夢のあとさき 1
目を覚ました時、何かの気配を感じた。
いつも傍らでくっつくようにして眠っている体温は、今日に限り無い筈だった。夜勤明けで数時間前に部屋へ帰ってきた天真楼病院第一外科所属の外科医・司馬江太郎は、独りでベッドへ潜り込んだからだ。だが、右隣には、微かな熱量が横たわっている。
通常ならば、隣にいるのは同僚でもある恋人の石川玄以外に考えられないのだが、昨晩、自分は確かに夜間当直医として働いていた。今朝方、日勤の石川とは顔を合せなかったものの、彼は間違いなく入れ替わりで勤務についているだろう。その、石川以外の人間を家に引き入れたなどと、凡そ考えられることではなかった。
しかし、右側の違和感は、依然として消えない。
軽く瞬いた後、右方へ目をやって―――司馬は仰天した。
そこで横になっていたのは、小さな子供だった。司馬の右上腕へ鼻を擦りつけるようにして、微かな寝息を立てている。
(何だ、こいつは・・・?)
頭の中が、真っ白になった。今、自分の身に何が起きているのか、全く理解できなかった。
それでも少しすると、懸命に事態を把握しようとしてか、混乱していた脳がフル稼働し始めた。
まず、今いる場所の確認だ。ここは自分の部屋で、間違いはない。見覚えのあり過ぎる壁や天井、馴染んだ寝具、チェストの上へ無造作に置かれた衣類など、どこをどう見てもそうとしか結論付けられないからである。
ということは、やはり夜勤を終えて帰ってきて、自室で一眠りした後の筈だ。ならば一体、この子供は何者で、どこからやってきたのだろうか。
しげしげと、隣で眠る、あどけない顔を見た。三歳児くらいの男の子で、頬に被さった睫毛が黒く、色白の肌によく映えている。だが、その顔立ちには、自分のよく知る人物の面影があるような気もする。
まさか―――
小説や漫画で、一晩寝て目覚めたら登場人物が突然若返っているという話を読んだことはあった。しかしそれは、フィクションの世界でしか起こり得ない展開であろう。
(ということは、夢、か?)
司馬は、数回、強く目を瞑ってから、思い切って瞼を開けてみた。けれども、隣の子供は、そこに存在したままだ。まあ、仮に夢の中だとして、自分から目覚めようとしてできるものなのかは判らないし、こいつが消えてくれない以上、今暫くはこの状況を受け入れてみるしかないか―――と、妙な決意を固めた司馬の鼓膜に、耳慣れない音が響いた。
「う・・・ん」
子供が呻き声を発したのだ。長い睫毛が震えて、次の瞬間、その瞳がパチリと開いた。
目を覚ましたその顔は、石川とそっくりだった。そう、彼に息子がいたなら、きっとこんな姿形だろうと信じられるような―――
「だ、れ・・・」
声だけは子供特有の甲高さを備えていたが、声質も石川のそれを彷彿とさせた。
(やはり、おまえ、なのか・・・?)
「・・・げ、ん・・・?」
おそるおそる、その名前を呼んでみる。子供は首を軽く傾げたが、すぐにはっきりした口調で言った。
「げん、は、ぼくのなまえ。おじちゃん、は? だれ?」
(―――おじちゃん、かよ・・・)
まあ、このくらいの子供からしたら、大人の男はみんな『おじちゃん』かもしれないが―――少しばかり傷ついた心持ちで、司馬は隣で目をパチクリさせている、チビの顔を覗き込んだ。
「おじちゃん、じゃない。お兄ちゃん、だ」
「おにいちゃん?」
素直に返してくるところは、いかにも石川本人らしい。司馬が頷くと、チビは先程と同じ質問をした。
「おにいちゃんは、だれ?」
司馬はちょっと考えたが、この部屋でいつも石川が口にしている呼び名が自然とこぼれた。
「江太郎、だ」
「こう、たろう?」
舌足らずな甘い声が、司馬の名前を復唱した。黒い瞳がきらきらと輝いて見返してきた。
「こうたろう、だっこ!!」
叫んだ小さな身体は、ぴとっと司馬に貼りついてきた。小児特有の高い体温が、温かみを直截に伝えてくる。そこで初めて司馬は、自分はもちろん、子供の方も素っ裸であることに気がついた。
今は11月も半ばで、本格的な寒さが日毎に増してきていた。この家の寝室は北西にあり、日中でもあまり日差しに暖めてもらえる場所ではない。なぜ互いに何も着てないのか、という疑問はさておき、このチビに風邪をひかせる訳にはいかなかった。
湯たんぽのような身体を包み込む態に抱いてから、司馬は毛布を自分の肩上まで引っ張り上げた。
「玄・・・寒くない、か?」
「ううん、あったかいよ」
司馬に護られるようにして抱えられた子供は、何がおかしいのか、くすくすと笑いを漏らした。その、幸せそうな様子を目にしていると、この不自然な状況も気にならなくなってくる。腕の中だけでなく、全身を暖かな何かで満たされてゆくような心地すら、している。
このまま、また眠っちまえば、いいかも、な―――
次に目覚めた時には、現実世界へ戻れているかもしれない。だが、この、小さくて愛らしい姿はなかなか司馬の目を瞑らせてくれなかった。
サラサラした黒い髪に陶器めいた白い肌。ばら色の頬はほんのりと甘いお菓子を思わせる。小さな蕾のような口許からは、白蝶貝みたいな歯が覗いていた。そして、一番の特徴ともいえる大きな黒い瞳が黒曜石の如くに煌めき、司馬自身を捕えて離そうとしない。
自分にずっと注がれている視線を感じてか、腕の中の存在が顔を上げて問いかけてきた。
「なに、みてるの」
「・・・ん?」
おまえを見ていたんだ、などと口にする訳にもいかず、司馬は少し俯いて目線を外した。だが、子供は大人のそういう挙動を見逃さず、敏感に反応する。チビが下方へ潜るように頭を動かして、司馬の瞳を覗き込んできた。
じっと見つめられて、今一度、逃げようとしていた司馬の意識が立ち止まった。
大きな黒目は、世の中の穢れや歪みをまだ知らないだけでなく、そういったマイナス感情を跳ねのける強さをも感じさせた。大人になった石川が多くの人を惹きつけ魅了させているその源泉が、既にこの眼差しへ宿っているような気がした。
「なにか、よくない・・・の?」
大人ならさしずめ「具合でも悪いのか?」と訊くのだろうが、まだそれほどの語彙がないらしい。それでもチビながらに一所懸命、考えたらしい問いかけは、心配そうな声と相俟って司馬の心を小さく抉った。
「い、や・・・」
何と答えたものか、と考えて言葉に詰まる。チビの瞳が不安げに瞬く。
「気にしなくて、いいんだ」
精々、安心させようとして、できるだけ優しく言ったつもりだったが、あまり効果はなかったようだ。というのもチビが真剣な声で、こう返してきたからだ。
「こうたろう、わらうの」
チビは両手を伸ばすと、司馬の顔へ触れた。
「こうするの」
口許の外側に小さな掌が添えられる。そのままグッと口角を上げるように引っ張られた。
「わらうと、いいことがある―――って、おばあちゃん、いつも、いってる」
この時分から祖母へよく預けられていたのだろうか―――と、司馬はやるせない気持ちになった。相手を気遣おうとする性質は元から備わっていたかもしれないが、自分よりも更に弱く幼い妹の喘息症状悪化を前にした小さな子供が自然と我慢するようになった結果の『使命感』であるようにも思え、愛憐の情が湧き上がってきた。
「そう・・・か」
呟いた司馬の口許が自然と綻んだ。漸く安堵したらしいチビが、手を離した。
二人は、黙って見つめ合った。
不思議と気まずさはなかった。いつまでもこうしていられそうな晏如が仄暗い室内を満たしてゆく。
その、心地よさに己を委ねて今度こそ目を瞑ろうとした司馬へ向かい、秘密を打ち明けるような声で、チビが話しかけてきた。
「こうたろう、あのね」
「・・・何だ?」
「おなか、すいた」
「そう、か・・・」
司馬は心の中だけで天井を仰いだ。一体、今は何時だ?
周囲の明度からでは時刻の見当をつけることが難しい。この部屋に時計そのものはなく、出窓に置いてあるCDプレイヤー兼ラジオコンポがその役目を担っていた。時刻表示にアラーム設定機能が付いているため、目覚まし時計の替わりともなっているのだ。しかし、チビを抱きかかえたまま司馬が頸を捩って見ることのできる範囲に、その液晶表示は入ってこない。
自身が時間の感覚を全く捉えられないでいることからも、今いる世界は『夢』でしかない証拠のように感じた。とはいえ、チビが訴えてきた空腹をそのまま放置するのも気がひける。
だが、この家に、子供へ食べさせられそうな何かがあっただろうか?
職場である天真楼病院第一外科での勤務時間以外の多くを今では石川と共にいるようになったが、割合でみると、二人で過ごす場所は彼の部屋である方が多い。だから食事もそちらで摂ることがほとんどで、此処には簡単なものが作れる程度の食材しか置いていないのだ。しかも大人の男が二人となると、ストックしてある食品そのものが、頻繁に消費して入れ替わるものか長期保存のきくものの何れかとなる。
小さな身体を抱きながら、
(とりあえずは冷蔵庫ン中、覗いてみてから、か・・・)
と考えて司馬は、はたと気付いた。
(こいつの服は・・・どうなってんだ?)
夢なら、子供服ぐらい、近くに脱ぎ散らかしてありそうだが―――
司馬は大人しく自分の腕に収まっているチビの顔を覗き込んで告げた。
「玄―――起きるぞ」
「うんっ!!」
勢いよく返事した子供は、すぐに司馬の懐から抜け出し、ベッドの右側へ転げ落ちた。慌てて上体を起こした司馬がそちらへ向き直ると、小さな身体が床にあったらしい服を掴んで頭から被っていた。
(とにかく何か、着るモンはあった・・・ってことだな)
左側からベッドを降りると、司馬はすぐ脇のチェストへ置いてあった、裏起毛加工されているスウェット素材の上下を身に着けた。もっと寒くなれば下に一枚着込むが、今の時節はギリギリこれだけで済むので重宝している。
何かが足に当たった気がして下を見た。ダブダブのトレーナーのようなものを着たチビがそこに貼りついていた。
頭を撫でてやると、チビは顔を上げて司馬を見つめ、にっこりと笑った。目が釘付けになるほどの笑顔だ。その、破壊的な可愛らしさに、思わず眩暈がしそうになった。
(子供の時から、こんなだったのか・・・)
手を出してやれば、小さな指が絡みついて、ぎゅっと握り返してくる。
チビと手を繋いだまま、司馬はリビングへ移動した。
所詮、男の一人暮らしだ。ダイニングテーブルなどは無く、食事―――というより酒のつまみといった方が相応しい皿―――を摂る時は、キッチンに併設された出窓式のカウンターテーブルかリビングのソファテーブルで、ということになる。尤も、それは石川の家であっても同様なのだが。
子供の姿勢を安定させるためにはソファではない方がいいだろうと判断した司馬は、チビをカウンターテーブルに向かい合わせて置いてある高椅子へ腰掛けさせた。やはり座高が、全然、合わない。
「ちょっと、待ってろ」
チビの頭を軽く撫でてから、ソファの上にある揃いのクッションを取って戻った。
いったんチビの身体を抱きかかえて自分の腕に引き取ると、座面にそのクッションを一つ置き、椅子の脊にはもう一つを立てかけた。そうして嵩上げさせた高椅子の上に再度、チビを下ろした。
「うん、ちょうどいいっ」
チビが満足そうに司馬を見返してきた。カウンターテーブルに頬杖をついた子供の様子を一瞥してから、司馬は冷蔵庫のドアを開けた。
(マジでロクなもん、ねーじゃねーか・・・)
卵、牛乳、ヨーグルト、ベーコン。冷凍室にはパッケージングされたほうれん草とブロッコリーしか無かった。他には、一昨日、石川が来た時に作り置いていった総菜が幾種類か―――しかし、それらは大人用に味付けられたものだ。苦味や辛味といった、本来、小さな子供にはまだ早い味覚が含まれているし、アルコール分だって入っている。やはり、チビのためには何か、作る必要があるだろう。
夢なんだから食材くらいちゃんと入れとけよな、と何処に八つ当たってるのか自分でもよく判らなかったが、とにかくある材料でなんとかしなければならない。
背後のチビが、期待に満ちた声で話しかけてきた。
「こうたろう、なに、つくってくれるの?」
「・・・出来てからの、お楽しみ、だ」
振り返ると、わくわく感を漲らせた瞳がこちらを見ている。
このカウンターテーブルはキッチン全体に面しているのではなく、シンクと調理スペースの一部分の上にだけ張り出して設えられており、残りの調理スペースとコンロ台は壁に接していた。テーブルとしては大人二人が使うのに丁度いい長さとやや心許ない幅で、ちょっとした軽食を摂る程度の用途しか想定されていない設計なのだ。しかし、小さな子供ならば、この程度の奥行であっても充分食事することが可能だった。
チビはカウンターテーブルの上で両手を突っ張るように投げ出すと、キョロキョロと視線を泳がせはじめた。
二脚ある高椅子のうち、キッチン側から見て向かって左側に腰掛けさせたので、チビの正面には冷蔵庫と食器棚が左右に並んで見えている筈だ。少し顔を右側に捩って覗き込めば、更に右奥の棚や右手前のコンロ台の様子も目にすることができる。
好奇の眼差しであちこちを見遣っている子供の姿を視界の隅で確認しながら、司馬は1cmほどの角切りにしたベーコンを小鍋に入れた。軽くオリーブ油で炒めてから、牛乳と水、顆粒コンソメを少量加えて煮込む。鍋の中がふつふつ沸くまでの間で卵3個をボウルに割入れ、出汁と砂糖を加えて手早くかき混ぜる。小鍋の中が煮立ってきたタイミングで、冷凍ほうれん草の袋を開け、鍋へ投入した。冷凍野菜は下茹でやアク抜きをした上で急冷加工されているので、扱いが楽だ。ひと煮立ちさせればそれで出来上がる。
続けて、小さめのフライパンに薄くサラダ油をひきコンロへかける。先刻、溶いた卵液の1/3を熱くなったフライパンに流し入れ、半熟状態になったら箸で手前へ巻いていく。この時にフライパンを下45度から上45度に持ち上げるようにして手前へ傾けるのがコツだ。巻き終わった卵を奥にずらし、手前の空いたスペースへ再度、サラダ油をひく。卵液1/3をそこへ流し入れ、再び半熟状になったら手前へ巻いて、巻き終わったら奥へずらす。これをもう一回繰り返せばよい。
日頃、子供と接することのない司馬としては、食べやすそうなものをと思って作るのが精々だった。ベーコンとほうれん草と牛乳の方は塩味、玉子焼きは甘味。どちらか一方だけでもチビの口に合ってくれれば、と祈るばかりだ。
「いいにおいが、するっ」
チビの嬉しそうな声がした。
カフェオレボウル大のカップにほうれん草とベーコンのホワイトスープを盛ってやり、玉子焼きは切り分けて横長の皿にのせた。
「熱いから、気をつけろ」
出された料理を珍しそうに見ている姿にフォークとスプーンを渡してやった。子供用など無いから、普通のサイズだ。チビはフォークを手に取って持ち辛そうにしている。
そういえば、主食がない―――
司馬は急いでストックしてある食パンを2枚取り出し、壁際にあるトースターへセットした。昔、付き合っていた大槻沢子に押し付けられたそのトースターは中に型抜きされた板が入っていて、焼き上がると或る動物の顔がステンシルされたように浮かび上がってくる。二人が一緒に暮らしていた頃、休日に出かけた由緒ある神社の骨董市で、沢子がそれを買い上げた。
元々は70年代に製造された大人気製品だそうで、本来、市場に出回る筈はないのだが、店をたたんだ町の電器店から引き取った在庫の中にこのお宝が眠っていたとの説明を受けた彼女は、それを大して値切りもせずに購入した。だから、別れた時には当然、彼女が持っていったと思っていた。けれども、この部屋に移って数多のダンボールを解いていると、シーツやリネンなどを梱包してあった一箱の中から、バスタオルでぐるぐる巻きにされたこのトースターがちょこんと顔を出したのだ。
後に沢子と再び会話するようになっても、司馬がトースターのことを訊けたのは大分経ってからだったが、
「司馬くんの生活空間の中にも、ああいう可愛いものが一つくらいあった方がいいと思って、譲ってあげたのよ」
と涼しい顔で言われた。
嫌なら買い替えれば?と茶目っ気のある瞳が笑いかけてきた。しかし製品としての機能や動作に問題はなかったため、司馬はそれをキッチンの片隅へ置いたままにした。そうして久しく休眠状態だったトースターだが、石川が訪ねてくるようになってからは使用される頻度が上がっている。
その、家電としては随分と可愛らし過ぎる外観―――本体の側面にくだんの動物が七匹、小さく並んで描かれているのだ―――と、沢子の置き土産だという逸話をかなり気に入ったらしい石川は、ここで食事をする度にこのトースターを使いたがる。そのせいで食パンだけは常備しておく癖がついてしまった。尤も、石川の部屋では米を主食とすることが大方であるから、食生活に於いては丁度いい変化がつけられているといえなくもない。
チン、と音がして、トースターが綺麗に焼き色をつけた食パン2枚を跳ね上げた。パン皿にのせて目の前に差し出した途端、チビが目を輝かせた。
「うわあ、パンダだ!!」
バターを塗ると、濃い焼き色のついたパンダの耳や目の部分とほとんど焼けていない顔の部分それぞれにじゅわっと沁み込んでいく。何か不思議なものでも見ているかのように、チビはその様子へ見入っている。
「どうした? 食べないのか?」
司馬が訊くと、大きな黒い瞳が瞬きもせずに見返してきた。
「こうたろうも」
「ん?」
「こうたろうも、いっしょに、たべるの」
なるほど、このチビは『先に一人で手をつける』ことへ抵抗を感じていたのか。
調理と並行して使った器具類を片付けていくのは子供の頃からの家事経験ですっかり身についている。最後に使ったフライパンを洗ってさっと拭き取ると軽く火にかけて残っている僅かな水分を飛ばし、コンロを止めた。己の箸を持ってキッチンを出た司馬が隣の高椅子へ腰を下ろしたことを見届けると、チビはやっと胸の前で両手を合わせ、大きな声で言った。
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すいません、妙なところで切っていますが、字数との兼ね合いでこうなりました。
まだまだ続きます。とりあえず、次を読んでください。
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