僕の大切なひとだから  最終話




具の種類や品数からすると栄養的にはそこそこ合格ラインへ達するのと消化がいいからという理由で、注文は鍋焼きうどんになった。
電話をかけてから実際に配達されてくるまで、先刻の話題を蒸し返す時間はあっただろうが、司馬も石川も敢えてそうしようとしなかった。再び口を開いて、うどんが来るまでに話が落ちつくかどうかが疑問だったし、もしも話している最中に届いたりしたら、品が品だけに伸びてしまって食べられなくなる可能性が高かったからである。
そんなことを互いに思い巡らしていたからか、食べている間も二人は始終無言だった。
考えてみれば、天真楼病院でも自分達が食事を共にしたことは無かった。昼の休憩に於いては、石川が峰やナースに引っ張られて一緒に摂らされるケースが多かったのに対し、司馬は大概一人―――纏わりついてくる前野から逃げ切れず、社員食堂で席を並べることも稀にあったが―――で済ませていた。それに勤務時間が退けた後、犬猿の仲とも評された人間同士でプライヴェートな意味合いの強い夕食へ移行することは、まず有り得なかったのである。
司馬は向かいで同じようにうどんの汁を啜っている男を盗み見た。
今日は石川相手に初めて経験することばかりの連続だった。初めて穏やかな会話を交わし、初めて二人、病院以外の場所を揃って移動した。初めて石川の自宅へ引き入れられ、初めて彼の私事を知った。更に、初めて石川に頼み事をし、初めてあの事件の一部を打ち明けた。そして、今、初めて一緒に食事をしている―――
口をきかなくても、一人で食するよりずっと美味しいと思った。先般から室内の空気は様々な変化にうねったが、この部屋へ来てから二人で過ごした僅か一時間半の間に司馬の意識は石川との距離をかなり詰めていた。自分の中でがちがちに固まっていた何かが少しづつその角を削り取られているようだった。
食べ終わると胸の前で小さく両手を合わせ「ごちそうさま」と呟いた石川の行儀良さを目にして、(こういうとこも、ばあさんに躾られたかな・・・)と思いつつ、司馬は彼の人格形成に多大な影響を与えた筈の見知らぬ老婦人へ一頻り想いを馳せた。
「食べた後は、一服したくなるんじゃないのかい? 灰皿、まだ片付けてないから―――吸ってくれば?」
その間にここを片しておくからさ―――と出前の鍋をキッチンのシンクに下げた後、更に石川から追い立てられた司馬は再びバルコニーへ出て、食後の一本を燻らした。
外は完全な夜となって、辺りの建物が徐々に瞬きの数を増やしていた。
季節に関係なく、都会の夜がその姿をある一定のかたちに留めていることはまず無い。田舎でなら、人家の灯がちろちろと燃える時間が過ぎた後、世界中が死に絶えたような暗さがその上を覆い、夜として一つの形態を完成させる。だが、都市の夜景は洪水のように迸る幾多もの光を供給し、暗さから深みを奪い、寧ろ夜の底の浅さを殊更知らしめる如くに姿を変えてゆく。それはこの世に確かなものが何一つないのと同じく、移ろいゆく石川と司馬の関係を象徴するかのようだった。
たった八ヶ月顔を合わせなかっただけなのに、自分達が互いに向けていたありとあらゆる感情が変化していた。
離れていた間、異なる職場でそれぞれの仕事を勤めてきた。その間も何かにつけ、相手のことを幾度となく想っていた筈だった。今思えば、そうして、憧憬のような予感を各々の中へ生じさせたのかもしれぬ。
永い寂寥はゆるやかな懐想となり、二人の再会をかつてないものにした。
失われた筈の時間が次々と自分たちの上に積み重なってゆく。改めて持ち始めた相手への興味や想いは一秒ごとにその大きさを増し、今や堰を切って溢れ出しそうだった。
―――僕は、きみをもっと知りたい・・・
自分も同じだった。
最初に抱いた意識の在り処が底辺であればある程、その後のベクトルは上向きにしかならなぬことを理論上なら理解できる。しかし、過去の経験値はそれをすんなり許容できるほど寛大なつくりになっていない―――
それでも、この気持ちが嫌ではなかった。積極的に認めたくはないが、己の中にプラスとして働くことを本能が察知している。いずれその心地良さに屈することはもはや疑うことの不可能な未来となりつつあった。
司馬は二本目に火を点けようとして、手を止めた。
掃出し窓のガラスが少し開いて、石川が半身を覗かせる。視線を向けると、少しはにかんだ微笑がその上に広がった。

彼を嫌いでない。
彼が気になって仕方がない。
彼と歓びや笑いを分かち合い、彼の苦しみや悲しみを受け止めたい。
そして、何よりも―――彼に、傍にいてほしい。

互いにとって誰よりも大切なひとが、今、触れ合えるほど近くに立っている。

「おい、中へ入るぞ」
隣で手摺りに凭れかかった石川の視線が彷徨う先を無意識に追いかけそうになる自分へ少々呆れながら、司馬は薄いシャツ一枚の姿をたしなめた。暗がり故にはっきり識別できずとも、穏やかな顔をしているに違いない石川の身体は、つかず離れずの程良い距離を司馬との間に空けている。
「もう少し、いいだろ・・・きみだって、あと一本くらい吸いたいんじゃ、ないのか?」
「―――夜風は、体に悪い」
司馬の一言は、墓穴を掘ってしまった―――石川の声が露骨に嬉しそうな張りを帯びたのだ。
「心配してくれてるのかい?」
無言のまま、わざと大きな動作でそっぽを向いた。だが相手は全く怯まなかった。
「―――ありがとう」
心底嬉しそうに感謝されてもなお、彼を拒否出来る人間が一体どれほどいるのだろう。司馬は石川の干渉を煩がっていた過去の自分が別人のように思えてならなかった。だからといって、今すぐ態度や言動を180度変えるようなことはプライドにかけて出来る筈もない。せいぜい尊大な言い方にならぬよう気を配ることで切り抜けようとした。
「・・・判ってんなら、さっさと入れ」
これ以上余計なことを言えば自分の本心を吐露してしまいかねない気がした。司馬は石川の後ろを擦り抜けて、自分の方から先に室内へ戻ろうとして―――突如、肩を掴まれその動きを阻まれた。石川が両腕を前方へとまわして、司馬の鎖骨あたりで交差させる。気がつくと、そうして後ろから抱きすくめられていた。
「司馬君―――」
首筋の右側をサラサラした髪がくすぐった。石川らしい爽やかな香りを感じた。
司馬はその場で硬直してしまった。鼓動が耳の奥へ大きな音を響かせ始め、凄まじい勢いでそのスピードを上げてゆく。
相手は病人だ、突き飛ばすわけにはいかない―――それがただの建て前でしかないことは、とっくに自覚していた。
石川の掌が伝える暖かさは、未だ踏ん張っていた司馬の頑なな心をじわじわと暖め、遂に溶かしてしまった。逃さないようしっかりと掴むためだけに曲げられた指と指の間が生み出した緊張感は、既にその隙間から零れ落ち、しっとりとした安堵を司馬の身体の上に感じさせている。
だが、今だ躊躇いからくる虚勢が司馬の口から飛び出した。
「―――離せ」
「イヤだ」
抱き込んでいる男の願いを静かな声で拒絶した石川は、その腕に力を込め、更に司馬を強く引き寄せた。
「おい、石川―――」
「司馬君―――もう、僕から逃げないでくれ」
吐息のような囁きが司馬の鼓膜を直截に震わせた。耳の奥に痺れが走る。何かの錯覚には思えなかった。司馬の身体と心が同時にわなないた。
「僕は・・・きみの傍にいたい。これから、ずっと―――」
「何、言って―――」
声が掠れる。言葉も上手く続けられない。突如、自分自身を襲った眩暈のするような幸慶から己を引き離そうとする努力も虚しく、司馬の意識は石川の零す甘い毒のような呪文に縛られ、自力で動くことが敵わなくなっていた。
「僕は、きみともっと早く出会いたかった―――そしたら、僕達はあんな争いに時間を取られないで済んだかもしれないね・・・」
もはやこの男から逃れることは不可能だった。石川玄という名の媚薬が全身に回ってしまったのだ。
「でも、今からだって遅くはない・・・僕達は、あの頃と違った関係を築いていけると思うんだ。二人とも、お互いを必要としてるんだよ。それは―――きみだって解っている筈だろう・・・?」
しまった、お手上げだ―――
『万事休す』という言葉がまさにピタリと嵌ったようだ。こんなことなら、先に冠状動脈肺動脈起始症の話をするんじゃなかった―――司馬は自分の考え違いを恨めしく思った。
トラブルは時と場所を選ばず、突発的に起きることが殆どだ。だから対処できるものは後回しにせず、早め早めに手を打っていくのが司馬のやり方だった。それが自分にとってどうしても切り抜けたい厄介事であればあるほど、誰かの力を頼みにする前に、やれるだけのことはやっておいた方が気分的にも楽であった。
そういう訳で、己が天真楼へ戻ってから中川の業務命令として石川の助力を取り付けるよりは、今日ここで説得しておいた方が後々楽になるだろうという、先見の明に過ぎなかったのだ。そして、実にありがたいことではあったのだが、石川がまず何も言わずにオペの手伝いを承諾してくれたおかげで、司馬は彼に借りをつくってしまうことになった。
その後、必要最小限に留めた自分の話を耳にしても尚、石川はその決意を翻さなかった。勘のいい男だから、こちらがわざとお茶を濁した箇所へ潜む真相に気づいている可能性も大いにあるのだが、とにかく、感じているらしい疑問をすべて呑み込み、余計な詮索をせずに話を終わらせてくれたのである。そうして二人が共犯者となってしまった以上、司馬に石川を拒むことは出来なくなっていた。
一旦引き受けた手術であるし、遠い異国から長時間かけて搬送されてくるクランケのことを考えたなら、人一倍患者のためを思って行動する石川が司馬への貸しを取り立てるようなことはしないに違いなく―――それ故、その重みが余計に増した。
しかしそれは司馬にとって苦痛を与えるどころか、寧ろ手放せない絆と成り変るに違いなかった。昔、中川と密かに取り交わした約束もそうだった―――今思えば間違った選択だったが、その絆は今だ自分を縛り上げ中川から引き離そうとしない現実をこうして司馬に知らしめている。
おそらく石川との間もそうなるのだろう―――漠としたものながら、それは確信となって司馬の中に芽生えていた。
背中から伝わってくる体温が気持ち良い。
自分に触れている石川の一部一部がすべて心地良い感触を伴って、己の体内へと蓄積されてゆく。司馬は身体の中から力みが抜けてゆくのをはっきりと感じた。皮膚が呼吸し、温もりを全身へ満たす準備を始めたようだった。
それは奇妙な歓びだった。泣いていいのか笑っていいのか―――天真楼病院で多くの時間を共有していた三ヶ月間も二人が互いの歩みを別々に刻んでいた八ヶ月間も、この日の為に用意されていたような気がした。脇坂が大いなる悪意と僅かの後ろめたさを持って中川へ突き出した手術依頼ですら、司馬には今日自分と石川がこうして手を繋ぎ合うため用意された、お膳立ての如くに思えた。
この共犯関係が今後どう変化してゆくのかまるで見極められないことに対し、不安を感じないと言えば嘘になる。しかし、その相手が石川であるなら本望のような気がしていた。
司馬はその手を石川のそれにゆっくりと重ねた。
天真楼病院を去ろうとしていたあの夜、同じように絡みついてきた沢子の手を自分はそっと外した。だが、今は違う―――司馬は己の中にもある同じ暖かさを掌から伝えるために、少しく体温の失われた石川の手を愛おしむようにして包み込んだ。互いの間で、確かな想いが息づきはじめた瞬間だった。

本当に身体が冷えてしまう前にと、二人は暖かい室内へとって返した。なんとなく定位置になってしまったソファへ腰を下ろした司馬を視界の隅で確認しながら、石川は食後のコーヒーを淹れ、リビングまで戻った。
直接手渡されたカップの熱さが、すっかり冷たくなってしまった両の手を徐々に温めてゆく。湯気の上へ息を吹きかけようとして、司馬がふいに口を開いた。
「そういや、なんで、ブラックだって知ってたんだ?」
過去、己の嗜好について明かしたことなどただの一度もなかった筈である。でも石川は、司馬がブラックで飲むことを知っていた。沢子にでも聞いたかな・・・とも思ったが―――
「え? ああ、なんとなく―――きみ、黒、好きそうだから」
「?」
「だから、着てる服も黒いものが多いし、コーヒーもそうかな・・・って―――それにさ」
直感にしても、随分いい加減な理由付けだった。しかしその後に続けられた合理的な考え方が、いかにもアメリカ帰りの石川らしく感じられて、なんだか司馬には可笑しかった。
「砂糖やミルク入れちゃって、ダメだったらその分は捨てるしかないけど、ブラックなら後からでも足せるだろ?―――司馬君・・・?」
おい、石川―――おまえってやつは・・・
司馬は吹き出しそうな顔を見られまいと下を向いたが、喉を突いて出たくぐもった音が石川の耳にも届いたようだった。
「どうしたの・・・? 具合、悪い?」
心配そうに覗き込まれて、司馬は思わず顔を上げていた。だが、笑うのを我慢した分、それは声音に影響し語尾が震えた。
「い、いや・・・おまえらしいと思って―――」
石川が怪訝な顔をした。
「?」
「カンだけで動いてるのかと思えば、ヘンなところでちゃんと理屈通してるのが、石川センセイだよな」
どう考えても誉められているとはいいがたい科白に、今までの自分だったら馬鹿にされたと決めつけ、腹を立てていたことだろう。だが、必死に笑いを堪えている司馬の顔を石川が見るのは、実にこれが初めてだった。そんな姿を目の前にしながら、自分も気分を害した顔をしてみせたところで所詮長続きはしないに決まっている。結局、石川が発した一言も、心持ち拗ねたような応酬で終わった。
「・・・悪かったなっ」
目を合わせた二人は一呼吸置くと、ほぼ同時に吹き出した。

山川記念病院の副院長室を約八ヶ月ぶりに訪れた中川は、重厚な皮張りのソファへゆったりと腰を落ち着けていた。南向きのこの部屋は午後の陽光の暖かさをしっかりと室内へ留めておける位置にあった。昔、自分と司馬がいた研究室もこんな長閑な光が降り注ぐ場所であったことが思い出される。晴れた日などはあまりの気持ち良さに、睡魔の誘惑へ負けそうになることも度々だったのだ。
中川は、向かいに座っている大切な息子へ視線を合わせた。
彼がここへ移る前―――刺されて入院していた頃に一度、見舞いという名目で麻生総合病院へ出向いて、今後の身の振り方を相談したのが最後だった。その後、自分からは連絡を取らなかったし司馬も何一つ言っては来なかったが、正式な辞令が発令されるまで後一週間となったこの日、中川は母校の講義を終えたその足で山川記念病院へやって来た。司馬と石川が再会して十日以上が過ぎていた。
自分がその背を押した時にはまだどうなるか判らなかった石川と司馬との関係が、過去とは似ても似つかぬものに変化したらしいことは、翌日報告に来た部下の態度で見当がついた。ややきまり悪げではあったが、山川記念病院を訪ねて良かったと口にした後に石川から見せられた照れくさそうな表情は、二人の関係が少なくとも友情を取り交わせるまでには好転しているということを中川へきちんと伝え、一先ず安堵させていた。
その瞬間より、天真楼病院の外科部長は本格的に動き始めた。理事長からの了解を正式に取り付け、山川記念病院副院長である天野へ連絡を取り、司馬の移籍についての細かな段取りを決めていった。元々、いずれ呼び戻すという条件で司馬を預かってもらっていたとはいえ、性格と態度についてはともかく超一流の技術を持つ外科医が一人減るのである。貴重な戦力を失うことによってダメージを受ける方の事情も考慮に入れ、日程等に関する山川側の希望を出来る限り尊重するのは最低限の礼儀だった。
前もって打ち合わせておいた通りに司馬は副院長室で自分の到着を待ち受けていた。中川の訪問と入れ替わりで天野は出かけてしまい、司馬の手の中へまたも部屋の鍵が残されていた。
「ふ・・・ん―――で、石川先生は了承済、ってことですか?」
一部始終を聞いて満足げに頷いた中川は、出されたコーヒーカップに手を伸ばすと、中身を一口だけ啜った。
司馬が目の前で笑いを噛み殺そうとしている。しかし其処に、二人して天真楼に移ってからよく見られるようになった底知れぬ翳りのような仄昏い笑みは無かった。寧ろ、やってしまった悪戯の可笑しさを一所懸命堪えているといった方がいい風情だった。
冠状動脈肺動脈起始症のオペを一人でやるなど、正気の沙汰ではない―――善人面した東都医科大学学長は自分に寄越した電話の中で深い溜息を吐いてみせたが、その後ろには事の成り行きを嘲嗤う歪んだ性根が見え隠れしていた。中川は適当に相槌をうち、早々に受話器を戻してしまった。
司馬がやたらに脇坂へ刃向かうほど向こう見ずな男でないのは、付合いの長い中川にもよく判っていた。だが、愛弟子に如何な勝算があるのかということになると、恩師にもてんで見当がつけられぬ態だった。
しかし、石川と司馬とで手を携えたなら手術の成功率が飛躍的に撥ね上がるのは間違いなかった。自分だってその可能性を考えなかった訳ではない。だが、司馬を取り戻した後、二人がコンビを組まざるを得ないということをどうやってそれぞれに納得させようかと思うと頭が痛かった。
以前、自分が業務命令として二人を同じオペ室へ入れた時の苦い記憶が、どうしても甦ってきてしまう。あの時は司馬一人の腕でなんとかなった。けれど今回は、そう都合よくもいくまい―――
ところが、その厄介な部分はなんと既に解決してしまっていた。中川は心から驚き、素直に司馬の功績を称えた。
「さすが、司馬君ですねぇ―――やる事が実に抜け目ない。でも、学長が納得しますかねぇ・・・」
「そこは、部長のお力で―――」
司馬はそこで言葉を切ったが、その背後にある様々な感情について中川も思うところはあった。司馬が舐めた辛酸は、本来、自分が舐めさせられるべきものなのだ。
「そ、ね・・・ボクの出番でしょうねぇ」
犯した罪の重さを忘れるつもりはないが、それ故自分を謗り、苦しめる権利を持つのは目の前にいる男ただ一人の筈だった。にも拘わらず、司馬以外の人間からいつまでも辛苦を享受させられるのは理不尽でしかない。今回のオペ依頼に於いて、脇坂は高みの見物を決め込んだ。何が楽しいのか判らぬが、自分と司馬へ試練を与えはしても助けるために手を差し伸べる気がないことは明白だった。
「理由はどうにでもなるでしょう。確かに誰にでも出来る術式ではないですが、優秀な外科医であればそれをものにすることは可能です。若き才能を評価するのは、先生の十八番じゃないですか」
「確かにね――― 一人だけその技術を持っていても、あの症状を前にしては、宝の持ち腐れもいいところですからねぇ・・・」
「それに、僕達がこのオペに成功すれば―――」
もう一つ大きなメリットがついてくることに司馬は気がついていた。
「理事長も、お喜びになるんじゃないですか?」
中川という天才の仕込んだ司馬の『技術』にのみ執着し商品価値を見出している理事長の方が、二人にとっては扱いやすい相手であった。石川と司馬が手術を成功させれば、天真楼病院の外科医だけの力でそれを為し得たことになり、脇坂の鼻を明かせるのである。そうなれば、疵物と知らず高い金を払わされた理事長のプライドに入ったひびを少しは埋めることが出来る筈だった。
「いいでしょう、それくらい・・・天真楼病院外科部長の大英断ということで、押し通してみせますよ―――で、石川君の特訓、するんでしょ?」
「技術的には問題ないと思いますが、スピードアップは必要ですから」
「そだね」
「過去、『あなた』とだったから成功したオペですので―――」
司馬が持ち続けている自分への紛う方なき思慕が、聢と伝わってきた。
「司馬君」
中川も微笑み返す。
「君が戻ってきてくれることになって、ボクは本当に嬉しいですよ―――」
「―――ありがとうございます」
こんな風に暖かい部屋で、昔はよく医学についての話題を交し、研究への情熱を高めたものだった。あの頃に比べたら中川も司馬も多くのものを失い傷つき、それぞれの苦しみの中でのたうち回ったが、何れも過ぎたことである。どんなに激しく荒れ狂おうとも、通り過ぎない嵐などないことを二人は長い道程を経て漸く理解していた。

「でね」
先に部屋を出ようとしてドアノブに手をかけた中川が、ふいに振り返った。眼差しが悪戯っぽく笑っている。
「君がウチに戻ってくる理由と経緯ね―――オペのこともあるけど、石川君が説得したことにしておきましょうね」
「―――?」
司馬が目を丸くした。教え子の見せた表情を前にして、中川の茶目っ気は大いなる満足感を覚えていた。
一旦、病院を出された医者が返り咲く―――優秀な人材であれば別段珍しいことでもないのだが、司馬の場合、腕の方は問題なくとも人としての評判が厄介だった。古巣の第一外科だけでなく、院内のあちこちからブーイングが起こる可能性が大きいのである。だから、中川としては有無を言わせぬ口実が必要だった。
そもそも笹岡の一件が落ち着いた後、いつでも彼を呼び戻せるようにと増員計画をストップさせていたことは、絶対知られてはならない事実であった。司馬が山川へ勤務しだしたのは7月に入ってからだったが、一年どころか僅か四ヶ月経ったかそこらにも拘わらず、短気な理事長は早いところ司馬を戻せと中川にせっついていたくらいである。
だから、脇坂のオペ依頼は理事長にとっても中川にとってもある意味では天恵と言えた。日本医師連盟からの依頼なら、病院中の不満と疑問を納得させ、黙らせることが可能だった。
そして、もう一つ―――
「だって石川君から、戻ってこないか―――って、言われたんでしょ?」
石川が自ら中川へ打ち明けたそのエピソードは、沢子や峰や稲村や幾人かの看護婦達―――あの二人が激しい闘いを繰り広げていた時代を間近で見ているしかなかった人間達を驚かせると同時に、その認識を改めさせる格好の材料になりそうだった。石川による『説得』というのがキーになるだろう。それを聞いて誰がどう感じるかは、司馬が戻ってきてからのお楽しみという訳である。
―――ボクの考えていることなど、お見通しでしょう? 司馬君・・・
恩師と目だけで会話した愛弟子は、少し呆れたように瞬いたが、
「・・・―――ご自由に・・・」
と呟いてすぐ、苦笑するかような表情になった。

副院長室を出て最初の角を左へ曲がれば外科病棟へ、真っ直ぐ進んで三つ先の角を右へ折れ数十メートル歩けば吹き抜けの玄関ロビーへ出られるようになっている。司馬はその角まで中川と肩を並べて歩き、近日中に再び己の上司となる男の後姿を見送った。
踵を返し、早足で持ち場へと向かう。一週間後、司馬にはいろいろな意味で懐かしい場所である天真楼病院の廊下をこうして歩いていることだろう。
そこでは石川が自分を待っている。
多くの誤解及び時間の制約が、自分達をあの激しい闘いの日々へと駆り立てた。だが、それが無駄だったとは思わない。こうしてまた二人の人生を交錯させたのが神の気紛れだとしても、ならばそれが『定め』なのだろう。
自分と石川の関係はまだこれからどうなるか解らない。熱い火花を散らし危うく命を落としそうになった序章が三ヶ月をもって終った後、八ヶ月の長きに渡った小休止はやっと腰を上げたばかりなのだ。
今からがスタートだった。
とりあえずの目標は、冠状動脈肺動脈起始症の手術依頼に向けて、石川の腕を鍛えることだった。
医者は人の命を救うために働く。医学のめざましい進歩が果てしない生命の神秘に打ち勝つことはいつの世を迎えても有り得ぬことかもしれなかったが、自分達医学を修めた者がその限界へ挑むのに際し、出来る限りの事前準備を怠るような真似だけはしてならぬのだ。
中川が過去己へ鞭を揮ったように、自分も石川へ術式を叩き込むだろう。研究室の長たる教授とその直弟子だった研修医の場合は、始終行動を共にしていられたし教わる時間に期限は区切られていなかった。だが、今回は闘病しながら勤務についている石川と、復帰すれば夜勤やオペ件数が今ここにいる時の軽く倍にはなるであろう司馬という、現役外科医同士の組み合わせである。オペの日取りが決まれば、それに合わせて訓練を急がなければならなかった。
それでも、石川なら大丈夫だろう―――
あいつなら、技術面ではもちろん精神面に於いても自分の施す特訓にきちんとついてこられるに違いないと、司馬は信じていた。当時は人間の持つありとあらゆる悪感情だけでぶつかり合っていたが、そうして司馬は石川を理解させられ、石川も司馬を認めさせられてきたのだ。信頼できると言い切るまでにはまだ足りないかもしれぬが、その信用が誤まったものでないことだけは確かだった。
相手の存在をこの世で一番遠くに感じていたあの頃から、自分達は知らぬ間にずっと向き合っていたのだ。いつも『彼』を意識しその動きを無視できないまま、魂を削るような闘いへ身を投じて眼前の争いにだけ気持ちを傾けた。
様々な対立が病院内で渦巻き、石川の拳が空を切ったこともあった。黒い紙幣を受け取った司馬の手は、何人かの協力を取り付けるためにそれを配ろうとして、怪しい動きを積み重ねていった。
しかし、手にはもっと違う、有効な使い方がある筈であり―――
怒鳴ったり凄んだりする度に襟首を掴み合ってきたそれぞれの指を初めて共通の目的の為に繋いだのが、スキルスのオペをした時だった。あの日、司馬はドクターとして石川はクランケとして闘いの場であるオペ室へ臨み、無事生還を果した。そして今、再びその手が携えられ、今度は共にドクターとして一つの手術の成功を目指そうとしている。
時々、こうして石川の手を取れればいいのだと、司馬は考えていた。
だがそれは、大いなる思い違いだった。互いの指が絡み合い身体が引き寄せられ、どうやっても離れられなくなるような運命が待ち構えていることを司馬も、天真楼病院にいる石川も、まだこの時は知らない。
時に1993年は11月も最後の週であり、あと一月と少しで、二人が出会ってから丁度一年の時を迎えようとしていた。

(2000/2/14)


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−最終話に対する言い訳−
やった〜〜〜 やっと…やっと、終わりましたあああああぁぁぁぁぁーーーーー!!!!!
ここまでお付き合いくださいました皆様、本当に本当に本当に、どうもありがとうございます(ぺこぺこぺこぺこ〜)

そして、最後まで読んで「チッ、キスもエッチも無いじゃん」と思った皆様には、深くお詫び申し上げまする〜(笑)
実は元々この話はここまでで、本当に『馴初め』だけなんです。書き始めた当初はキスくらいまでいくかな〜と思っていたのですが、ウチの石川と司馬が揃って抵抗するので、どうしても書くことが出来ませんでした(大爆笑) その代わり…という訳ではないですが、そういうオイシイ部分は全て、この後二人が一線を越える話へ引き継がれることとなります。どうぞ、ご期待ください←こんなこと言っていいのか(死)
それから、最近ご要望(?)が増えてきたようですので、ちょっとお断りさせていただきます。
ウチの『司馬分室』は別名『司馬君の幸せを祈る会』ということになっております。相手が誰であれ、司馬が幸せでない話を扱う気はありません。早い話、石川×司馬シリーズで言えば、脇坂×司馬の番外編が書かれることはないということです。興味を持たれている方には申し訳ありませんが、ご了承くださりませ。

しかし、まさか14話も書くことになろうとは―――はい、思っていませんでした。今思えば、『振り奴』キャラ および 作品世界をナメてかかってましたね……深〜く、反省してます(大爆笑)
石川と司馬の関係に於いては、柳原紫苑様の『石川先生と司馬先生のその後』で書かれている考察を殆どそのまま使わせていただきました。どうもありがとうございます!!!
そして、脇坂学長との間にあった取引を含む司馬と中川の上に起きた一連の過去については、前出の柳原紫苑様のほか、シハヤ様
Katsumi篠原祐理様に練り上げていただいたものです。お陰様でいろいろ細部がキッチリおさまる素晴らしいプロットをいただくことが出来ました。それをこうして使わせてもらえて、感謝、感謝です〜!!!