いなかった。
現理事長の数年に渡る努力の結果、東都医科大卒の医者でありさえすれば後は構わぬといった、大学側の機嫌取りともいえる雰囲気は徐々に払拭され、優秀な医者でなければ天真楼には採用されないという一種のステータスがこの病院の上に確立しつつあった。そして、時の外科部長のカンザス大研究室への移籍が予定されていた天真楼病院ではその後釜にそれ相応の人材を捜し求めている最中であり、大学側の、中川に司馬というおまけをつけての人材放出はまさに渡りに船というタイミングだったのである。
表向きは司馬の手術ミスを庇った中川が責任を取って共に大学を辞した後、揃って私立の名門と言われる総合病院の外科へ下っていったことになった。端から見れば別に何ら不自然なこともない、極めて一般的な移籍のように思えるが、実際にその裏にあったものはそんな単純なからくりではなかった。
大学という場所は、意外に了見が狭いところである。なまじ専門分野に長けた人間が集うだけに、そのレベルの高さは一般社会に於いての同じ業界を凌駕するものがあるのは自明の理なのだが、反面そういった才能に見合うポスト数は世間全般のそれよりも更に限られているのが実情なのだ。そして、少ない席数を巡って熾烈な闘いが水面下で繰り広げられる事実は、如何に崇高な学問の殿堂といえども、人間なら誰もが持ちえている野心に気づかされるいい証明となっているくらいである。
そんな中で飛ぶ鳥落とす勢いだった名コンビの華々しい活躍と高い評価は身近な周囲だけでなく、遍く大衆の目をも引き付け、常に注視されている状態だった。彼らが医学界に及ぼす影響力は意外に大きく、もはやそれを無視できないことは、大学側も認めざるをえなくなっている。当然、中川研究室を配下に納めていた時の名誉教授の許にはより多くの支持が集まり、その学長就任と中川の更なる昇格はそのままでいけば約束されていた未来の筈だった。
しかしその夢は、たった一度の執刀ミスであっさりと潰えた。結果、学内の勢力地図はかなり大幅に塗り替えられるかに思えたのだが・・・
自らも優秀な脳外科医としての経験を積んでいた恩師が自分に下した判断と素早く採った行動は正しかった―――と、今でも中川は思う。
ある程度の失敗は割り引いてもらえる研修医に比べて、既にしっかりした足場を持ち、今、一番の絶頂期にいる筈の男がたった一度の躓きで立ち直れなくなることは、実際にあり得ることだった。
ただでさえ難しい手術には違いなく、注目度の高い二人が執刀してのことだけに、失敗自体が目立ったのはいたしかたのないことだったろう。だが、この師弟を大学の研究室に所属させておく限り、今後も世界中から指名で手術依頼が舞い込み続けるのは、充分に予想されることだった。それでも司馬が執刀してなんとか切り抜けられるものであればいいが、もしもそれが通用しないような手術に当たってしまったら―――
再び起きるかもしれない執刀ミスによって、天下の東都医科大学医学部の信用を墜とすことだけは、絶対に避けねばならなかった。それは既に中川や司馬個人の問題ではなくなっていて、『東都医科大学出身の医者』という日本中の医大の中でも一際抜きんでた名声に翳を落とすような真似は断じて許されぬことであり、常時、大学の評判を念頭に置く者としては何よりも大切な命題であった。
とりあえず、引責辞職という大義名分の許に二人を一般の病院へと移す。環境を変えることによって中川が手術に対する自信を取り戻して第一線へ復帰できれば願ったり叶ったりであり、大学側も改めてこれからの待遇を検討すれば良いのである。また、その後中川が二度とメスを握れないままだとしても、大病院の外科部長ならオペせずとも済むに違いなく―――更に、司馬をその配下につけておけば、手術に関する問題もクリアされるだろう。
一方、病院側からしたら、如何なる理由がその後ろにあろうと、天才師弟コンビを迎え入れられるということが何よりのメリットだった。この場合、少なくとも中川ブランドの宣伝効果と司馬の技術はあてにしていいもので―――こうして双方の合意の許に商談は成立したのだった。
中川は、わなわなと震えだしそうな己の指先に更なる力を込めた。
自分の腕が『天才』などと崇められ注目されなければ、あの失敗はどうということも無かったのに・・・手術が出来なくなった外科医でもただの医者なら、オペ技術を必要としない他の科に移ってでも―――そう、いくらでもこの業界で、普通に生きていく術があったのだ。
「それにしても、石川先生には驚きましたなあ・・・」
こちらの心情など何一つ気にしてはいない、長閑な声は容赦が無い。
「まさか、あんなに正義感が強いとはねえ。まあ、それはそれで長所かもしらんが、いくら司馬先生が気に食わないからって、病院のイメージを損なうようなことしてもらっちゃ、困るんだがねぇ・・・」
「はあ、申し訳ございません」
一応、石川の上司なので謝っておかないと格好がつかないかたちになってしまった中川は、なんだか吹き出しそうになり慌てて詫びの言葉を述べたが、時既に遅く、妙にくぐもった声になってしまった。
「あの後もまた取材申込がきてね、追い返すのに大変だったんだから―――笑い事じゃないよ、君」
口調自体は咎めている風だったが、電話線の向こうの声は相変わらずのんびりとしていて、のうのうと会話を続けている。
「大体、私は司馬先生を手放すつもりなど、無かったんだよ。だけど、騒ぎが大きくなってしまったんで、とりあえずはここから出てもらっただけなんだからね」
理事長の言わんとしているところが、中川にも徐々に見えてきた。
「今、入院している麻生じゃ、まずいんですか? あそこの院長先生も確か東都出身でしたし、跡継ぎの息子さんがどこか離島の診療所へ行ってしまったとか・・・外科医、欲しがってるんじゃないですかねぇ」
「麻生では場所的にウチと近すぎるでしょう。あそこに司馬先生を置いといてみなさい、下手すれば今後もマスコミに追求されかねんよ」
さすが、天真楼病院を立て直しただけのことはある男の発言である。相手に見えないのをいいことに、中川は思い切り顔を顰めた。
要するに再就職先を世話した後も司馬の動向に目を配り、頃合いを見計らって再びここ天真楼へと連れ戻すつもりなのである。確かに司馬の技術は天才的なものであり、しかもその技術が中川仕込みであることがまたその名声を一段と揺るぎ無いものにしていた。それは彼の性格の悪さを差し引いても充分にお釣りのくる腕であることを物語っており、その点に関しては中川自身も理事長の考察に同感してはいた。
だが、司馬にしてみたら、漸く自分と離れられてホッとしているに違いないのだ―――
あの時、己が息子同然に思っていた愛弟子の前で土下座をしたばかりに、人生の歯車が微妙に狂い始め、自分の知らないところで司馬を雁字搦めにし、その身も心も蝕まれ苛まれる結果になってしまったことなど、中川は露程も知らなかった。しかしそれもまた運命の悪戯であり、誰も彼を責めることは出来ないのだが。
「まあ、そうだね・・・一年―――それくらい間をおけば、ほとぼりも醒めるでしょう。それまでに、石川先生の『教育』を頼みますよ。それとも、司馬先生に代わる『お弟子』を御自分で探されるかね?」
その言葉を最後に、底冷えするような静寂が辺りを支配した。こちらの心中を察してか、電話の向こうからは物音一つ、聞こえて来ない。中川は急激な眩暈に襲われたような錯覚を感じていた。
司馬からどんなに軽蔑され楯突かれようとも、結局、自分があの男無しでこの業界を生き抜いていくことは出来ないのかもしれぬ。元はと言えば己の撒いた種である。如何に不本意であっても、今の自分にはそれを甘んじて受けるしか無いことを中川は直感で理解し、覚悟を新たにした。
―――君は嫌がるだろうけど、やはりボク達の付合いはまだまだ続きそうですよ、司馬君・・・
諦めたように目を瞑ると、いまいましいくらいに沈黙している受話器へ向かって静かに告げた。
「山川の天野副院長に、相談してみましょうかねぇ―――あそこも確か、外科医を欲しがっていた筈でしたし」
「おや、天野先生というと、あの、心臓外科の天才と言われている・・・?」
やっと転がりだした話を前にして、理事長の声に微かな張りが出てきた。
「ええ、東都時代は大変お世話になりましてね、まだ、私の顔もお忘れではないでしょう」
「ほう、さすが中川先生だ。天才の周りにはやはり天才が集まる、ということでしょうかな。天野先生然り、司馬先生然り―――」
嫌味とも感嘆ともとれる呟きは、もはや中川の神経に何の感慨も呼び覚まさなくなっていた。「ねえねえ、今度来た外科の先生、クールでカッコいいじゃない」
「あの、つい半年前話題になった、体外肝切除を成功させた先生なんでしょ?」
「ってことは、まだ27ってことぉ?! ヤダ、あたしより年下なんだあ」
「でも、司馬先生って落ちついてらして、とてもそうは見えませんよね」
7月に入り、蒸し暑い日々が続いている。つい最近、内科医と看護婦を一人づつ採用したばかりのここ山川記念病院では、その後、外科医を一人受け入れていた。そして、中途採用の新任ドクターについて看護婦達の噂話が尽きないのはごく当たり前のことであり、もちろんこの病院も例外ではなかった。
「なんでも、港みらい中央病院と取り合ったらしいわよ、あの先生のこと」
「えっ、それでよくココに来てくれましたねぇ・・・港みらいの時任事務長って凄いやり手で、優秀な人材や話題性のある先生を引き抜くには金額に糸目をつけず手段も選ばない、って噂じゃないですか」
一見おっとりしているようだが、その実、芯はしっかりしている看護主任の朝倉由希がなかなか鋭い質問を発した。
「それがね、前いた病院の外科部長がウチの天野副院長の医大時代の後輩ということで、先方からも是非にということになったらしいの。副院長の人脈が効いたみたいね」
普段ならお喋りを諌める立場の婦長も、ここぞとばかりに知っている限りの情報を率先してひけらかす始末である。
「へえ・・・そうなんですか」
まだ勤務日数の浅い新人看護婦である青山晴香にしてみれば、港みらい中央病院の評判は別としても私立病院同士の牽制や対立、馴れ合い等の勢力争いは今一つピンと来なかったのだが、とにかくかなりの人材を手に入れたということだけは理解できていた。
「だけど、ヘンな時期に来られましたよね、司馬先生」
慢性的な人手不足も手伝ってか比較的容易く採用された自分はともかく、やはり天野智子の強力な後ろ盾によってここに迎え入れられた内科医の麻生一真に思いを馳せながら、晴香は思ったままを口にした。
「なんでも、怪我で入院してたらしいわね。天野先生としては、もっと早くから来てもらうつもりだったみたいだけど―――それで、こんな中途半端な時期の受け入れになったって話」
今回に限っては、婦長の情報もなかなか底をつかないようである。
「怪我―――ですか? 外科の先生が・・・」
「なんでまた・・・事故にでも、遭われたんですかね―――?」
意外な事実に首を捻る看護婦たちを尻目に、婦長は手許のカルテを整理しながら、言葉を続けた。
「背中―――ですって。通り魔にいきなり刺されたって噂よ。助けられた時、一番初めに、右手が無事で良かった・・・って思ったんですって、司馬先生」
その場にいた全員が深い溜息を吐いた。病院に勤務している者であっても病気になることはままあるが、怪我―――それも理不尽な災難によって負わされた傷(実は、司馬の場合、自業自得もいいところなのだが)が医者本人に対して如何ほどのダメージを与えるものなのか、皆、計りかねていた。
やや、気まずい雰囲気があたりに忍び寄り始めたが、再び婦長が口火を切った。
「ああいう先生の手術なら、助手してみたいわね」
ここの外科医は切りすぎだと批判的な態度をとることもある彼女から洩れた言葉なだけに、看護婦一同がことごとく振り返った。
「え?」
「だって、多くの同業者が『最高の技術を持っているドクター』と認めた先生なのよ。執刀するところ、間近で見てみたいじゃない」
その時、研修医の倉田透がナースセンターに入ってきた。
「―――凄かったですよ、司馬先生」
まるで注目を集めるかのように勿体をつけたその言い方は、充分な効果を発揮した。
「倉田先生、グッドタイミング!」
「ちょうどその話をしてたんですよ」
きゃあきゃあと騒ぐ看護婦達を前にして、倉田がゆっくりとその場を見まわすように向き直った。
「倉田先生―――もしかして、早速、司馬先生の手術助手、されたんですか?」
由希が少し驚いたように小さく首を傾げた。
「ええ。願い出たら、やらせてもらえました」
声が少し上ずっていることから推しても、倉田がかなり熱心に司馬へ頼み込んだのは間違いなさそうである。
「で、どうでした? 司馬先生のお手並みは」
婦長の興味津々といった眼差しを受けた倉田は、興奮さめやらぬといった面持ちで言葉を続けた。
「はい。噂には聞いていましたが、まさに神業でした。早いけれど丁寧で、決して雑ではない―――時間も文句無しです。今まで僕が出会った中では、最高のドクターです。神崎先生より上かもしれません!」
心酔しきった表情のまま司馬の魅力を語る倉田を由希は複雑な心境で眺めつつ、自分と深い関係にある神崎俊太郎のことを考えた。以前、神崎に向かって、「あなたには人の心が分からない。いくらオペの技術が優れていても、医者としては失格だ」と言いきったことが思い出された。しかしその技術だけにせよこの山川記念病院の外科内で最も優秀な者として評価されていた足場が、司馬という新任のドクターが現われたことにより、あっさり崩れ去ろうとしているのである。
あの、傲慢な神崎が頼りにしていた唯一の砦を守れなくなったら、一体、どうなるのだろう・・・
そんな彼女の心中を察する者はここに誰一人として存在しないことが、今の由希にとって唯一の慰めだった。ICUに駆け込んだ石川は一番手前にいた看護婦の表情から、患者の容態が極めて芳しくないものであることを本能的に感じ取っていた。
「血圧は?! ヴァイタルッ!!」
聞いたところで役には立つまいと内心思いつつも、一応確認すべきことであればおざなりに出来ず、きちんと手順を踏むのが、自分の長所でもあり、また短所でもあると思う。
ベッドの上の病人は苦しそうに表情を歪め、その顔からは脂汗が吹き出し、残された力を振り絞ってひたすらのたうちまわっている。傍では患者の妻と娘が大きく瞳を見開いたまま、おろおろしながらその光景と心電図とを交互に見比べるばかりである。
ピーーー ―――
「ステロイドッ!!!」
石川の言葉よりも早く、伊東みつ子が電気ゴテを差し出した。今まで何度も患者の死に目に立ち会ってきたベテラン看護婦なだけあって、信頼出来るその動作は時として治療に当たる医師にも力を与えてくれるのだが、今回ばかりはその効果もあてに出来そうに無かった。
患者の容態もあとどれくらい生きられるのかも頭の中でなら幾らでも冷静に分析し、判断を下すことが可能である。しかし死に行くその姿を目前にすると、いつも理性が吹っ飛び、自分の中に湧き上がる無力感やそれに対する猛烈な怒りを抑えられず、叫び出しそうになるのだ。
「行くな・・・行く、な―――」
一時的な電気ショックと心臓マッサージのおかげでとりあえず心電図にはいつもの波形が戻ってきた。だが、次にまた、このパルスが乱れたら・・・
傍らでひっそりと息を詰めていた存在が、石川を呼んだ。
「先生―――もう、充分です・・・」
「奥さん・・・」
小柄な女性はこの患者が入院して以来、長いこと献身的な看病を続けてきた連れ合いだった。
「しかし・・・」
ほんの少しでも生存の望みがあるのなら諦めてはならないと思う反面、苦しむ患者に対して楽にしてやりたいという気持ちが芽生えるのは、医者としてごく自然な感情であるのだが・・・
優しげな目をした婦人は自分の肩に顔を埋めて鳴咽している娘の黒髪を撫でながら、か細いが凛とした声で石川にはっきりと告げた。
「どんなに苦しくとも助かるのなら、主人も喜んで体の痛みに耐えるでしょう。でも、もう長くはありますまい。今までこの人は充分頑張って、病気と闘ってきました。これ以上、この人を―――主人の体を痛めつけたくないんです・・・」
ふいに石川の脳裏へ冷たい声が甦り、頭の中でこだました。
―――俺、無駄なオペはしないよ?
あの時も確か、どう考えても助からない末期癌の患者だった。オペの後、縫合不全による腹膜炎を起こし苦しんでいた病人を「モルヒネ打っとけ」と切り捨てた司馬はどんな想いでいたのだろう。再び施術して助かるのなら、どんなに手間のかかることであろうともそれを『無駄』とは言えない筈である。
―――患者が苦しんでいるのに、胸が痛まないのか?!
怒りのあまり司馬を怒鳴りつけたのは、間違っていなかったと思う。その後行った処置については、確かに患者の家族がそれを望み、自分に感謝もしてくれたことだった。だが、再手術しても助かる見込みの無い患者の腹を再び開いたことは、果たしてどれだけの負担をその身体に与えたのだろうか。今となっては司馬の言うとおり、モルヒネを打って一時的に痛みを和らげてやった方が良かったのかもしれないと思いはじめている己に、石川は驚き呆れていた。
一体、自分は今まで何をやってきたのだろう? 患者をいたわることにかけては、あの男に勝りこそすれ劣るなどと思ったことは無かった。技術はともかく、医者もとい人としての基本的な部分では絶対に上を行っていると思い込んでいたのに―――自分は、彼の何を見てきたのだろう?
(何だってこんな時に、きみのことなんか、思い出すんだ・・・)
動揺している自分とは対照的に、毅然とした態度で主治医の様子を見守っている患者の家族を前にして、石川は曖昧に頷くのがやっとだった。To Be Continued・・・・・
(1999/10/4)
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−第2話に対する言い訳−
まず、東都医科大学についてですが。今後のストーリー展開上、公立大学でないと都合が悪いので、国立ということにしました。名前からしたら私立大だと思うんですけどね(苦笑)
それから大学時代の中川先生の役職(?)なんですけど。友人の医者に聞いたところ「助教授で自分の名前を冠した研究室を持てることなんて、ゼッタイに無い!!!」と言われてしまいまして……研究室のトップは当然名誉教授か教授、その下に助教授もしくは他大学の教授がつくのが一般的だそうです。という訳で、ウチの中川先生は大学時代、既に教授だったことにしました。でも、よ〜くビデオ見直すと、確かに問題のオペ最中、司馬が「助教授」って呼びかけてる…(爆死)
そして、オリキャラ考えるアタマと時間が無いのでリンクさせた『ザ・ドクター』ですが、麻生院長が急死した為に沖縄は石垣島の診療所から戻ってきた息子の麻生一真が、実は外科医の過去を持ちながら手術中に患者を死なせて以来そのショックから立ち直れずにいて、それを知っている天野智子(麻生院長とは旧知の間柄)に誘われ山川記念病院で内科医として働き出したというのが基本設定になっています。といっても、麻生一真の実家って本当(ドラマの中では、という意味)は個人病院だったみたいですね。非常にいいかげんな見方しかしてなかったので、このドラマのファンの方がもしもいらっしゃいましても、どうか、ツッコマないでください〜〜〜(ぺこぺこぺこ)
更に、最後の方の石川先生サイドのエピソードなんですが……実は、ビデオを見直して最初にひっかかったのが第一話の「無駄なオペ云々」だったんです。まあ、患者の年齢や体力にもよりますが、末期癌で再度オペしたら身体に負担かかって大変なんじゃないかな?と思ってしまったのですね。医療知識に関しては所詮『ブラック・ジャック』止まりなので、出来ればツッコマないでください………
(あああ、本当に言い訳ばっかだーーーー)